goo blog サービス終了のお知らせ 

平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

天平の三姉妹

2010-07-09 21:18:20 | 図書室1
 今回は、奈良時代を扱った歴史評論の紹介です。

☆天平の三姉妹 ー聖武皇女の矜持と悲劇
 著者=遠山美都男 発行=中央公論新社・中公新書2038 価格=882円

☆本の内容
 聖武天皇には三人の娘がいた。生涯不婚を定められ、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となって権力を振るった阿倍内親王。光仁天皇の皇后でありながら、夫を呪詛したとして大逆罪に処された井上内親王。恵美押勝の乱に加わった夫を失った後、息子たちの謀反に連坐、流罪とされて没年すら伝わらない不破内親王。凄惨な宮廷闘争の背景にあったのは何か―。皇位継承の安定のために人生を翻弄された三人の皇女の物語。

[目次]
 序章 松虫寺の墓碑銘
 第1章 三姉妹の誕生
 第2章 それぞれの出発
 第3章 塩焼王流刑
 第4章 遺詔
 第5章 道祖王、杖下に死す
 第6章 今帝、湖畔に果つ
 第7章 姉妹の同床異夢
 第8章 皇后の大逆罪
 第9章 返逆の近親
 終章 松虫姫のゆくえ

 今年2010年は、平城遷都1300年に当たる記念すべき年ということで、奈良では色々な記念行事やイベントが行われているそうです。

 私は奈良には、中学校の修学旅行で1回、行っただけなので、これを機に行ってみたいと思っているのですが、予定が立たずになかなか実行できないでいます。せめて、奈良時代の歴史の本を読んでみたいと思って、この本を手に取ってみました。

 この、「天平の三姉妹」は、聖武天皇の3人の皇女、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)、井上内親王(後の光仁天皇皇后)、不破内親王(後の塩焼王妃)の生涯を時系列順にたどった本です。専門の先生が史料に基づいて書かれているので小説ではありませんが、所々物語風な書き方をしている箇所もあり、そういう意味では、山本淳子先生の「源氏物語の時代 ー一条天皇と后たちのものがたり」の奈良時代版という印象を受けました。

 この本で一番嬉しかったことは、序章に書かれている不破内親王がモデルだとされる松虫姫の伝説を初め、不破内親王に多くのスペースが割かれていたことです。
 女帝になった阿倍内親王や、伊勢斎王から光仁天皇の皇后になった井上内親王については、様々な本で取り上げられていますが、不破内親王について取り上げられた本って今まであまりなかったですよね。

 実は不破内親王という方は、生年も没年もはっきりしないのだそうです。
 後に天武天皇の孫に当たる塩焼王と結婚するのですが、聖武天皇がなぜ、塩焼王を不破内親王の夫に定めたか、この本で興味深い考察がされていました。

 この時代の天皇の継承者は、天智・天武両天皇の血を受けている草壁皇子の子孫であることが条件だったそうです。確かに聖武天皇は草壁皇子の孫ですものね。

 更に、聖武天皇の時代になると、藤原鎌足の子孫であることもブランドであり、天皇になる重要な条件の一つでした。そのようなわけで聖武天皇は、藤原不比等の娘、光明皇后を母に持つ阿倍内親王を、皇女でありながら自分の皇太子に立てたのです。

 しかし、困ったのはそのあとです。女帝は結婚できないという不文律がありましたから…。そこで目をつけたのが塩焼王だった…ということです。
 と言うのは、塩焼王は天智天皇の血は引いていませんが、父の新田部親王の母、五百重娘は鎌足の娘、つまり、れっきとした鎌足の子孫なのです。それで聖武天皇は、塩焼王を不破内親王と結婚させることによって、阿倍内親王の次の皇位継承者にしようとしたようなのですよね。

 しかし、この計画は残念ながら失敗に終わります。塩焼王はやがて、罪を犯して流罪になってしまいます。どのような罪だったのかは不明ですが、この本では、塩焼王が聖武天皇側近の女官と密通したのではないか…と推察されていました。非常に納得という感じでした。

 その後不破内親王は、恵美押勝の乱に加わった塩焼王との死別、承徳女帝を呪詛したことによって平城京から追放、赦されて帰京したものの、数年後に息子の氷上川継の謀反に連座して淡路国に流罪と、波乱に富んだ生涯を送るのですが、上でも書きましたように没年は不明です。平安遷都の翌年、延暦十四年(795)に、淡路国から和泉国に移されたことが記録されているので、その頃までは生きていたということになりますが…。
 ただ、伊豆国に流されていた息子の川継は、延暦二十四年(805)に赦されて、後に官界に復帰している(このことは知りませんでした)ので、それだけは救いですね。

 もちろんこの本には、不破内親王のことだけでなく、阿倍内親王や井上内親王についても詳しく書かれています。彼女たちはいずれも過酷な生涯を送りましたが、与えられた運命を受け入れ、精一杯生きたように思えます。
 また、彼女たちの周辺人物や、奈良時代の政変についても詳細に解説されていますので、奈良時代の歴史のこともよくわかると思います。特に、奈良時代の皇位継承争いは苛烈で、そこがまた興味をそそられたりします。

 それから、私はこの本を読んで、聖武天皇のイメージが変わりました。
 聖武天皇というと、気の強い光明皇后の尻に敷かれた、ちょっと気の弱い天皇というイメージだったのですが、なかなか芯のしっかりした、個性的な天皇というイメージに変わりました。
 考えてみると聖武天皇は、皇女を皇太子にしたこと、東大寺にあれだけ大きな仏像を作ったことなど、型破りな事をたくさんやっています。
 また聖武天皇は、孝謙女帝となった阿倍内親王に向かって、「王を臣下にするのも、臣下を王にするのも、そなたの好きなようにすればよい。」とも言っていたそうで、これが道鏡を天皇にしようとしたことへもつながっていくのです。やはり、聖武天皇はただものではないかもしれません。

