平安夢柔話

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紫式部伝

2006-07-01 00:25:49 | 図書室1
 今回は、1ヶ月ほど前に読んだ紫式部に関する本を紹介いたします。

☆紫式部伝 源氏物語はいつ、いかにして書かれたか
著者・斎藤正昭 発行・笠間書院
税込価格 ・2,310円


 では、本の内容と目次を紹介いたします。

 従来、顧みられることのなかった勧修寺流・具平親王・帚木三帖をキーワードに、紫式部の生涯を通して浮かびあがった、源氏物語成立の謎に迫る。

[目次]
家系―勧修寺流との繋がり/家族と出生/幼少期から少女期/少女期から青春期/越前下向以前/越前下向/結婚/結婚期/寡居期(上)/寡居期(下)帚木三帖の誕生/初出仕/「桐壺」巻の誕生/土御門邸行啓/御冊子作り/玉鬘十帖の誕生/晩期/「若菜上」巻以降の『源氏物語』/没後


 この本は、紫式部の生涯を、「紫式部日記」や「紫式部集」などを参考にしながら、著者独自の見解によってまとめられたものです。研究書という色の濃い本ですが、一般の読者も対象にしているとのことです。そのためか、「紫式部日記」や「紫式部集」などの古典の原文が多数引用されていますが、それぞれ現代語訳と解説がついているので、とてもわかりやすいです。

 紫式部の生涯だけでなく、彼女の家系、周囲の人々についてのエピソードも書かれており、大変興味深く感じました。

 またこの本では、本の紹介文にもあるように「源氏物語」の成立過程についてにも触れられていました。そこで、成立過程について書かれていることを簡単に列挙してみますね。

☆紫式部は少女時代、具平親王の許で宮仕えをしていた。

☆帚木三帖『帚木』『空蝉』『夕顔』は寡居期に書かれた。そして、この三帖における光源氏のモデルは具平親王である。『帚木』『空蝉』の光源氏と伊予介・紀伊守るの関係は、具平親王と為時・為頼の主従関係を連想させられる。また、『夕顔』における夕顔怪死事件は、具平親王の愛妾であった雑仕女の怪死事件と状況が似ている。

☆『蓬生』『関屋』と『玉鬘十帖』を除く「藤裏葉」までの巻は、一条天皇が土御門に行幸した寛弘五年十一月までに成立した。そのうちのラストの二帖『梅枝』と『藤裏葉』は、敦成親王誕生から一条天皇の土御門殿行幸の頃に書かれたのではないか。

☆『玉鬘十帖』は、寛弘七年の道長の次女妍子の春宮入内のために献上する目的で書かれたのではないか。

☆『若菜上』以降は、その後4年間の間に執筆された。しかし、紫式部が一番最後に執筆したのは『夢浮橋』ではなく『竹河』である。

 「源氏物語」五十四帖がどのような順序で書かれたかについては諸説あり、当時の文献が新しく発見されない限りは推測の域を出ないものかもしれません。それでも私はなぜか「源氏物語」の成立過程には興味があります。紫式部という女性に心ひかれると同時に、「源氏物語」をリアルタイムで読んでいた千年前の人たちと同じ順序で読んでみたい…という欲求があるせいなのかもしれませんが…。この本に書かれた「源氏物語」の成立過程についても、諸説あるうちの一つなのかもしれませんが、私にとっては「なるほど…」と新しい発見の連続でした。

 この「紫式部伝」を読んで、「源氏物語」や紫式部にさらに興味が出てきました。「源氏物語」や「紫式部日記」、3年ほど前に読んだ紫式部の伝記「人物叢書 紫式部(今井源衛 吉川弘文館)」もまた読み返してみたいです。