大河ドラマ「義経」第37回の感想です。
歴史的なことはもちろんですが、TVドラマとしての物語そのものもつじつまが合わず、つっこみ所満載で、どのように感想を書いていいかわからなくなってしまいました。取りあえず今回も思いついたことを少し書かせていただきますね。
まずドラマの最初の方で義経が、「宝剣を捜さなくては…」と言っていましたが、「おいおい義経くん、あなたは合戦が終わってから今まで、宝剣を捜そうとせずゆっくりしていたの?」と思わずつっこんでしまいました。そう言えば義経くん、おとくばあさんを相手に昔をなつかしんでいたり、能子と海岸で会っていたりといやにのんびりしていたような…。
本来なら壇ノ浦合戦が終わったあとの義経は、きっと郎党達に命じて血眼になって宝剣を捜していたはずだと私は思います。
「三種の神器があればこちらで新しい天皇を立てられたのに。」と言う時政さん。
一瞬「その通りだよね。」と思いましたが、この時代の武士はまだまだそこまでの力はなかったのではないだろうか?と再び考えてしまいました。
ただ義経は、「三種の神器のうち宝剣を除く二つを手に入れましたが、後白河法皇に返すべきでしょうか?それとも兄上の許に持っていった方がよいでしょうか?」と、頼朝におうかがいを立てるべきだったように思えます。
「鎌倉殿は九郎殿の心中を疑っているということを父上が言っていました。」とわざわざ教えに来る景季くん。
景季は確か、この時期から間もなく、頼朝に反抗している動きのある義経を尋問するために派遣されてくるはずなのですが、これでは壇ノ浦合戦が終わったこの時期でも義経に心酔しているように感じられます。これで尋問なんてできるのか心配になってきます。となると、景季が義経を尋問する場面はこのドラマではカットになるのでしょうか?
それにしても、「兄上から疑われる理由がわからない。」という義経くん……。
義経が頼朝から疑われている一番の理由が、「総大将である兄頼朝の許可なく、自分の大将でもない後白河法皇から官位をもらってしまったという、義経の信じられない行動にあるのだろう。」というそのことが全くわかっていないようですね。「官位は京を離れる時に法皇様にお返しする。」って……。
義経くん、あなたは何を甘えたことを言っているの?「今すぐ返しなさいよね。そしていったん鎌倉に帰った方がいいよ。」とつっこんでいました。
そして、相変わらず武士のことがちっともわかっていない義経の郎党達……。この義経主従を見ていると、頼朝から疑われたり追われてしまったりする理由がわかるような気がしてきます。だんなさんは、『本当にこのような行動を義経が執っていたとするならば、頼朝から追討されて当たり前だ。俺が頼朝であっても、同じ命令を発する。』と、これまでの義経の色々な言動に対して呆れていました。
そして今回の極めつけのつっこみ所は、義経と建礼門院の対面のシーンでした。
この義経と建礼門院の対面の場面の話を一言で言うと、安徳天皇と守貞親王のすり替えを疑っている義経から、建礼門院は我が子を必死になって守り抜いた。そして義経もこのことに関してはすべて自分の胸に納めた……ということでしょうね。
確かに建礼門院の母親としての立派な態度には感動しました。しかし同時に、「安徳天皇と守貞親王のすり替えの話はこれで一件落着なの?そんな馬鹿な!」という気がしました。たったこれだけの話なら、どうして歴史の事実を変えてしまうようなすり替え劇をやってのけたのか?私にはどうしても納得できません。
建礼門院は、「親王は出家させて俗世から絶つ」と言っていましたが、守貞親王が出家をしたのはこの時点から約30年後の建暦二年(1212)です。しかも彼は承久の変後、息子の即位によって「後高倉院」と称され、院政を行うことになるのですから…。俗世を絶つどころか、後には【歴史の表舞台に登場してしまう】のです。
またドラマでは、元暦二年五月と思われるこの時期に、建礼門院はすでに大原入りをしていたように扱っています。しかも彼女のそばには大納言典侍(輔子)、廊の御方(能子)、治部卿局(明子)がいたようですが、これもおかしいと思いました。
輔子は建礼門院の出家後に、以前と同じ様に建礼門院に仕えることになるのですが、元暦二年五月のこの時期は日野に住む姉の許に身を寄せていました。その後間もなく、処刑されるために南都へ送られる途中の夫重衡と、そこで対面することになるのです。輔子が建礼門院に再び仕えるのは、早くてもこの年の秋頃ではないでしょうか。
能子に至っては、壇ノ浦から帰洛後は藤原兼雅室に仕えることになりますので、そもそも建礼門院のそばにいた事実がありません。