 このように、「天平の三姉妹」は、3人の皇女の人生をたどりながら、奈良時代の歴史に触れることが出来る1冊です。平城遷都1300年のこの機会にぜひ堪能してみて下さい。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

王朝摂関期の「妻」たち

2010-06-11 11:59:11 | 図書室1
 今回は、平安時代の歴史評論の本の紹介です。

☆王朝摂関期の「妻」たち ー平安貴族の愛と結婚
 著者=園明美 発行=新典社・新典社選書 価格=1050円

[出版社商品紹介]
 平安期の婚姻には正妻を筆頭に多妻間で序列があった。1人の正妻の決定、地位・安定性とは。王朝摂関期「妻」たちの姿に迫る。

[目次]
 「妻の座」をめぐる研究状況
 子の出世も母親次第?
 皇女が臣下に嫁いだら?―師輔と三人の内親王たち
 「正妻」は絶対的?―頼通と隆姫
 儀式婚vs私通婚
 「正妻」はいつ決まる?―道長の妻たち
 「正妻」の条件は?―「后がね」の母ということ
 「女房」は「正妻」になれない?
 明子は詮子の女房だった?―再び道長の妻たち
 同居する妻の強み―「正妻」の必要条件
 「妻」たちの協力体制―夫の「家」の一員として
 「摂関政治」の時代と「妻」たち―むすびにかえて

 目次と本の紹介文からもおわかりのように、平安貴族の妻の立場について、史料や論文をもとにわかりやすく解説した本です。

 平安時代は、一夫多妻であっても妻には序列はなく、後世の妾のような存在も等しく「妻」であった…ということを、私は20年くらい前に何かの本で読んだことがありました。
 しかし、最近の研究によると、「平安時代にも妻の序列はあった」「という考えが主流になりつつあるようです。
 確かに、「源氏物語」を読むと、光源氏は紫の上や女三の宮といった正妻格の女性とその他の女性とは明らかに扱い方が違いますし、ましてお手つき女房などは単なる召人で終わってしまっているようです。

 この本では、主に歴史上の人物の妻たちを取り上げ、様々な例を紹介しながら、正妻の条件についてを解説しているのですが、「読書日記」のこちらの記事で少し書いた藤原師輔の妻となった3人の皇女の立場についてを初め、今まで私が知らなかった事がたくさん書かれていて、とても興味深かったです。そこで、その中のいくつかを紹介してみたいと思います。

 例えば藤原道長の妻、倫子と明子について。
 道長の妻に関しては。倫子が正妻で、明子はそれよりも一段低い立場の妻であると言われていますし、私もその説を支持しています。
 そして、この二人の妻、倫子が儀式婚(「源氏物語」の葵の上や女三の宮のような例ですね)で、明子が私通婚(「源氏物語」の紫の上の例でしょうか)であることなどから、最初から倫子が正妻だったと言われてきたようです。
 しかし、『王朝摂関期の「妻」たち』によると、二人の出自に差がない、いやむしろ、宇多天皇の曾孫である倫子より、醍醐天皇の孫である明子の方が格が上ともいえることや、『英花物語』や『大鏡』で使われている二人の呼称などを検討した結果などから、倫子が正妻という立場になったのは結婚後7~10年ほど経過した正暦四年(994)~長徳四年(998)頃だと推論されているのです。

 では、どうして倫子が正妻となったのか?それは、正暦四年から長徳四年までに至る時期に、倫子が彰子、妍子という、将来、后がねになり得る女の子を生んだのに対し、明子は男の子しか生まなかったのが大きな原因のようです。この時代、上流貴族の妻たちにとって、女の子を生むことは大切な任務だったのですね。

 あと、自分に仕える女房や、自分と近い親族に仕える女房は、嫡男や后がねになり得る女の子を生んでも正妻になれないという話も興味深かったです。
 例を挙げると、藤原実資が将来、后がねと考えて大切に育てた娘、千古を生んだ女性は、亡くなった妻、婉子女王の女房でしたし、藤原頼通の嫡男、師実や後に後冷泉天皇の皇后となる寛子を生んだ女性、祇子は頼通本人の女房だったそうです。いずれも正妻にはなれませんでした。

 その他、正妻の立場は必ずしも安定したものではなかったとか、平安貴族の妻たちに関しては色々な説があり、まだまだ解明されていない問題もたくさんあるそうで、この本を読んですべて納得…というわけにはいきませんでしたが、上で書いたように、彼女たちに興味のある私にとっては、とても参考になった本でした。
 文章もわかりやすく、引用されている原典には口語訳がついていましたし、登場人物の簡単な略歴なども解説されていました。平安貴族の妻たちについて興味のある方にはぜひ一読をお薦めします。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

伊勢斎宮と斎王

2009-11-13 09:02:01 | 図書室1
 2004年に初めて読んだこの本、久しぶりに再読しました。

☆伊勢斎宮と斎王 祈りをささげた皇女たち
 著者=榎村寛之 発行=塙書房 価格=2415円

[目録情報]
 天皇の代わりに伊勢神宮に仕えた皇族の女性「斎王」の生活やその特色を分かりやすく解説。

[目次]
 第1章 古代国家と伊勢斎宮
 第2章 王朝物語の時代のいつきのみや
 第3章 「古代」の終焉と斎王たち
 付篇 斎宮跡を歩く

 タイトル通り、斎宮や斎王の歴史に迫った本です。

 この本の冒頭部分に、「高校の日本史教科書には、斎宮についての記載がない。」というようなことが書かれてありました。確かに私も、歴史の授業で斎宮について学んだ記憶がありません。
 私が斎宮・斎王について初めて知ったのは多分、22歳の時、「源氏物語」を初めて読んだ時だと思います。「源氏物語」の中に、六条御息所の娘が斎王となり、伊勢に赴く場面が出てきます。「平安時代には、こんな制度があったのね」とちょっとびっくりしました。

