平安夢柔話

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大河ドラマ「義経」第26回&一ノ谷合戦前の後白河法皇

2005-07-06 23:04:28 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第26回の感想です。

 「義仲の首をさらす」という範頼の言葉を聞いた義経、ものすごく哀しそうな顔をしていましたよね。「義仲殿は親族だから…」と異を唱えました。それで、範頼と景時にたしなめられていましたよね。
 私はこの場面を観て義経が心配になりました。頼朝からは確か、「義仲には情をかけるな。」と言われていましたから…。義経のこの行動が鎌倉に伝えられたらどうなるのでしょう?
 多分景時が書状によって頼朝に伝えたと思うのですが、案の定このことは頼朝の耳に入っていました。義経はまた一つ、頼朝の信頼を失ってしまったようです。

 そんなわけで義経くん、相変わらず覚悟がないですね…。静と二人でいるとき、「わしが望んでいたのはこういう生活だ。」と言っていたのを観て、「あなたはいったい何のために京都に来たの?義仲や平家と戦うためではないの?もっとしっかりしてよ…」と思わずつっこんでいました。

 ところで、もう出てこないと思っていた巴御前ですが、入京していたのですね…。
そして義経と再会……。「こんな事はあり得ない!」と、ここもつっこんでいました。彼女はこれからどのように描かれるのでしょうか?私個人としては義仲の菩提を静かに弔っているという風に描いて欲しいのですが、多分そのようには描かないのでしょうね。ひょっとしたら鎌倉に下るのかもしれませんが…。いずれにしても注目していようと思います。

 さて、平家の方に目を向けると……、西国で勢力を盛り返して何となく生き生きしているように見えました。特に、来るべき戦のための指揮をとっている知盛が良かったです。でも、「こんな険しい山から敵が攻めてくるわけがない」とは…。やはり少し油断があったのですね。「こちらにもちゃんと備えの兵を配置しておけば、あのように惨敗することはなかったのに…」と平家びいきの私は、どうしても思ってしまいます。
そして平家はやっぱり貴族化してしまっていて、戦のことがわかっていなかったのではと思わざるを得ませんでした。
 また、宗盛から通盛の補助役を命じられてしまった維盛の何とも言えない表情が印象的でした。富士川の合戦と倶利伽羅峠の合戦で敗北したとはいえ、戦の時は常に大将軍を勤めていた維盛です。なのでさぞ無念だっただろうなと思います。このことが、彼が戦線を離脱する複線になるのかもしれませんね。

 さて今回は、義仲の最期から一ノ谷合戦に至る数日間の出来事が描かれていたわけですが、頼朝、平家、後白河法皇三者の駆け引きをもう少し細かく描いて欲しかったです。そして、義経の行動も何か抽象的で、「これから大きな戦に出るのだ!」という整然とした気持ちが伝わってきませんでした。
静の戦勝祈願の舞いをあんなに長々と見せる時間があったなら、三者三様の駆け引きや義経の一ノ谷合戦への意気込みの描写に時間を使って欲しいと思いました。

 特に後白河法皇に関しては、調べてみるとこの時期に色々面白い動きをしていることがわかりました。そこで今回は、一ノ谷合戦を前にしての後白河法皇の行動にせまってみました。

 寿永三年正月二十一日に義仲が敗死すると、それまで公式には院政を止められていた後白河法皇は、ようやく政権を回復することとなりました。義仲と結んでいた藤原基房・師家は失脚し、法皇の寵愛が深かった藤原基通が摂政に返り咲きます。この時の後白河法皇は、目の上のこぶであった義仲がいなくなったことにほっとしていたことでしょうね。
 そこで次に誰を頼るかを考えたとき、当然鎌倉の頼朝、そして彼の代官である範頼や義経が頭に浮かんだと思います。以前から頼朝としばしば書状のやりとりをしていた法皇は、都に入ってきた範頼や義経を喜んで迎えたと思います。

