大河ドラマ「義経」第34回の感想です。
今週もめちゃくちゃな設定がいっぱいで、つっこみ所満載でした。
何よりも、800年前の出来事を現代の視点で描きすぎているような気がします。
では今週はその当たりから書かせていただきますね。
今まで全く目立たなかった河越の姫が、人間的に描かれていたのは良かったと思います。「私も義経殿の様子を知りたい。」なんて、いじらしいではないですか。
それにしても、「私は邸を出ていきます」と言っている静に対して、「そんな必要はありません。一緒に義経殿の留守を守りましょう。」という河越の姫。現代では静の方が常識的に思えますが、800年前は河越の姫の考え方の方が常識的なのですよね。
というのは、この時代は一夫多妻が普通だったからです。
でも、このドラマでは一夫一婦制が当たり前のような描き方をしています。この点などは、あまりにも現代の視点で歴史を観すぎているのではないでしょうか。
それと、鎌倉御家人の娘が静やうつぼのような庶民の女に頭を下げるというのも、ちょっと違和感を感じます。それからもっとつっこむと、彼女の父の河越重頼はこの時義経と共に従軍していたのではないでしょうか?なので、義経の様子を彼女に知らせてくれる腹心の家来などは、きっといたはずだと思うのですが。
さて今回のメインは、義経から異父妹の能子(廊の御方)に送られる密書の話でしたね。でも、この話もつっこみ所満載でした。
那須与一が射抜いた扇を持っていたのが妹の能子だと聞いて動揺する義経。従来の「何が何でも平家を倒してやる!」という気満々で戦に邁進する義経ならば、こんな事で動揺しないでしょうけれど、今回の良く言えば心の優しい、悪く言えば優柔不断で甘ちゃんの義経なら動揺するのは当然でしょうね。
そして義経は妹の命を助けたい一心で彼女に密書を送ることになります。
それにしても、密使の喜三太は、どのようにして彦島にもぐりこんだのでしょうか?怪しい密使を取り逃がしてしまうほど、平家方の警護力は弱いものだったのでしょうか…。ちょっと首を傾げてしまいます。
そして、密書を読みながら涙を流している能子……。能子は義経と母を同じくするという点では複雑な立場だったでしょうけれど、義経本人に対しての記憶は全くないと思われます。従って彼に対してはほとんど親しみがなかったと思うのですが…。それどころか、「恐ろしい敵の大将」という気持ちの方が強かったのではないでしょうか。
彼女はれっきとした平家の娘であり、母は違っても宗盛や知盛、彼女を引き取ってくれた藤原兼雅妻などの方がよほど近いきょうだいだったと思います。
義理の叔母に当たる領子にいじめられ、時子から危険な役を命じられ、平家からも孤立したので、敵の大将ながら兄である義経に愛情を求めると言うような今回の設定。
これも現代の視点が入りすぎているように思えます。
そして今回の極めつけは、安徳天皇と守貞親王のすり替えを決意する時子です。
前回の感想にも書きましたが、時子は壇ノ浦にて孫に当たる安徳天皇を抱き、「波の下にも都がございます。」と言って入水します。
確かに可愛い孫を道連れに自殺するなど、現代の感覚では理解に苦しむところがありますよね。
しかし、安徳天皇は平家の象徴とも言える存在でした。そして、その平家を栄華に導いたのは他ならぬ時子の夫清盛です。清盛亡き後、平家の女主人として権力を握っていた時子は、「平家を潔く終わらせるのは私しかいない。」という考えがあったと思うのです。なので平家の象徴と言うべき安徳天皇を抱いて入水したのだと思います
。この場面は「平家物語」でも1・2と言われる名場面です。「さすが清盛の妻!!」と感心させられる場面でもあります。
しかし……、「道連れにする相手が守貞親王では…」、この場面の感動がほとんどなくなってしまうように思えます。自分の孫かわいさに他人の子を道連れにするなんて情けない!……とさえ思ってしまいます。
そして「自分の孫である安徳天皇の血を後世に残せば、清盛殿もきっと喜んでくれる。」という考えは、あまりにも現代的すぎるように思うのですが…。
言いたいことはたくさんありますが、とにかくこの設定にはものすごく無理があるように思えてなりません。1・2歳の赤子ならまだいいとしても、7・8歳ではもう物心がついていますし、ある程度自我も確立しています。「今日からあなた達は入れかわりなさい。」と言われても、そう易々とうまく行くとはとうてい思えません。
また、いくら似ていると言っても、壇ノ浦ですり替えられた守貞親王と帰洛後に対面した藤原殖子(守貞親王の生母)が、自分の産んだ子とそうでない子の違いに気づかないとはとても思えません。
やはりここでの安徳天皇と守貞親王の入れ替わり説は荒唐無稽としか思えないです。
ところで、この守貞親王とはいったいどのような人生を送った人なのでしょうか?