 それから2年ほどあとに、『華麗なる宮廷才女  ー人物日本の女性史1(円地文子監修 集英社)』に収められた『斎宮の系譜』(国文学者の清水好子先生の書かれた文章です)を読みました。
 この文章は、斎宮女御と呼ばれた徽子女王(929~985)の生涯を綴ったもので、幼い頃に斎王として伊勢に赴き、帰京後は村上天皇の女御となり、天皇の崩御後、かつての自分と同じように斎王となった娘につき従い、母が娘につき従って伊勢に下るという先例がないのにもかかわらず、再び伊勢に下った彼女の生涯に衝撃を受け、斎王と徽子女王に興味を持ちました。
 それから、「斎宮や斎王についてもっともっと知りたい」とずっと思っていました。しかし、斎宮について書かれた本はなかなか手に入りませんでした。なので、2004年にこの本を手にしたときは感激しました。

*ちなみに、天皇の名代として伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王または女王(親王の娘)のことを「斎王」と呼び、伊勢に下った斎王が日常を過ごしていた宮殿や、宮殿の周りにあった役所を「斎宮」と呼んでいました。ただ、賀茂の斎王(京都の賀茂神社に奉仕する未婚の内親王または女王)のことを「斎院」と呼ぶこともあったため、伊勢の斎王についても便宜的に「斎宮」と呼ぶこともありますが、ここでは「斎王」と記載させていただきます。

 では、本の内容と感想に移りますね。

 第1章では、斎宮の始まり、大来皇女を初め、井上内親王・酒人内親王・朝原内親王のいわゆる「三代の斎宮」と呼ばれる古代~平安初期の斎王たちの紹介、斎王に関する儀式、斎宮の発掘調査などが解説されています。

 この章で私が特に興味深かったのは、斎王卜定から伊勢群行までの儀式や手順についての解説でした。占いによって斎王に卜定された内親王または女王は、すぐに伊勢に赴くのではなく、まず書斎院で1年を過ごし、さらに1年、野宮で禊を受けます。こうして神に仕える身となった斎王は、天皇から「別れの御櫛」をさしてもらい、ようやく伊勢に群行することになるのです。
 また、これはあまり知られていないことかもしれませんが、任を終えて京に帰還する途中、斎王は普通の内親王に戻るための禊を受けることになっていました。やはり、「斎王」というのは神聖なものなのですね。

 第2章では、平安中期の斎王たちを古典文学と絡ませながら紹介しています。「伊勢物語」の69段に描かれた恬子内親王について、詳しく紹介されていて読み応えがありました。

 そして、「源氏物語」に登場する斎王、六条御息所の娘で、後に冷泉帝に入内して「秋好中宮」と呼ばれることになる女性についても紹介されていますが、実は、六条御息所・秋好中宮は徽子女王がモデルだと言われているのです。
 つまり徽子女王は、教養が高いところ、娘につき従って伊勢に下ったところは六条御息所に、斎王を降りたあとに天皇に入内したところは秋好中宮によく似ていますよね。もちろん、徽子女王の生涯についても詳しく紹介されていて嬉しかったです。

 さらに今回、再読してみて私がなるほどと思ったのは「百人一首と斎宮」の項目でした。実は、百人一首に歌が採られている斎王は一人もいないのですが、その周囲の人物の歌はいくつか採られているのですよね。
 私は、三条天皇御代の斎王、当子内親王との悲恋で有名な藤原道雅しか、思い浮かばなかったのですが、紫式部の曾祖父の藤原兼輔は、醍醐天皇御代の斎王、柔子内親王を伊勢に送ってきた長奉送使の随身だったそうです。また、彼と親しかった藤原定方も、使者として斎宮に行ったことがあるのだそうです。これらの話は目からウロコでした。

 第3章では、斎宮託宣事件から始まり、源平時代の斎王、更に鎌倉時代の斎王、そして、斎宮の滅亡に至るまでの歴史が解説されています。
 鎌倉時代になると、財政難のため、卜定はされたものの伊勢には赴かない斎王も多くなります。最後に斎王を卜定したのは後醍醐天皇ですが、建武の中興の失敗により、斎宮制度も終わりを告げます。これも時代の流れなのでしょうね。

 そして付編では、斎宮の10分の1模型や斎宮の森、竹神社などの史跡が写真入りで紹介されています。これを読むと斎宮に行ってみたくなります。

 以上、本の内容を簡単に紹介させていただきましたが、読み終えて思ったことは、「斎王たちのたくましさ」です。

 先例など気にも止めなかった徽子女王や斎宮託宣事件の(女専)子女王はもちろん、恬子内親王や古代の斎王たち、さらには、伊勢に行く気満々だったのについに斎宮に来ることはなかった最後の斎王、祥子内親王など…。肉親から引き離されて未知の土地、伊勢斎宮に赴かなければならなかった斎王たちを「かわいそう」とは捕らえたくないです。彼女たちは天皇の名代であり、誇りを持って斎王を勤めていたのだと思います。

 それと、著者の榎村先生も書いておられますが、伊勢は京都に比べると温暖で魚介類などの食べ物も新鮮でおいしく、更に周りの人たちが斎王が京にいたときと同じように過ごせるように気を配っていたので、案外楽しかったのではないかなと思ったりします。

このように、「伊勢斎宮と斎王」は、斎王について多面的に、しかもわかりやすく解説されている読みやすい本だと思います。各項目の本文のあとには、「もっと知りたい人のために」と題して、さらに掘り下げた解説をして下さっているので知識欲をそそられます。お薦めの1冊です。

