平安夢柔話

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天守閣の中へ ~掛川城散歩3

2006-09-24 16:13:17 | 旅の記録
 石段を昇りきったときは、正直言って息が切れていました。やはり運動不足ですね~。

 さて、天守閣の入り口で靴を脱ぎ、渡されたビニールに脱いだ靴を入れます。中に入ると10段くらいの急な階段が目に入りました。その階段を昇りきった所が天守閣の1階です。ここでは、馬に乗った一豊の像が出迎えてくれます。うーん、なかなか格好良いです。



 このフロアーには、一豊の鎧が展示されているのですが、帰りにゆっくり見ることにして、先を急ぎました。

 2階では、掛川城の歴史についての説明アナウンスが流れています。最初は今川家の出城だったこと、天正十八年に一豊が城主となったことなどを説明しています。3階にはアナウンスも流れていませんし、特に見るものはないのですが、それだけに当時の天守閣の内部の様子を堪能できます。とにかく薄暗かったです。曇っているのでよけいにそう感じたのかもしれませんが…。

 そして次の4階が最上階になります。昇りきったときはほっとしました。とにかく階段が急でしたので。お城の天守閣というのは、下から敵が簡単に昇ってこられないように、急な階段を造ってあるのでしょうね。以前訪れたことのある彦根城、姫路城、松江城(いずれも現存天守閣だそうです)も、階段が急でした。

 では、最上階の南側から見た外の景色をどうぞ。掛川駅やホテルが見えます。写真には写っていませんが、このはるか向こうが遠州灘です。



 12年前に来たときは、素晴らしい晴天だったので、景色ももう少しきれいに見えたのを思い出します。そして、観光客も私たちの他には一組しかいませんでした。その一組というのがなかなか印象的だったので、今でもよく覚えています。大相撲の力士さんと、そのご両親らしい方だったのです。力士さんはまだ若く、入門したばかりのようで、髷もまだ短かったです。でも、しっかり着物を着ていました。「お相撲さんって、どこに行くにも着物を着ているんだ~」と感心したものです。
 するとお母様らしい人が、うちのだんなさんに向かって、「3人で写真を撮りたいのでシャッターを押していただけませんか?」と頼んできたのでした。それで、だんなさんがお相撲さん一家の写真を撮ったのです。

 お相撲さんの名前を聞き忘れてしまったことを、今ではとても後悔しています。だんなさんは、「入門した年や年齢、お母さんの顔かたちから考えて、静岡市出身で、現在十両(秋場所に十両上位で9勝したので、来場所には幕内に上がれるかもしれませんが)の潮丸関では…」と言っていますが、はっきりしたことはわからないので残念です。

 ちょっと話が横道にそれてしまいましたが、今回は「功名が辻」の影響か、畳十畳ほどの広さのフロアーに15人くらいの観光客がいて、外の景色を楽しんでいました。
 ガイドさんらしい人が、5、6人ほどの観光客の団体さんに向かって、色々と説明をしています。掛川城のあるあたりは海から12㎞離れているなど、私の知らなかったことも話しておられました。

 さて、最上階からの景色を堪能したあとは、来たときとは逆に急な階段を降りていきます。私は元々下りの階段が苦手なので、手すりにつかまって一段一段ゆっくりと降りていきました。

 そしてようやく1階まで降りてきました。ここには、掛川城ゆかりの色々なものが展示されています。さて、お目当ての一豊の鎧は……。12年前と同じく、しっかり展示されていました。と言うわけで、ようやく再会できた一豊の鎧をどうぞ。



 この鎧は、掛川城天守閣が復元・公開されたとき、土佐山内家の子孫の方が寄贈なさったものなのだそうです。その当時、鎧を寄贈した山内家の子孫の方がインタビューをされているのを私もニュースで観たのですが、実直そうな方で一豊の面影があるように思えました。

 考えてみるとこの天守閣は、一豊が初めて築いた天守閣なのですよね。その大切な天守閣を手放すのはさぞ残念だっただろうな…と天守閣の中を歩きながら思いました。しかしそれ以上に、掛川城を手放すことは一豊にとっては、自分の領地を大きくするか、それとも一文無しになるかの大きな賭だったのです。「手放すのは残念だ」などと考えている余裕はなかったかもしれません。

 慶長五年(1600)、徳川家康は、会津の上杉景勝討伐のために兵を率いて出陣します。その際、一豊も家康に従いました。
 ところがその途上、「石田三成が大阪で兵を挙げた」という情報が家康の許に届きます。この情報を密使に託して伝えたのは、一説には千代だったとも言われています。

 家康は従軍してきた諸侯たちに向かい、
「大阪にいる妻子が心配であろう。かえってもよいぞ。」と言います。しかし諸侯たちは口をそろえて、「私たちは家康殿のために戦います」と言いました。それでも家康は、諸侯たちのことが信用できません。なぜならば彼らは、みな豊臣恩顧の大名だったからです。
 すると、
「私は掛川城を家康殿に差し上げます。」
と言った者がいました。言うまでもなく山内一豊です。すると他の諸侯たちも、「それがしも」「それがしも」と、みんな城と領地を家康に指しだしたのでした。

 つまり、関ヶ原合戦当時の一豊は、実は領地も城もなかったのでした。もし家康が関ヶ原で負けていたら、一豊はそのまま浪人になっていたのです。掛川城を家康に差し出すということは、一豊にとってはそれだけ大きな賭だったわけです。
 そしてその蔭には、千代のアドバイスがあったのではないかな…という気がします。賢くて、世の中の動きを的確に判断する能力を持った千代は、「次に天下を取るのは家康殿」と判断し、自分たちの運命を家康に賭けたのでしょうね。そして、その賭は成功したと言えます。一豊は、家康が関ヶ原で勝利した後、土佐一国を与えられ、二十四万石の大大名になったのでした。

 そんなことを考えながら、掛川城の天守閣をじっと見てみました。どこからか一豊と千代が現れてきそうな錯覚を覚えました。