 しかし、その頃の法皇にとって一番の問題は三種の神器のことではなかったでしょうか?
 三種の神器とは、天皇の象徴である八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三つの宝物のことです。これらの宝物が天皇のそばに置かれていることで、正式な天皇と認められるというわけです。
 ところが、平家の都落ち直後に即位した後鳥羽天皇のそばには、天皇のしるしと言うべきこの三種の神器がありませんでした。なぜならば、平家が都落ちと共に西国に持ち去っていたからです。平家は安徳天皇を奉じており、そのそばに三種の神器があることによって安徳天皇の正当性を主張できるわけです。逆に言うと都にいる後鳥羽天皇は、そばに三種の神器がないために正式な天皇ではないということもできたわけです。
 そのようなわけで、幼い後鳥羽天皇に代わって院政を行っていた後白河法皇は、こちらの正当性を主張するために何とかして三種の神器を取り戻さなくては……と、ずっと思っていたようです。そこで西国の平家にしばしば書状を送り、「三種の神器を返すように。」と何度も言上していました。しかし当然のことながら、平家はこれには全く耳を貸しませんでした。

 一ノ谷に陣を敷いていた平家と都に入ってきた鎌倉軍の衝突はほとんど避けられないものとなっていたのですが、どうやらこの時期の後白河法皇は、「神器を返してもらえるなら平家と和睦してもいい。」と考えていたようなのです。

 というのは正月二十二日、後白河法皇は摂関家の実力者で見識のある藤原兼実に、「神器はどうすべきか。追討軍と一緒に院の使者を派遣してはどうか。」と相談を持ちかけているからなのです。それに対して兼実は「神器を無事に取り戻すなら追討軍は派遣すべきではない。平家に和平の使者を派遣し、頼朝にも和平の使者を派遣して仔細を申し述べるべきだ。追討軍と一緒に和平の使者を派遣しても意味がない。」と進言しています。(玉葉による)この兼実の言葉は、有職故実に明るく、堅実な彼の人柄がよく現れているような気がします。

 二十六日には法皇側近の僧である静賢法印(信西入道の遺児)を、和平の使者として平家の陣に派遣するという話が具体的になっていたようです。静賢法印が使者に立つという話は平家の陣中にも伝えられました。この噂を聞いて兼実は安心したようです。
 しかし後白河法皇の周囲では、「平家と和睦して神器を取り戻すべきだ。」という穏健派と、「平家は追討すべきだ。」という強硬派が激論を重ねていました。そして、あくまでも平家追討に執念を燃やす頼朝の思惑なども重なり、法皇は結局頼朝に平家追討の宣旨を出すことになります。
このような動きの中、静賢法印は使者に立つことを辞退しています。

 なお、後白河法皇が平家追討の宣旨を下したのは正月二十六日であるという事が、今までの定説となっていたようです。しかし、安田元久著「後白河上皇」には、上記に挙げたような経緯や正月二十六日説の根拠が薄いことなどから正月二十九日の間違いではないかと記述されていました。そして、法皇の宣旨を得て官軍となった鎌倉軍は同正月二十九日、意気揚々と都を出発することとなります。(吾妻鏡による。)

 ところで、「平家は追討すべきだ。」という強硬論を唱えた法皇の側近の中に大変面白い人物がいましたので、ついでに紹介させていただきます。

 その人の名は平親宗……。何と、都落ちをした平時忠・時子の同母弟(異母弟という説もあるようです。)なのです。
 彼は早くから兄の時忠とは別行動をしていました。つまり平家とは距離を置き、後白河法皇に近づいていた人物だったようです。もちろん平家の都落ちにも参加していません。
 都落ちした平家の公達は寿永二年八月に全員解官されています。都落ちしなかった頼盛も一時的に解官されるのですが、平家の縁者であるのにもかかわらず親宗は解官されることもなく、参議右大弁として官界で活躍していました。但し、義仲のクーデターによって解官されることとなるのですが、このことは親宗が法皇の側近であった証拠のように思えます。

それにしても、平家追討を法皇に唱えていた親宗の心中はどうだったのでしょうか…。
 平家の陣中には兄や姉、甥達がいるはずです。そのような血縁者のことを全く考えていなかったのか、それとも清盛によって栄達した兄や甥達への復讐のつもりだったのか……。いずれにしても色々思うことは多かったはずです。

 さて来週はいよいよ一ノ谷合戦ですね。相変わらず覚悟が定まっていない感じの義経は、いったいどのような行動を取るのでしょうか?まさか、成り行きに任せてひよどりごえの奇襲をするという描き方はされないと思いますが…。
 もしかすると優柔不断で貴族ぼけしてしまったような感じのまま、義経は平泉まで行ってしまうのでしょうか?もしそうならば、今までの英雄像がうすれてしまうような気がします。
 何はともあれ、来週も期待半分、心配半分です。