☆斎宮や斎王について詳しく知りたい方は、斎宮歴史博物館の公式ホームページもお薦めです。歴代斎王一覧、斎宮百話、斎宮千話一話、斎宮の史跡案内など読み応え満載です。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

陽成院 ー乱行の帝

2009-04-16 09:53:08 | 図書室1
 今回は、2009年3月16日に紹介した「泥(こひ)ぞつもりて」の巻末に参考文献として挙げられていたこの本を紹介いたします。

☆陽成院 ー乱行の帝
 著者=山下道代 発行=新典社・新典社選書17 価格=1470円

☆本の内容紹介
 9歳で天皇となり、17歳で自らの乱行により退位させられ、82歳で崩御するまで歴史の外側を生きた帝、陽成院。その数奇な生き様を、在位時だけでなく退位後にも眼を向け、余す所なく描く。

☆目次
 皇太子貞明親王
 在位時代
 退位
 正系交替
 父権なき上皇
 妃たち
 高子廃后
 醍醐朝の陽成院
 朱雀朝の陽成院
 村上朝の陽成院
 崩御
 和歌と陽成院
 いくつかの挿話
 生涯余生
 (付)水尾


 陽成院(第57代天皇 868~949)に関しては、「物狂いの君」などと言われ、その乱行がクローズアップされるなど、あまり評判が良くないようです。
 しかし、「陽成院はなぜ若くして退位させられたのか?」「退位後の陽成院と、光孝、宇多、醍醐天皇との関係、更に、摂関家との関係はどうだったのか?」「陽成院の退位後の立場は?」など、私にとっては以前から興味が尽きない方でした。

 この、「陽成院 ー乱行の帝」は、「三代実録」などの史料、「大和物語」「大鏡」などの古典に描かれている陽成院についての記事を紹介し、彼の生涯をまとめたものです。特に、私が最も知りたかった退位後の陽成院に多くのスペースが割かれていて嬉しかったです。

 それで、退位後の陽成院ですが、やはり、同世代の宇多天皇にはかなりの対抗心と反感を持っていたようです。そのため、退位して数年間は、馬を乗り回したり、源融の宇治の別荘を占拠したりするなど、乱行も多かったようですね。更に、光孝・宇多天皇に天皇家の正系が移ってしまったため、陽成院には上皇としての発言力も権力も与えられていなかったようなのです。

 しかし、時が経つと共に状況も変化し、醍醐天皇から朱雀天皇へと御代が移る頃の陽成院は、自分に変わって帝位についたこれらの光孝・宇多系の天皇たちとの融和を計っていったようです。陽成天皇が所持していた代々の天皇に伝えられていた御物を、朱雀天皇に進呈したことなどがその一例です。
 また、陽成院はれっきとした摂関家の血を引く上皇だったため、摂関家からはかなり大切にされていたようです。つまり、陽成院は決して、宮廷社会から疎外されていたわけではなかったようなのですよね。何となくほっとした気持ちになりました。

 またこの本では、陽成院に関する逸話や人となり、妃たちや皇子皇女、周りの人々にも触れられていて、とても興味深かったです。

 そして圧巻なのは、最後に収められていた陽成院の父、清和天皇の御陵への紀行文です。清和天皇は退位後出家し、水尾の里で荒行を送ったと伝えられ、御陵も水尾の山の中にあるそうです。水尾の里の人々が千年の間、御陵を守り続けていたことが紀行文からひしひしと伝わってきて感動的でした。


☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。
トップページへ戻る

 

平安京散策

2009-04-07 10:13:24 | 図書室1
 久しぶりに、角田文衞先生の御著書を紹介します。

☆平安京散策
 著者=角田文衞 発行=京都新聞社 価格=1680円

☆本の内容紹介
 「源氏物語」「平家物語」など、王朝文学を追想しながら往時の遺跡60を訪ね分かりやすく解説した平安京探訪記。

☆目次
平安の都
大内裏
 豊楽院ほか
左京
 枇杷殿 堀川院 三条西殿 源経基の墳墓ほか
右京
 左獄と右獄 学館院ほか
洛東
 東北院 中川のわたりほか
洛北
 紫野の斎院 大雲寺ほか
洛西
 嵯峨院 定家の小倉山荘ほか
洛南
 安楽寿院ほか
 平安京と私 ーあとがきに代えて


 以前から気になっていて、「読んでみたい」と思っていた本でしたが、絶版のため古書店を探してもなかなか見つかりませんでした。
 しかし嬉しいことに今年の1月に復刊されたという情報を知り、こちらからネット購入しました。送料はかかりましたが、それでも買って全然損ではなかったです。

 この本は、内容紹介や目次からもわかりますように、平安京とその周りに点在する古典や平安時代史に登場する史跡を紹介したものです。内容も、貴族の邸宅はもちろん、寺社、墓所、官庁など、とても多彩です。なので、平安京への案内書として最適だと思います。それぞれの史跡が現在の京都市内のどのあたりにあるかも解説されているので、この本を片手に、京都を歩いてみるのも楽しいと思います。

 更に嬉しいことに、単なる史跡案内にとどまらず、その史跡にまつわる歴史や人物についても丁寧にわかりやすく紹介して下さっているのです。これは歴史好きにとってはたまりません。

 ちなみに「左京」の項に収められている竹三条宮の内容を少し紹介してみます。

 冒頭には、「枕草子」第六段のエピソードが紹介されています。この第六段の舞台がまさに竹三条宮なのです。

 そのあと、この邸宅は元々平生昌(桓武平氏高棟流)の邸宅であったこと、長保元年(999)、一条天皇の中宮藤原定子のお産のために邸宅を提供したこと(この時、生昌は定子の中宮大進でした)、中宮はここで敦康親王を生んだこと、翌年、定子は再び懐妊して竹三条宮にて(女美)子内親王を生んだが、翌日、その薄幸の生涯を閉じたことが述べられています。

