平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

寒いですね~

2005-01-11 21:30:31 | えりかの平安な日々 04~09
 私が「えりかの平安な日々」を開設した昨年12月21日は、冬至というのにとても暖かい日でした。それから3週間……、昨日に引き続いて今日もとても寒かったです。 おまけに、私の住んでいるのは川沿いの町なので、川から冷たい風が吹いてきて余計寒いです。昨日は、この冬初めて厚手のコートを着て外出しました。明日は、今年初めて静岡へ行く予定ですが、あまり寒くないといいのですけれどね。

 さて、今日はなぎさんの「晴れのち平安」にUPされる携帯旅行記を一日堪能させていただきました。改めまして、なぎさん、ありがとうございました。

 なぎさんは本日、青春十八切符を使って熊本に行き、現地から携帯電話を使ってリアルタイムでレポートして下さいました。こうして携帯電話からレポートするっていうのも楽しそうです。でも、私は携帯電話で文章を書くのが苦手な上に、私の携帯電話にはカメラがついていません。……と言うわけで、私が携帯旅行記を書けるようになるのはずっとずっと先になりそうです。

 なぎさんは、熊本城や水前寺公園、藤崎八幡宮、清原神社に行かれたそうです。特に、清原元輔の歌碑があるという藤崎八幡宮と、彼を祀ってあるという清原神社には興味を惹かれます。
 清原元輔は、「枕草子」の作者清少納言の父君で、歌人として有名です。79歳の高齢で肥後守に任じられ、83歳の時、肥後守の任期中にこの地で卒しました。「肥後と関わりのある有名人」というと真っ先に清原元輔を思い出してしまうという平安好きの私なので、いつか熊本を訪れて清原元輔を偲びたいと思っています。

平清盛の子孫

2005-01-10 23:22:11 | 系譜あれこれ
 平清盛の男系の子孫は、壇ノ浦合戦でほとんど絶えてしまったと言われています。平家軍団から脱落した平維盛(清盛の孫)も、熊野から入水したと言われていますし、都に残っていた六代御前(維盛の子息)も、一時は文覚上人の助命運動によって命を助けられますが、のちに鎌倉幕府の命令によって斬首されます。
 なお、平頼綱(鎌倉幕府の実力者)と、織田信長(戦国時代の武将)が、維盛の弟資盛の後裔を称していますが確証はありません。

 ところが、清盛の娘の子孫を調べていくうちに面白いことがわかりました。何と天皇家とつながっていたのです。こう書くと、「清盛の娘の徳子(のちの建礼門院)が高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだので、天皇家とつながっているのでは……」と思われるでしょうけれど。安徳天皇は8歳の時に壇ノ浦で入水自殺をしていますので子はなく、系譜はとぎれてしまっています。今からお話しする系譜は、現在でもしっかり続いている系譜なのです。

 清盛には、徳子の他にも何人か娘がいたようです。そのうちの一人は、藤原隆房という人と結婚しました。吉屋信子さんの小説「女人平家」では佑姫という名前で登場し、相思相愛だった大江広元と無理やり引き離され、藤原隆房に嫁がされた悲運の女性として描かれています。
 この清盛女の夫となった藤原隆房は、藤原秀郷や奥州藤原氏、藤原道長の母時姫と同じく、奈良時代に左大臣にまで昇進した藤原魚名(北家の房前の子)の子孫になります。隆房自信は、「平家物語」での小督局とのロマンスで有名です。また、壇ノ浦で命を助けられた建礼門院を手厚く世話しています。

 隆房と清盛女との間に産まれたのが藤原隆衡です。そして隆衡の娘が北山の准后と呼ばれることとなる藤原貞子です。
 貞子は、西園寺家の藤原実氏と結婚しました。西園寺家は、藤原公季(藤原兼家の弟で道長の叔父)を祖とする藤原氏閑院流の一派です。実氏は太政大臣にまで昇進しました。そして、実氏と貞子の間に産まれたのが藤原(女吉)子です。(女吉)子は、後嵯峨天皇の後宮に入って中宮となり、後深草天皇と亀山天皇の母となりました。
 つまり、後深草天皇と亀山天皇は清盛女の玄孫ということになります。現在の皇統は後深草天皇の子孫ですので、今上天皇も清盛の子孫ということになります。清盛の男系の子孫は絶えてしまいましたが、女系はこんな風にして天皇家につながっていたなんて……。やっぱり系譜は面白いです。