調べてみると、彼は後に思いがけなく歴史の表舞台に登場することになります。
では、今回はそんな彼の生涯について書かせていただきます。
☆守貞親王 (1179~1223年)
高倉天皇の第二皇子。母は藤原信隆女殖子。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟になります。
守貞親王の乳母は平知盛の妻治部卿局(ドラマでは明子という名前になっています。)でした。そのため親王は、知盛の邸宅で養育されていたと考えられます。
寿永二年(1183)七月の平家都落ちの際、安徳天皇の皇太弟として平家一門と共に都落ちすることとなります。
元暦二年(1185)三月、壇ノ浦にて源氏方に助けられ、乳母の治部卿局と一緒に都に戻ることとなりました。
その後親王は上西門院(後白河法皇の同母姉)の猶子となります。しかし、親王の養育は引き続き治部卿局が当たっていたようです。治部卿局の出自ははっきりしませんが、角田文衞先生の「平家後抄」には、藤原忠雅の娘で、兼雅の姉妹だったのではないかと書かれています。忠雅はその当時も健在でしたし、兼雅は宮廷の実力者でしたので、もしこれが事実とすると、治部卿局と親王は物質的にはそれほど不自由はしていなかったと考えられます。
建久四年(1193)頃、藤原陳子(父・藤原基家、母・平頼盛女)と結婚し、数人の皇子皇女をもうけました。
しかし守貞親王は建暦二年(1212)に、自分の不遇を嘆いて出家をしてしまいます。法名を行助と称しました。
ちょうどこの頃、彼の同母弟後鳥羽天皇はとっくに退位し、その皇子である土御門天皇も退位し、土御門天皇の弟である順徳天皇の御代となっていました。
つまり、弟の系統は次々と天皇になって栄えていたのです。それを横目で見ながら、守貞親王はどのように思っていたのでしょうか。幼い頃平家によって運命を変えられてしまったことを恨んでいたのでしょうか?……。
いずれにしても後鳥羽上皇や平家に対しては色々な思いがあり、それが彼の出家と関係していたと思わざるを得ません。
しかし、運命というものは不思議なものです。
承久三年(1121)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府倒幕の兵を挙げます。後世「承久の変」と言われる戦いの勃発でした。しかし結果は朝廷側の惨敗でした。倒幕に関わった多くの公卿が斬首され、後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳上皇は佐渡へとそれぞれ配流となりました。仲恭天皇(順徳上皇の皇子)は退位させられます。
そして、「後鳥羽天皇の子孫からは天皇を立てない。」という鎌倉幕府の方針により、出家していない皇子を捜した結果、守貞親王の皇子である茂仁王に白羽の矢が立ったのでした。そこで、この茂仁王が後堀河天皇として踐祚したのです。
しかし天皇はまだ幼かったため、父である守貞親王が後高倉院(後高倉法皇)の称号を得て太上天皇として院政を執り行うこととなったのでした。平家の都落ち以来ほとんど蔭に隠れ、人々から忘れられた存在であった守貞親王は、こうして歴史の表舞台に再び登場したのです。一番驚いたのは当の守貞親王本人だったかもしれませんね。
後高倉院となった守貞親王を幼いときから養育してきた治部卿局にとっても、彼の表舞台への登場は感無量だったと思います。彼女は上皇の乳母として「四条局」と呼ばれることとなり、彼女が知盛との間にもうけた娘も「中納言局」という女房名で、後堀河天皇に仕えることとなりました。
後高倉院は、承久の変によって混乱した朝廷を立て直すと共に、幕府と朝廷との間を何とか良好なものにしようと色々気を配ったようです。そのため彼の院政は評判が良かったそうです。有能であると同時に誰からも慕われる温厚な性格の人物だったのではないでしょうか。
しかし、後高倉院はその2年後の貞応二年(1223)に病気で世を去ってしまいました。最後には歴史の表舞台に出て、自分の能力を発揮できたことは満足だったかもしれませんが、まだまだ心残りなことがあったと思います。そして後高倉院の系統は孫の四条天皇で絶え、皇統は再び後鳥羽天皇の子孫に戻っていくこととなるのです。
さて、来週はいよいよ壇ノ浦合戦……。
色々な意味で見どころの多い回になりそうです。
今回の放送のあとに長々と流れていた予告によると、時子は「波の下にも都がございます。」というせりふを言うようですね。でも前にも書いたように、道連れにする相手が守貞親王では興ざめしてしまいそうです。
それから、知盛が活躍するようですね。これはかなり楽しみです。それだけに、能登殿教経が登場していたらもっともっと良かったのに……と、思わざるを得ません。