 …と、ここまではよく知っていたのですが、その後の竹三条宮について、私はあまりよく知りませんでした。でも、この本に詳しく載っていたのです。嬉しかったです。

 すなわち、寛弘五年(1008)、生昌は竹三条宮を定子所生の皇子皇女たちに献上し、その功で播磨守に任じられます。
 一条天皇の崩御後、竹三条宮は脩子内親王(一条天皇第一皇女、母は藤原定子)の御所と定められて修築され、内親王は長和二年(1013)にこちらに移られました。その時、清少納言も脩子内親王のお供をしていたのではないかと書かれていました。

 さらに時が流れ、脩子内親王は永承四年(1049)にこの御所で亡くなり、竹三条宮は、宮の養女、藤原延子(後朱雀天皇女御、実父は藤原頼宗、母は定子の兄藤原伊周の女、そのため、脩子内親王と延子の母はいとこ同士ということになります))に、そして延子が嘉保二年(1095)に亡くなった後には、延子が産んだ正子内親王に伝えられます。

 ところが承徳二年(1098)二月二十二日に起こった大火によって竹三条宮は焼けてしまいます。これに目をつけた関白藤原師通は、代替えの御所を正子内親王に献上し、竹三条宮の故地を摂関家領とし、北に隣接する小二条殿と合併してしまいます。こうして南北二町に及ぶ二条東洞院殿が造成されたのでした。そして、
この大邸宅は、白河法皇以来、院御所ないし里内裏として大きな歴史的役割を演ずるこ
ととなったのだそうです。

 最初は受領階級の平生昌の邸宅だったのが、定子中宮の産所に提供され、やがて脩子内親王の御所となり、内親王の養女とその娘に伝領され、火事で焼けてしまったために摂関家の領地となる、何か波乱に富んだ邸宅ですね。でも、その変遷の面白さにはちょっとわくわくします。

 このように、この本では史跡一つ一つの歴史や、関わった人物について興味深く解説されています。そして、角田先生の平安京や平安時代に対する深い愛情も感じられます。何度も読み返してみたい本だと思いました。お薦めです。

*私は2008年5月、竹三条宮址の向かいにある、在原業平の邸宅址を訪れました。その時のレポートを、新緑の京都で装束体験こちらに載せてあります。竹三条宮についても少し触れてありますし、近隣にある邸宅址についても紹介してありますので、ご興味のある方はご覧になってみて下さい。


☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。
トップページへ戻る

かぐや姫の結婚

2008-11-14 10:08:17 | 図書室1
 今回は、平安時代の姫君たちにスポットを当てたこの本を紹介します。

☆かぐや姫の結婚 日記が語る平安姫君の縁談事情
 著者=繁田信一 発行=PHP研究所 価格=1470円

☆本の内容紹介
 平安朝をうつす日記『小右記』を綴った藤原実資。かの藤原道長のライバルと言われた実資には、“千歳まで生きてほしい”との願いをこめて、千古と名づけた娘がいた。王朝貴族として幾多の縁談に翻弄される姫君、藤原千古の運命とは…。

 では、もくじとそれぞれの章の簡単な内容を紹介します。なお、☆以降はえりかによる感想です。

序章 ふられ続けるかぐや姫

 藤原実資が55歳の時にもうけた娘、千古の結婚に至るまでの事情をかいつまんで説明してあります。

☆千古は、三度目に持ち上がった縁談がようやく実ることになるのですが、どうして二度も破談になったのか、興味をそそられました。先が読みたくなります。

第1章 名門貴族家の姫君

 後に右大臣にまで昇進することになる藤原実資(957~1046)の娘、千古は、寛弘八年(1011)に誕生しました。55歳で父親になった実資はよほど嬉しかったらしく、日記「小右記」にしばしば千古のことを書いています。この本はその「小右記」の内容を中心に話が進められていきます。

 この章では、千古の生い立ちが語られています。実資は、千古が病気になったと言っては九州から薬を取り寄せたり、行列見物に行きたいとせがまれれば自分が病気で宮中への出仕を休んでいる日であろうと千古を連れて出かけたりなど、とにかく甘い父親です。

☆ついには、「自分の財産はすべて千古に譲る」と決心する実資さん。実資さんには、僧籍に入った実子をはじめ、養子も何人かいたのですが、そんな兄たちを押さえて千古は、実資の莫大な財産の相続人となったわけです。まさに「猫かわいがり」ですね。その理由が知りたくて、次の章を読んでみました。

第2章 かぐや姫の姉君たち

 実資は17歳の頃、文徳源氏の源惟正の女を妻に迎えています。その女性は寛和元年(985)に娘を産みました。実資は娘が欲しかったらしく、清水寺に願掛けをしていたので、娘の誕生に大喜びしたことは言うまでもありません。しかしその娘は数え6歳で世を去ってしまいます。それと前後して実資の妻はもう一人娘を産むのですが、妻は間もなく亡くなり、娘も早逝してしまいます。
 また実資は、実姉の女房との間にも娘をもうけたようですが、その娘も創逝してしまいます。その後、実資は婉子女王(為平親王女)と結婚。二人は大変仲睦まじかったようですが、なぜか子供には恵まれませんでした。婉子女王も若くして世を去り、その十数年後、女王の女房だった女性との間にもうけたのが千古だったのです。

☆実資さん、千古ちゃんのパパになる前、娘を何人も亡くしていたのですね…。それに女運も良くなかったようで気の毒です。そのため、「もうあんな悲しい思いはしたくない。この子だけはどうしても無事に成長させなくては」と思って大切にしていたのですね。