 なお、貞子の兄弟に藤原隆親という人がいます。隆親の娘は大納言典侍と呼ばれ、後深草天皇の乳母でした。そして、彼女と源雅忠との間に産まれたのが、「とはずがたり」の作者後深草院二条です。宮廷生活の中で何人かの男性と交渉を持ち、のちに出家して諸国を行脚したという波乱の人生を送ったこの女性も、清盛の子孫だったのです。

参考文献・平家後抄 角田文衞著 講談社学術文庫

源氏の里と平家の里

2005-01-08 21:29:58 | 静岡大好き
 明日からいよいよ、大河ドラマ「義経」が始まりますね。

 源平時代は大好きな時代ですので、義経や頼朝や清盛がどのように描かれるか、今からわくわくです。それにキャストも豪華ですしね。個人的には、マツケンさんの弁慶と高橋英樹さんの藤原秀衡が楽しみです。勿論、主役のタッキーにも期待しています。意外に義経役に合っていると思うのですよね。

 さて、本日はそのようなわけで地元の源平ネタを少し…。

 私は、以前大井川沿いの町に住んでいますと書きましたが、その町は静岡県島田市といいます。現在人口は7万くらいですが、今年の4月に隣の榛原郡金谷町と合併して、10万弱になるようです。
 このように、町村合併によって現在の島田市は大井川を取り巻くような形になりますが、もともとは大井川の東側にできた町でした。そして、町の起源は鎌倉時代に、源頼朝が派遣した仏像と瓦の職人や大工の集団が作ったと言われています。その職人や大工は、頼朝によって千葉山智満寺というお寺に派遣されたのですが、その方々がこの土地に住みつき「島田」という町を作ったわけです。つまり、島田は典型的な「源氏の里」だったのです。

 ところが、大井川の対岸を12、3㎞さかのぼった山奥に、「抜里(ぬくり)」という村があります。現在では榛原郡川根町の一部になっています。
 そしてこの「抜里」という村の起源は、源平合戦に敗れた平家の落ち武者が逃げてきて住みついたと言われています。つまり抜里は「平家の里」なのですよね。なので、対岸の下流の源氏の里を目にして、抜里のみなさまはどのような気持ちで毎日を過ごしていたのか、とても気になるところです。

 同じ大井川沿いに源氏の里と平家の里が存在したというのも面白いなと感じています。

我が家の猫、エリカ♪

2005-01-06 20:44:49 | 猫のお部屋
 みなさま、初めまして!私、エリカです♪
 え?どこかで聞いたことがあるって……?そうなのニャ、うちのママが私の名前をひらがなにしてハンドルネームにしてしまったのニャ!

 ……と言うわけで、改めましてこんにちは♪えりかです。
 やっと、我が家の猫エリカをみなさまにお見せすることができました。
 エリカは今年の5月に10歳になります。人間の年に換算すると五十代になってしまうのですが、やっていることは子猫のようです。本当にわがままで、甘えん坊で……。でも、この顔で「ニャー」と甘えてこられると、どうしても甘やかしてしまいます。
 これから、エリカのことも色々書いていきますので、楽しみにしていてくださいね♪


パソコンのトラブル

2005-01-06 11:08:29 | えりかの平安な日々 04~09
 二日ぶりの更新です。と言うか、日記は四日ぶりなのですよね……。

 もう1月6日なのに、どことなくお正月気分が抜け切れません。何より、手の込んだ料理をしたくないです。昨日の夕食は、ぶり大根と漬け物だけ、今朝はその残り(笑)そして今夜はすき焼きにします。昨日牛肉が安かったので、材料も買ってきてしまいました。意外に楽にできるのですよね、すき焼きって…。