そして今回もっとも大きなつっこみ所は、守貞親王が建礼門院と一緒にいた事実がないことです。守貞親王は都に還御されたすぐあと、母方の叔父に当たる藤原信清と対面しているようですし、おそらくその時に生母の藤原殖子とも対面していると思われます。その後は上西門院(後白河法皇の同母姉)の猶子となっていますので、ずっと洛中で過ごしていたはずです。
このドラマでは、守貞親王は実は安徳天皇としてしまったので、建礼門院のそばにいたことにしたのでしょうけれど…。従って守貞親王の乳母である明子も建礼門院のそばにいるはずがないのです。
もっとつっこむと、建礼門院が出家して大原入りをしたのはもっと後だったはずです。今回ドラマであつかわれた時期にはまだ吉田にいたのではないでしょうか。
このように、義経と建礼門院の対面の場面は歴史的なつっこみが満載でした。こうしてみるとこのドラマは、歴史ドラマとして観るより、フィクションとして観た方がいいのかなと、改めて強く思ってしまいました。
なお平家物語によると、建礼門院は元暦二年五月に吉田のあたりにて出家し、九月に大原の寂光院に入っています。彼女はそこでその後は念仏三昧の日々を送り、建久二年(1191)に往生したということです。
しかし、建礼門院の晩年や没年についてはさまざまな説があり、はっきりしたことはわからないようなのです。
一説によると彼女は、建久年間に洛中に近い善勝寺に移り、藤原隆房夫妻の世話になっていたと言われています。隆房の妻は清盛の娘、つまり建礼門院の異母妹に当たりますので、あり得る話かもしれません。
没年についても、「平家物語」の建久二年説のほか、建保元年(1213)説、貞応二年(1223)説など色々あり、はっきりしたことはわからないようです。
そしてもっとわからないのが彼女の心中です。彼女の晩年について、史料には何も語られてはいないようです。
平家一門は滅び去ったと言っても、藤原隆房室をはじめ、建礼門院の姉妹に当たる女性や、その姉妹たちを介してつながっている平家の血を引く人たちは、たくさん生存していました。彼女はそんな平家の血を引く人たちの世話を受けていたと思われますので、経済的、物質的にはそれほど苦労がなかったかもしれませんね。
しかし、彼女の胸の中には我が子安徳天皇や母時子をはじめ、戦いに敗れて戦死したり入水したりしていった一門の人たちの姿が強く焼き付いていたと思うのです。それらの人たちの菩提を弔うことこそ自分の役割……と、強く思っていたのでしょうね。
つっこみ所満載の今回のドラマですが、今回放送での建礼門院のせりふ、『出家することだけは自分の意志で決めた。』『世の中への執着はなくなった。今に生への執着もなくなるであろう。』は、案外彼女の真実の心を現しているように思えました。
さて来週は、宗盛と重衡が再登場のようですね。そして義経は、頼朝宛に腰越状をしたためることになるようです。またまたつっこみ所満載なのでしょうけれど、しっかり観ようと思っています。
歴史的なことはもちろんですが、TVドラマとしての物語そのものもつじつまが合わず、つっこみ所満載で、どのように感想を書いていいかわからなくなってしまいました。取りあえず今回も思いついたことを少し書かせていただきますね。
まずドラマの最初の方で義経が、「宝剣を捜さなくては…」と言っていましたが、「おいおい義経くん、あなたは合戦が終わってから今まで、宝剣を捜そうとせずゆっくりしていたの?」と思わずつっこんでしまいました。そう言えば義経くん、おとくばあさんを相手に昔をなつかしんでいたり、能子と海岸で会っていたりといやにのんびりしていたような…。
本来なら壇ノ浦合戦が終わったあとの義経は、きっと郎党達に命じて血眼になって宝剣を捜していたはずだと私は思います。
「三種の神器があればこちらで新しい天皇を立てられたのに。」と言う時政さん。
一瞬「その通りだよね。」と思いましたが、この時代の武士はまだまだそこまでの力はなかったのではないだろうか?と再び考えてしまいました。
ただ義経は、「三種の神器のうち宝剣を除く二つを手に入れましたが、後白河法皇に返すべきでしょうか?それとも兄上の許に持っていった方がよいでしょうか?」と、頼朝におうかがいを立てるべきだったように思えます。
「鎌倉殿は九郎殿の心中を疑っているということを父上が言っていました。」とわざわざ教えに来る景季くん。
景季は確か、この時期から間もなく、頼朝に反抗している動きのある義経を尋問するために派遣されてくるはずなのですが、これでは壇ノ浦合戦が終わったこの時期でも義経に心酔しているように感じられます。これで尋問なんてできるのか心配になってきます。となると、景季が義経を尋問する場面はこのドラマではカットになるのでしょうか?