第3章 妃になれない姫君

 千古に最初に縁談話が起こったのは治安三年(1023)のことでした。相手は源師房。村上天皇の皇子、具平親王の嫡男で、子だからに恵まれない関白藤原頼通の養子になっていた人物です。もし、このまま頼通に子が生まれなかったら、関白の跡継ぎになるかもしれないという、申し分のない貴公子です。しかし師房は、藤原道長の女、尊子との縁談がまとまり、この話は破談になってしまいました。どうやらその頃、千古の身には、入内前の朧月夜のような事が起こっていたようなのです。

☆千古の相手は、実資の兄、懐平の子である藤原経任だったようです。千古にはいとこに当たります。もしかしたら幼い頃から、兄のように慕っていた人物だったかもしれません。しかし当時の上流階級の姫君は、本人の意志よりも周りの思惑が優先されてしまう。千古ちゃんにとってははかない恋だったのでしょうね。

第4章 かぐや姫と貴族社会

 千古の着裳は、万寿元年(1024)十二月に執り行われました。この章では、その着裳に至るまでの出来事が述べられ、その後、千古が仏事や神事を受ける様子が語られます。どうやら着裳をすませた千古には、上流貴族たちから羨望のまなざしや、時によっては呪詛のようなものも向けられていたようなのです。

☆実資に着裳をすませた結婚適齢期の娘がいるということは、実資がこの娘を使って勢力拡大をはかるかもしれない…という恐れと羨望が、他の貴族たちにはあったようなのですよね。当時の貴族たちの勢力争いのすさまじさがかいま見えるような気がしました。「娘が呪詛されては大変…」という、実資パパの必死さも伝わってきます。

第5章 焦りはじめる竹取の翁

 千古に次の縁談話が起こったのは万寿二年(1025)のことでした。相手は藤原道長の子、長家です。
 ところが、思わぬ妨害が入ります。その頃、長家は二度目の妻を亡くしたばかり、そこで、前妻の父である藤原斉信が横やりを入れてきたのです。当の長家も優柔不断で、この縁談は前進せず、万寿四年を迎えます。そして結局、この話も破談になってしまいます。

☆実資と斉信は仲が悪かった…という話を聞いたことはあったのですが、こんなところにも因縁があったのですね。実は先にも触れた千古の恋の相手、経任は斉信の養子になっていたようなのです。と言うことは、斉信が千古の結婚を妨げる目的で、経任を千古に近づけたのかもしれない…、ということが、この章に書かれていました。それでは千古ちゃんがあまりにもお気の毒ですね。

第6章 姫君たちの零落

 この章の最初には、藤原道兼女の話が述べられています。道兼は「7日関白」と呼ばれた不運な人物ですが、この娘は道兼の死後に生まれました。彼女の母は藤原顕光と再婚しますが、顕光はこの娘に冷たく、ついに彼女は道長女の威子(後一条天皇中宮)の女房になってしまいます。
 その他、藤原彰子(一条天皇中宮)の女房になってしまった藤原伊周女、藤原道長の妾になってしまった藤原為光女、藤原寛子(後冷泉天皇皇后)の女房になってしまった敦明親王の皇女、藤原彰子の女房になってしまった花山天皇の皇女など…、零落した姫君のことが書かれていました。世が世なら、上流貴族や皇族の姫として、大切にかしずかれていたはずの姫君たちです。

☆皇族の皇女までが道長の娘や孫たちの女房になっていたとは、驚きました。父や夫を亡くした姫たちは、たとえ生まれが高貴でも、女房勤めをするしか道がなかったのですね。確かに、千古も一歩間違えばこんな風になっていたかもしれませんね。実資が亡くなってしまったら、たとえ財産はすべて譲られることになっていたとしても、兄たちに横取りされなかったとも限りませんし、身分に釣り合った結婚もできませんよね。確かに著者が述べられているように、千古ちゃんは運のいい姫君です。

第7章 かぐや姫の結婚

 長元二年(1029)、ついに、千古の縁談がまとまります。相手は藤原頼宗の子、藤原兼頼(道長の孫)。千古より若干年下ですが、身分的には充分釣り合う相手です。最初、あまり乗り気でなかった実資ですが、養子の資平や資頼の働きかけで承諾、正式な北の方ではなかったためこれまで縁談にほとんど口を出さなかった千古の母も協力したようで、19歳の千古はようやく花嫁となることができました。しかし、周りが一生懸命になったのはよいとして、当の千古の気持ちはどうだったのでしょうか。

☆実は、結婚しても千古は実資に行列見物をおねだりし、父と一緒に出かけていたようなのです。時には、病気の夫を家に置いて見物に出かけたこともあったとか…。千古が最もあこがれていたのは、自分をかぐや姫の如くかわいがってくれた実資パパだったのかもしれませんね。

終章 かぐや姫の去りし後

 こうして始まった二人の結婚生活ですが、実は、あまり長続きしなかったみたいなのです。

 どうやら千古は、長暦元年か2年頃(1037か38)、つまり27歳か28歳の頃に、娘を一人残して亡くなってしまったようなのです。著者は、娘を産んだあとの産褥死なのではないかと推定されていました。千古をかわいがっていた実資はその後、「尋常ではなかった」そうです。(実資養孫、藤原資房の日記『春記』による)。

☆実資さんは、亡くなるまで出家もせず、日記に日頃のぐちを書いてストレス発散していた人だったのかなと思っていたのですが、娘が亡くなったあとは魂が抜けたようになって、ひたすら冥福を祈る日を送っていたのでしょうね。そんなわけで、実資さんのイメージが大きく変わりました。

 それにしても、世に「かぐや姫」と呼ばれ、千年の命を持って欲しいとの願いを込めて「千古」と名づけられた姫が若くしてこの世を去ったことも哀しいですが、幼い娘を残して死んでいかなければならなかった千古さんがどんなに心残りだったかを考えると、もっと切なくなります。そしてその忘れ形見の娘は、何と百歳近くまで長生きしたそうです。90まで生きた実資おじいさんの血なのでしょうか?