何はともあれ、来週も絶対に見逃せないです。
今週もめちゃくちゃな設定がいっぱいで、つっこみ所満載でした。
何よりも、800年前の出来事を現代の視点で描きすぎているような気がします。
では今週はその当たりから書かせていただきますね。
今まで全く目立たなかった河越の姫が、人間的に描かれていたのは良かったと思います。「私も義経殿の様子を知りたい。」なんて、いじらしいではないですか。
それにしても、「私は邸を出ていきます」と言っている静に対して、「そんな必要はありません。一緒に義経殿の留守を守りましょう。」という河越の姫。現代では静の方が常識的に思えますが、800年前は河越の姫の考え方の方が常識的なのですよね。
というのは、この時代は一夫多妻が普通だったからです。
でも、このドラマでは一夫一婦制が当たり前のような描き方をしています。この点などは、あまりにも現代の視点で歴史を観すぎているのではないでしょうか。
それと、鎌倉御家人の娘が静やうつぼのような庶民の女に頭を下げるというのも、ちょっと違和感を感じます。それからもっとつっこむと、彼女の父の河越重頼はこの時義経と共に従軍していたのではないでしょうか?なので、義経の様子を彼女に知らせてくれる腹心の家来などは、きっといたはずだと思うのですが。
さて今回のメインは、義経から異父妹の能子(廊の御方)に送られる密書の話でしたね。でも、この話もつっこみ所満載でした。
那須与一が射抜いた扇を持っていたのが妹の能子だと聞いて動揺する義経。従来の「何が何でも平家を倒してやる!」という気満々で戦に邁進する義経ならば、こんな事で動揺しないでしょうけれど、今回の良く言えば心の優しい、悪く言えば優柔不断で甘ちゃんの義経なら動揺するのは当然でしょうね。
そして義経は妹の命を助けたい一心で彼女に密書を送ることになります。
それにしても、密使の喜三太は、どのようにして彦島にもぐりこんだのでしょうか?怪しい密使を取り逃がしてしまうほど、平家方の警護力は弱いものだったのでしょうか…。ちょっと首を傾げてしまいます。
そして、密書を読みながら涙を流している能子……。能子は義経と母を同じくするという点では複雑な立場だったでしょうけれど、義経本人に対しての記憶は全くないと思われます。従って彼に対してはほとんど親しみがなかったと思うのですが…。それどころか、「恐ろしい敵の大将」という気持ちの方が強かったのではないでしょうか。
彼女はれっきとした平家の娘であり、母は違っても宗盛や知盛、彼女を引き取ってくれた藤原兼雅妻などの方がよほど近いきょうだいだったと思います。
義理の叔母に当たる領子にいじめられ、時子から危険な役を命じられ、平家からも孤立したので、敵の大将ながら兄である義経に愛情を求めると言うような今回の設定。
これも現代の視点が入りすぎているように思えます。
そして今回の極めつけは、安徳天皇と守貞親王のすり替えを決意する時子です。
前回の感想にも書きましたが、時子は壇ノ浦にて孫に当たる安徳天皇を抱き、「波の下にも都がございます。」と言って入水します。
確かに可愛い孫を道連れに自殺するなど、現代の感覚では理解に苦しむところがありますよね。
しかし、安徳天皇は平家の象徴とも言える存在でした。そして、その平家を栄華に導いたのは他ならぬ時子の夫清盛です。清盛亡き後、平家の女主人として権力を握っていた時子は、「平家を潔く終わらせるのは私しかいない。」という考えがあったと思うのです。なので平家の象徴と言うべき安徳天皇を抱いて入水したのだと思います
。この場面は「平家物語」でも1・2と言われる名場面です。「さすが清盛の妻!!」と感心させられる場面でもあります。
しかし……、「道連れにする相手が守貞親王では…」、この場面の感動がほとんどなくなってしまうように思えます。自分の孫かわいさに他人の子を道連れにするなんて情けない!……とさえ思ってしまいます。
そして「自分の孫である安徳天皇の血を後世に残せば、清盛殿もきっと喜んでくれる。」という考えは、あまりにも現代的すぎるように思うのですが…。
言いたいことはたくさんありますが、とにかくこの設定にはものすごく無理があるように思えてなりません。1・2歳の赤子ならまだいいとしても、7・8歳ではもう物心がついていますし、ある程度自我も確立しています。「今日からあなた達は入れかわりなさい。」と言われても、そう易々とうまく行くとはとうてい思えません。
また、いくら似ていると言っても、壇ノ浦ですり替えられた守貞親王と帰洛後に対面した藤原殖子(守貞親王の生母)が、自分の産んだ子とそうでない子の違いに気づかないとはとても思えません。
やはりここでの安徳天皇と守貞親王の入れ替わり説は荒唐無稽としか思えないです。
ところで、この守貞親王とはいったいどのような人生を送った人なのでしょうか?