 さて、今年のスタートは何となく波乱含みです。元日からとにかく色々なことがあって、忙しかったです。

 2日の日記をUPし終わったあと、パソコンにトラブルが発生してしまいました。私は、文章をワードで作ってそれをコピー、はりつけしてUPしているのですが、2日の日記をUPし終わったあとワードの方に戻ってみたところ、全く動かなくなってしまったのです。ワードが終了できないので、スタートメニューボタンを押してウィンドーズを終了させてみたのですが、終了できませんでした。仕方なくリセットボタンで再起動し、再び終了の捜査をしてみたのですが、終了できません。(もちろん、強制終了ではリセットをしてはいけないこと。強制終了の場合にはDEL+CTRL+ALTキーを押すと言う事は知っています。そしてウィンドウ使用中にリセットすることはパソコンのトラブルの原因になる。と言うこともわかった上で、仕方なく今回はリセットをしたのです。)5回もやってしまいました。そこでテレビで箱根駅伝に出ている出身大学の応援に夢中になっていただんなさんに、「終了できないよ~。」と泣きついたわけです。
 そこでだんなさんは、私のパソコンの中に入っているファイルの簡単な整理をしてくれたところ、終了できるようになりました。ほっとしました。でも、またいつおかしくなるかわかりませんし、「ハードディスクが壊れてしまったらどうしよう。」と心配になったので、3日に私のパソコンの中に入っているデータを、急遽CD-ROMディスクにバックアップを取りました。何しろ私のパソコンの中には、これからこちらに書く上で参考にしたい、歴史上の人物についてのデータがたくさん入っているので、それらが全部失われてしまったら大変なことになってしまいます。

 そして昨日……、再びウィンドウズの終了ができなくなりました。2日と同じく、何度やっても終了できなくて……。そこで、ハードディスクの完全エラーチェックと修復を行うことにしました。私は、パソコンのことはよくわからないので、だんなさんがやってくれたのですが、6時間かかりました。それで昨日は更新ができなかったのです(言い訳)。

 それにしても、パソコンのトラブルは本当に困ります。私にとっては生活必需品なので、もう少し操作が簡単にならないかなといつも思います。だんなさんの言葉を借りると「今のウィンドウは陰でDOSを起動させ、その上で動いているのだから、日本語MS-DOSを勉強しないと本当はいけないのだ」そうです。
 そして、私のパソコンはなぜか冬になるとおかしくなります。寒さに弱いのでしょうね(だんなさんに聞くと、元々パソコンは熱と寒さに弱いのだということでした)。
ここ1週間くらい、本当に寒くなってきたので、パソちゃんもびっくりしてしまったのでしょうね。とにかく、またおかしくならないことを祈るばかりです。


ドラマ「大化の改新」

2005-01-04 00:08:15 | 歴史雑記帳
 ついに、待ちに待ったこの日がやってきました!!

 某平安サイトで、「NHKが大化の改新のドラマを制作するらしいよ。」という情報を得てから約2年、1月3日の夜、ついに放映されました。今日はそのドラマ「大化の改新」について少し書いてみますね。

 感想を述べる前に、まずつっこませて頂きます。

 蘇我入鹿と中臣鎌足が幼なじみで仲のいい親友だったという設定は、間違いなくフィクションなのでしょうね。「大臣の息子と、下っ端役人の息子が身分制の厳しいこの時代に、こんなに親しくつきあえるわけがない。」と、一緒に観ていただんなさんはこの設定にびっくりしていました。当然、与志古娘を挟んでの三角関係もフィクションだと思います。ただ、この設定がドラマ全体のカギとなっていましたので、このことについてつっこむのはこのくらいで辞めておきます。

 それから、第二部の初めなのですが……、「中大兄皇子なるぞ!」ではなく、「葛城皇子なるぞ!」と言って欲しかったです。山背大兄王が殺害された時点では、彼はまだ皇太子の称号である「大兄」の称号は得ていないと思うのですが、どうなのでしょうか。