 以上、述べてきましたように、「小右記」を中心に引用しながら、藤原実資の女、千古の生涯が綴られた本です。

 この本を読み終わっての感想ですが、若くして亡くなってしまったのはかわいそうですが、千古はやはり、平安時代の姫君の中では幸福な部類に入るのかな…、と思いました。父親から愛され、その父親が高齢だったのにもかかわらず長生きし、身分相応の夫を持つこともできたのですから。

 また、藤原実資の日常生活がかいま見られて興味深かったですし、何よりも、平安時代の上流貴族の姫君の実態がわかって、こちらも興味深かったです。引用してある「小右記」の原文も、現代文で訳されていますので読みやすく、わかりやすかったです。お薦めです。


☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

藤原氏千年

2008-09-22 10:42:17 | 図書室1
 今回は、藤原氏の歴史をコンパクトにまとめた本を紹介します。

☆藤原氏千年
 著者=朧谷 寿 発行=講談社・講談社現代新書 価格=756円

本の内容
 始祖・鎌足から不比等、良房らをへて道長に至り、ついに満天に輝く望月となった藤原一族。権謀、栄華、零落、風雅、伝統…。今に伝わるその足跡をたどる。

[目次]
プロローグ
第1章 草創と権力奪取の時代―鎌足・不比等と藤原四家
第2章 躍進する藤原氏―三家の衰退と北家の進出
第3章 栄華への道―骨肉の争い
第4章 望月の人―道長と摂関絶頂期
第5章 欠けゆく望月―院政期の藤原諸流
第6章 家意識の確立―中・近世の公家
エピローグ

*画像は、私が所持している旧版の表紙です。現在では表紙のデザインが変わっています。本の内容は同じです。


 本の内容紹介や目次でおわかりのように、藤原氏の千数百年にわたる歴史を綴った歴史評論です。藤原鎌足が中大兄皇子とともに起こした大化の改新から始まり、二代目不比等の登場、藤原四家の成立、北家の躍進、他氏排斥、藤原北家内での骨肉の争い、道長の栄華、院政の始まりによって摂関家が衰退、五摂家の成立、更にはその後の戦国・江戸・明治の藤原氏についてまでをコンパクトにまとめた本です。

 私がこの本を初めて読んだのは6年ほど前のことですが、平安時代に関する専門書をほとんど読んでいなかった頃にもかかわらず、楽しく読むことができたのを思い出します。つまり、2008年8月15日に紹介した「平安王朝」と同じく、初心者にも親しみやすく読める本だと思います。平安時代に多くのスペースを割いていますので、「平安王朝」と合わせて読めば、平安時代により親しみを増すこと、間違いなしです。

 圧巻なのは「第3章 栄華への道」です。実頼と師輔の性格の違いの書き分けが面白く、安和の変が興味深く描かれていました。しかし、最も面白かったのは、兼通・兼家兄弟の対立を、兼通の立場で書いてあった部分でした。兼通は兼家に比べると器量がなかったため、陰謀を働かせるしか道がなかったようなのです。そのため、安子中宮に「摂関は兄弟の順に」という誓約書を書いてもらったりしたとか。その結果、兼通は、兼家の摂関を阻止したわけなのですよね。

 第4章の道長の話も面白かったです。この章で多く引用されていたのはやはり「小右記」。実資さんが存在感ありました。それと、若い頃に道長の側近として彰子の中宮冊立などに力を尽くし、道長と同日に世を去った藤原行成について、「つきあいのいい男」などと書かれていて、まじめな歴史評論なのにくすっと笑ってしまいました。

 更に忘れてはならないのが第6章とエピローグ。鎌倉時代以降の藤原氏がスポットを当てられることって、あまりないですよね。この本では、五摂家の成立はもちろん、風流人・三条西実隆や、地方に流れていった一条兼良など、室町・戦国時代の藤原氏の人たちが紹介されています。更には明治時代、公家が京都から東京に移ったあと、京都での留守居役を命じられた冷泉家(藤原定家の子孫)についての記述も興味深いです。伝統を守り続けている冷泉家についての記述は、藤原氏が現代でもしっかりと生き続けていることを再認識させられます。

 このように、藤原氏を追いながら、飛鳥時代から近現代までの歴史をたどることもできる1冊です。藤原氏の変化に富んだ歴史、ぜひ堪能してみて下さい。


☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

平安王朝

2008-08-15 10:00:32 | 図書室1
 久しぶりの「図書室1」の更新は、平安時代の天皇たちの年代記とも言えるこの本です。

☆平安王朝
 著者=保立道久 発行=岩波書店・岩波新書

本の内容紹介
平安時代は従来、藤原氏が専横をきわめる時代として描かれ、天皇は後景に退いていた。
 だが、その理解は正しいだろうか?
 著者は、王権の運動と論理こそ時代を動かした力であると捉え、桓武から安徳にいたる32代の「王の年代記」に挑む。
鮮やかに浮かび上がる新しい平安時代像とは何か?歴史研究の醍醐味を伝える通史叙述。