それにしても、「兄上から疑われる理由がわからない。」という義経くん……。
義経が頼朝から疑われている一番の理由が、「総大将である兄頼朝の許可なく、自分の大将でもない後白河法皇から官位をもらってしまったという、義経の信じられない行動にあるのだろう。」というそのことが全くわかっていないようですね。「官位は京を離れる時に法皇様にお返しする。」って……。
義経くん、あなたは何を甘えたことを言っているの?「今すぐ返しなさいよね。そしていったん鎌倉に帰った方がいいよ。」とつっこんでいました。
そして、相変わらず武士のことがちっともわかっていない義経の郎党達……。この義経主従を見ていると、頼朝から疑われたり追われてしまったりする理由がわかるような気がしてきます。だんなさんは、『本当にこのような行動を義経が執っていたとするならば、頼朝から追討されて当たり前だ。俺が頼朝であっても、同じ命令を発する。』と、これまでの義経の色々な言動に対して呆れていました。
そして今回の極めつけのつっこみ所は、義経と建礼門院の対面のシーンでした。
この義経と建礼門院の対面の場面の話を一言で言うと、安徳天皇と守貞親王のすり替えを疑っている義経から、建礼門院は我が子を必死になって守り抜いた。そして義経もこのことに関してはすべて自分の胸に納めた……ということでしょうね。
確かに建礼門院の母親としての立派な態度には感動しました。しかし同時に、「安徳天皇と守貞親王のすり替えの話はこれで一件落着なの?そんな馬鹿な!」という気がしました。たったこれだけの話なら、どうして歴史の事実を変えてしまうようなすり替え劇をやってのけたのか?私にはどうしても納得できません。
建礼門院は、「親王は出家させて俗世から絶つ」と言っていましたが、守貞親王が出家をしたのはこの時点から約30年後の建暦二年(1212)です。しかも彼は承久の変後、息子の即位によって「後高倉院」と称され、院政を行うことになるのですから…。俗世を絶つどころか、後には【歴史の表舞台に登場してしまう】のです。
またドラマでは、元暦二年五月と思われるこの時期に、建礼門院はすでに大原入りをしていたように扱っています。しかも彼女のそばには大納言典侍(輔子)、廊の御方(能子)、治部卿局(明子)がいたようですが、これもおかしいと思いました。
輔子は建礼門院の出家後に、以前と同じ様に建礼門院に仕えることになるのですが、元暦二年五月のこの時期は日野に住む姉の許に身を寄せていました。その後間もなく、処刑されるために南都へ送られる途中の夫重衡と、そこで対面することになるのです。輔子が建礼門院に再び仕えるのは、早くてもこの年の秋頃ではないでしょうか。
能子に至っては、壇ノ浦から帰洛後は藤原兼雅室に仕えることになりますので、そもそも建礼門院のそばにいた事実がありません。
そして今回もっとも大きなつっこみ所は、守貞親王が建礼門院と一緒にいた事実がないことです。守貞親王は都に還御されたすぐあと、母方の叔父に当たる藤原信清と対面しているようですし、おそらくその時に生母の藤原殖子とも対面していると思われます。その後は上西門院(後白河法皇の同母姉)の猶子となっていますので、ずっと洛中で過ごしていたはずです。
このドラマでは、守貞親王は実は安徳天皇としてしまったので、建礼門院のそばにいたことにしたのでしょうけれど…。従って守貞親王の乳母である明子も建礼門院のそばにいるはずがないのです。
もっとつっこむと、建礼門院が出家して大原入りをしたのはもっと後だったはずです。今回ドラマであつかわれた時期にはまだ吉田にいたのではないでしょうか。
このように、義経と建礼門院の対面の場面は歴史的なつっこみが満載でした。こうしてみるとこのドラマは、歴史ドラマとして観るより、フィクションとして観た方がいいのかなと、改めて強く思ってしまいました。
なお平家物語によると、建礼門院は元暦二年五月に吉田のあたりにて出家し、九月に大原の寂光院に入っています。彼女はそこでその後は念仏三昧の日々を送り、建久二年(1191)に往生したということです。
しかし、建礼門院の晩年や没年についてはさまざまな説があり、はっきりしたことはわからないようなのです。
一説によると彼女は、建久年間に洛中に近い善勝寺に移り、藤原隆房夫妻の世話になっていたと言われています。隆房の妻は清盛の娘、つまり建礼門院の異母妹に当たりますので、あり得る話かもしれません。
没年についても、「平家物語」の建久二年説のほか、建保元年(1213)説、貞応二年(1223)説など色々あり、はっきりしたことはわからないようです。
そしてもっとわからないのが彼女の心中です。彼女の晩年について、史料には何も語られてはいないようです。
平家一門は滅び去ったと言っても、藤原隆房室をはじめ、建礼門院の姉妹に当たる女性や、その姉妹たちを介してつながっている平家の血を引く人たちは、たくさん生存していました。彼女はそんな平家の血を引く人たちの世話を受けていたと思われますので、経済的、物質的にはそれほど苦労がなかったかもしれませんね。
しかし、彼女の胸の中には我が子安徳天皇や母時子をはじめ、戦いに敗れて戦死したり入水したりしていった一門の人たちの姿が強く焼き付いていたと思うのです。それらの人たちの菩提を弔うことこそ自分の役割……と、強く思っていたのでしょうね。
つっこみ所満載の今回のドラマですが、今回放送での建礼門院のせりふ、『出家することだけは自分の意志で決めた。』『世の中への執着はなくなった。今に生への執着もなくなるであろう。』は、案外彼女の真実の心を現しているように思えました。
さて来週は、宗盛と重衡が再登場のようですね。そして義経は、頼朝宛に腰越状をしたためることになるようです。またまたつっこみ所満載なのでしょうけれど、しっかり観ようと思っています。