調べてみると、彼は後に思いがけなく歴史の表舞台に登場することになります。
では、今回はそんな彼の生涯について書かせていただきます。
☆守貞親王 (1179~1223年)
高倉天皇の第二皇子。母は藤原信隆女殖子。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟になります。
守貞親王の乳母は平知盛の妻治部卿局(ドラマでは明子という名前になっています。)でした。そのため親王は、知盛の邸宅で養育されていたと考えられます。
寿永二年(1183)七月の平家都落ちの際、安徳天皇の皇太弟として平家一門と共に都落ちすることとなります。
元暦二年(1185)三月、壇ノ浦にて源氏方に助けられ、乳母の治部卿局と一緒に都に戻ることとなりました。
その後親王は上西門院(後白河法皇の同母姉)の猶子となります。しかし、親王の養育は引き続き治部卿局が当たっていたようです。治部卿局の出自ははっきりしませんが、角田文衞先生の「平家後抄」には、藤原忠雅の娘で、兼雅の姉妹だったのではないかと書かれています。忠雅はその当時も健在でしたし、兼雅は宮廷の実力者でしたので、もしこれが事実とすると、治部卿局と親王は物質的にはそれほど不自由はしていなかったと考えられます。
建久四年(1193)頃、藤原陳子(父・藤原基家、母・平頼盛女)と結婚し、数人の皇子皇女をもうけました。
しかし守貞親王は建暦二年(1212)に、自分の不遇を嘆いて出家をしてしまいます。法名を行助と称しました。
ちょうどこの頃、彼の同母弟後鳥羽天皇はとっくに退位し、その皇子である土御門天皇も退位し、土御門天皇の弟である順徳天皇の御代となっていました。
つまり、弟の系統は次々と天皇になって栄えていたのです。それを横目で見ながら、守貞親王はどのように思っていたのでしょうか。幼い頃平家によって運命を変えられてしまったことを恨んでいたのでしょうか?……。
いずれにしても後鳥羽上皇や平家に対しては色々な思いがあり、それが彼の出家と関係していたと思わざるを得ません。
しかし、運命というものは不思議なものです。
承久三年(1121)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府倒幕の兵を挙げます。後世「承久の変」と言われる戦いの勃発でした。しかし結果は朝廷側の惨敗でした。倒幕に関わった多くの公卿が斬首され、後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳上皇は佐渡へとそれぞれ配流となりました。仲恭天皇(順徳上皇の皇子)は退位させられます。
そして、「後鳥羽天皇の子孫からは天皇を立てない。」という鎌倉幕府の方針により、出家していない皇子を捜した結果、守貞親王の皇子である茂仁王に白羽の矢が立ったのでした。そこで、この茂仁王が後堀河天皇として踐祚したのです。
しかし天皇はまだ幼かったため、父である守貞親王が後高倉院(後高倉法皇)の称号を得て太上天皇として院政を執り行うこととなったのでした。平家の都落ち以来ほとんど蔭に隠れ、人々から忘れられた存在であった守貞親王は、こうして歴史の表舞台に再び登場したのです。一番驚いたのは当の守貞親王本人だったかもしれませんね。
後高倉院となった守貞親王を幼いときから養育してきた治部卿局にとっても、彼の表舞台への登場は感無量だったと思います。彼女は上皇の乳母として「四条局」と呼ばれることとなり、彼女が知盛との間にもうけた娘も「中納言局」という女房名で、後堀河天皇に仕えることとなりました。
後高倉院は、承久の変によって混乱した朝廷を立て直すと共に、幕府と朝廷との間を何とか良好なものにしようと色々気を配ったようです。そのため彼の院政は評判が良かったそうです。有能であると同時に誰からも慕われる温厚な性格の人物だったのではないでしょうか。
しかし、後高倉院はその2年後の貞応二年(1223)に病気で世を去ってしまいました。最後には歴史の表舞台に出て、自分の能力を発揮できたことは満足だったかもしれませんが、まだまだ心残りなことがあったと思います。そして後高倉院の系統は孫の四条天皇で絶え、皇統は再び後鳥羽天皇の子孫に戻っていくこととなるのです。
さて、来週はいよいよ壇ノ浦合戦……。
色々な意味で見どころの多い回になりそうです。
今回の放送のあとに長々と流れていた予告によると、時子は「波の下にも都がございます。」というせりふを言うようですね。でも前にも書いたように、道連れにする相手が守貞親王では興ざめしてしまいそうです。
それから、知盛が活躍するようですね。これはかなり楽しみです。それだけに、能登殿教経が登場していたらもっともっと良かったのに……と、思わざるを得ません。
何はともあれ、来週も絶対に見逃せないです。