 先日放映されたNHKの、「その時歴史が動いた」では、大化の改新の黒幕は軽皇子となっていましたので、ドラマでもこの説が採用され、軽皇子は悪役になっているのかなと思いましたが、そうではなかったですね。かなりつかみ所のない人物に描かれてはいましたが…。もっともだんなさんは、「名前の通りの軽い皇子」になっているみたいで何となく寂しいなと言っていました。でもそれよりも、悪役は蘇我蝦夷でしたね。
 つかみ所がないと言えば、宝皇女(皇極女帝)もかなりつかみ所のない人物に描かれているような気がしました。まあ、この方は実際つかみ所がない人なのですが…。
建築に夢中になって民をかえりみなかったようですが、彼女の孫の建皇子の死に際しては、涙して歌を詠むようなところもあります。また、乙巳の変にも関わっていたとか、関わっていなかったとか……、皇位についたのはただの中継ぎだったとか……、いや、権力欲があったとか、色々言われています。

 中大兄皇子(ドラマでこうなっていたのでこの名で通します。)と、鎌足の「入鹿暗殺計画」に至るまでの経緯や、二人で作戦を練っている場面ももう少しあったら良かったのになと思いました。でも、こればかりは時間制限もありますし、無理だったのかもしれません。金曜時代劇で6回シリーズくらいで放映されていたら、このあたりを描く余裕もあったかもしれませんが。ちょっと残念でした。

 つっこみ所はこのくらいにして、感想を書きますね。

 最初に書いた、「入鹿と鎌足が仲の良い親友だった」という設定は、視聴者に、「え、それなのにどうして鎌足は入鹿を殺害してしまうの?」と疑問をもたせ、ストーリーの展開に期待を抱かせるという点でうまいなと思いました。私もそんな視聴者の一人でした。
 入鹿と鎌足が違う方向に向かっていく決定的なきっかけは、山背大兄王暗殺だったのかなと思いました。あの頃から入鹿は突然、変わってしまいましたよね。
 でも、与志古娘と二人で話をしているシーンを観て、「入鹿は入鹿なりに苦しんでいたのだな。」と思いました。世の中、そう理想通りには行きませんし。朝廷の中枢にいた入鹿と、朝廷から遠く離れていた鎌足の、ものの考え方の違いなのでしょうね。
鎌足があのように理想を追い求めていた人物だったのか、また本当に中大兄皇子が聖徳太子をあのように信奉していたのかは疑問ですが、私はこのドラマでの入鹿はかなり実像に近いのではないかと思いました。
なぜか入鹿に惹かれてしまったえりかです。
 でも、仲の良かった友人同士が、年月や周りの状況によって徐々に離れていき、最後には決定的に対立してしまう……、観ていて切なかったです。こういう事って、現代でも起こりえることですものね。ただ、入鹿と鎌足の場合は、国の政治がからんできているので、いっそう複雑になってしまったのでしょう。

 結論……、ドラマとしては充分楽しめました。これを機に、古代史や平安時代のドラマがたくさん作られることを願っています。

 最後に、乙巳の変が失敗していたらどうなったかを、私なりに考えてみました。失敗する確率だって強かったはずですから…。
 まず、中大兄皇子と鎌足は打ち首になっているでしょうね。そうなると、天智天皇と藤原氏は存在しなくなるわけで、日本史は大きく変わっていたと思います。
平安京は存在せず、飛鳥での蘇我氏政権が続いたことでしょう。それと、武士の世が意外に早くやってきたような気がします。
 でも、平安京が存在しないということは、私の大好きな平安時代は永久にやってこない、「源氏物語」も誕生していない……、そんなの絶対に嫌です!
入鹿さんには申し訳ありませんが、乙巳の変は成功していて良かったのかもしれません。そんなことを少し考えてしまいました。

我が家のお雑煮

2005-01-02 10:44:08 | えりかの徒然なるままに
 我が家の年越しの風景です。
 だんなさん……お茶を飲みながらNHKの「行く年来る年」を観ていた。「お~い、お茶のお代わり」と言ったところで年明け(笑)。
猫ちゃん……おなかがすいたらしく、夕食の残りのキャットフードをぼりぼり食べていた。
えりか……「新年のご挨拶」をUPする準備のためパソコンのキーボードをたたいていた。
 というようにそれぞれ好きなことをしていました。でも、ちゃんと言いましたよ、「明けましておめでとう。」って…。

 さて、お正月の定番と言ったらやっぱりお雑煮ですよね。小さい頃は、「お雑煮はお正月に食べるもの」と思いこんでいましたもの。

 それで、我が家のお雑煮なのですが、ごくシンプルで簡単です。白菜を鍋に敷き詰め、その上に角切りしたおもちをのせ、だし汁でことことおもちが軟らかくなるまで煮ます。おもちが柔らかくなったらしょうゆで味をつけます。大きめの茶碗に盛りつけ、青のりと削り節をかけていただきます。
 主人は、小さい頃からこのお雑煮を食べてきたそうです。具の材料は家庭によって違うと思いますが、角もちでしょうゆ味が、私の住む静岡県のお雑煮の基本のようです。私の学生時代の友人は大多数が静岡県の人なのですが、ほとんどの人は角もちでしょうゆ味のお雑煮を食べていたそうです。

ところが、私の実家(静岡県東部地方なのですが)は、丸もちでみそ味だったのです。中には大根や里芋が入っていました。私は、独身時代はずっとこのお雑煮でした。「みそ味で丸もちなんて、○○さんの家って関西風なのね。」とよく友人に言われていました。でも、私の両親はれっきとした静岡県人なのです。

 ただ、私の実家には祖先に伝説があります。信濃の戦国大名高遠氏の一族で、武田信玄の信濃侵略によって駿河に逃げてきたというのです。高遠氏は、信玄の側室の一人、諏訪御寮人の実家、諏訪氏の支流になります。そして、諏訪氏の遠い祖先は建御名方命と言われています。建御名方命は、「諏訪大明神」として諏訪神社に祀られています。諏訪氏に関しては、他にも色々説があるようですが、私は、「私の祖先は諏訪大明神、そして、私は諏訪御寮人や彼女のお子さま武田勝頼の親戚。」と信じているところがあります。
 それはともかく、私の実家のお雑煮は、信濃で祖先が食べていたお雑煮がそのまま伝わっているのかもしれません。みそ味としょうゆ味の境界線はよくわかりませんが、丸もちと角もちの境界線は美濃の関ヶ原と聞いたことがあります。それでいくと、信濃も角もちになるわけで、「どうして私の実家は丸もちなのかな?」と謎が深まるばかりです。
ひょっとして、私の実家の祖先は実は関ヶ原以西に住んでいたのかしら?それとも、全国各地には色々なお雑煮があるようなので、境界線とかは一概には決められないのかもしれませんね。
 もし、ここを御覧の方で信濃の諏訪・高遠とその近辺にお住まいの方がいらっしゃいましたら、どのようなお雑煮を食べていらっしゃるのか教えていただけると嬉しいです。

○「新年のご挨拶」にコメントを下さった方、年賀メールを下さった方、本当にどうもありがとうございました。まだレスを書いていない方にも、今夜には書かせていただきますので、待っていて下さいませ。

 

2005年 年賀状

2005-01-01 00:09:22 | 美術館
新しき 年のはじめの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事

 759年の元旦、当時因幡守だった大伴家持が因幡国庁で詠んだ歌です。萬葉集の最後を飾る歌でもあります。「今降り積もっている雪のように、今年も良いことがたくさん積み重なりますように。」という意味です。

☆★☆みなさま、明けましておめでとうございます!!☆★☆

 昨年中は大変お世話になりました。また、暮れの忙しい時期にブログを開設したにもかかわらず、たくさんコメントを頂けて感謝しております。また、ここを御覧になっていらっしゃるすべてのみなさま、本当にありがとうございます。何かと至らない点も多いと思いますが、本年もよろしくお願い申し上げます。

 さて、今年の豊富ですが、やはり本の紹介と平安時代の人物のことを少しずつ書いていきたいです。そして、早急に取り組みたいのは画像のUPですね。まだやり方がよくわかっていないので…こんな事もできないなんて、本当に恥ずかしいです…。こんな私ですが、どうか見捨てないでやって下さいませ。
 とにかく、我が家の猫を早くご覧に入れたいです。親ばかだと思われるでしょうけれど、本当にかわいいんですよ♪なるべく早くUPできるように努力しますので、待っていて下さいね。

 では、みなさまにとって2005年がすばらしい1年になりますよう、心よりお祈り申し上げます。