目次
1 桓武天皇とその子どもたち
 桓武天皇のイメージ;桓武の子どもたち
2 都市王権の成立
 『源氏物語』の原像=仁明・清和・陽成・高子;王統が動く=光孝・宇多をめぐるドラマ;延喜聖帝=醍醐と道真の怨霊;「狂乱の君」=冷泉がもたらした暗雲
3 「摂関政治」と王統分裂
 円融・花山の角逐と兼家の台頭;一条と三条=道長の黄金時代;「後」のつく天皇たち=爛熟への傾斜
4 「院政」と内乱の時代
 院政の成立=後三条の登場;白河王統の確立と摂関家の屈服;内乱の時代へ;後白河天皇の歴史的位置

*現在では絶版のようです。ご興味を持たれた方、図書館か古書店を当たってみて下さい。


 紹介文や目次を見ておわかりのように、平安時代の天皇家の歴史を、主に藤原摂関家と関わらせながら描いた歴史評論です。桓武天皇から始まり、嵯峨系・淳和系の平和的並立、しかし、承和の変によってそれが打ち砕かれ、嵯峨天皇の皇子、仁明天皇の直系が帝位につくことになります。しかし、陽成天皇の退位によって光孝天皇が即位、新しい王統が始まることになります。やがてその王統も冷泉系と円融系の二つに分かれ、藤原道長の登場によって円融天皇の皇子、一条天皇の子供たちが帝位につき、更に後三条・白河天皇の登場で院政が始まり、ついには内覧の時代に突入するといった歴史の流れをコンパクトにまとめてあります。天皇家を中心にした平安時代の歴史の本は、ありそうでなかなかないので新鮮だと思います。

 それで、まず読んだ感想を書きますと、この本とても面白いです。実は今回は再読で、初めて読んだのは7年前、私がまだ平安時代に関する専門書をほとんど読んだことがない頃でしたが、すごく楽しめたのを覚えています。つまり、初心者にも楽しく、わかりやすく読める本だと思います。

 更に、新書なので内容がコンパクトなのですが、どうしてどうして、かなりマニアックな内容にも触れていて、読んでいてわくわくします。以下に、この本に書いてあるマニアックな事柄を覚え書き的に少し書いてみます。

○陽成天皇は高子と在原業平の子だという噂があり、それが「源氏物語」の構想のモデルの一つになったのではないか。

○藤原時平の妹、穏子の入内を阻止するため、宇多天皇と班子女王は醍醐天皇のもとに為子内親王(光孝天皇と班子女王との間に生まれた皇女)を入内させた。しかし為子内親王は皇女を産んで間もなく亡くなった。このことについて班子女王は、「穏子の母親による呪詛のためだ」と言ったということである。

○「大鏡」に出てくる雲林院の菩提構は、三条天皇皇后の藤原(女成)子の四十九日の法要だった。

○清和源氏(武門源氏)は、従来言われているような摂関家との関係だけでなく、天皇家とも関わりを持っていた。源満仲は花山天皇とも深い関わりを持っており、天皇の跡を追って出家した。さらに満仲の子供たちは、小一条院敦明親王と関わりを持っていた。
 そしてその子孫である義家は、白河上皇によって即位への道を閉ざされた輔仁親王と関わりを持っていた。一方、白河上皇と深い関わりを持っていたのが平正盛・忠盛親子である。こんなところにも、源平対立の要因があるのではないか。

 また、平安時代には皇太子空位の時期が多かったことにも驚かされました。このような皇太子空位の多さも、しばしば皇位継承争いや皇統の交替が起こった原因かもしれませんね。ともあれこの本、「平安時代の歴史は面白い」ということを強く感じさせてくれる1冊です。お薦めです。


☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

源氏物語の時代

2008-04-08 16:22:37 | 図書室1
 今回は、「源氏物語」の書かれた一条朝を描いた、歴史エッセイを紹介いたします。

☆源氏物語の時代 ー一条天皇と后たちのものがたり(朝日選書 820)
 著者・山本淳子 発行・朝日新聞社 税込み価格・1365円

本の内容紹介
 『源氏物語』を生んだ一条朝は、紫式部、清少納言、安倍晴明など、おなじみのスターが活躍した時代。藤原道長が権勢をふるった時代とも記憶されているが、一条天皇は傀儡の帝だったわけではなく、「叡哲欽明」と評された賢王であった。皇位継承をめぐる政界の権謀術数やクーデター未遂事件、当時としてはめずらしい「純愛」ともいうべき愛情関係。ドラマチックな一条天皇の時代を、放埓だった前代・花山天皇の、謀略による衝撃的な退位から書き起こし、現存する歴史資料と文学作品、最新の研究成果にもとづいて、実証的かつ立体的な「ものがたり」に紡ぎあげる。『源氏物語』が一条朝に生まれたのは、決して偶然ではない。

[目次]
 序章  一条朝の幕開け
 第1章 清涼殿の春
 第2章 政変と悲劇
 第3章 家族再建
 第4章 男子誕生
 第5章 草葉の露
 第6章 敦成誕生
 第7章 源氏物語
 終章  一条の死


 紹介文にもありますようにこの本は、花山天皇の衝撃的な退位から筆を起こし、一条天皇の即位、定子との結婚、中関白家没落と道長の登場、そして彰子入内、「源氏物語」の誕生、一条天皇の退位と死に至るまでの激動の時代を、「日本紀略」といった史書、「小右記」「御堂関白記」「権記」といった貴族の日記、「枕草子」「大鏡」「栄花物語」といった古典文学に基づき、一条天皇と彼の二人の后、藤原定子(藤原道隆女)、藤原彰子(藤原道長女)を中心に描いた歴史エッセーです。小説ではありませんが、物語風に書いてある場面もあり、親しみやすくわかりやすいです。それでいてとても正確で、この時代を理解する上で最適の本だと思いました。

 この本を読んで感じたことは、主役である3人…、一条天皇、藤原定子、藤原彰子の人間的な魅力でした。特に、一条天皇と定子の純愛については力を入れて書かれています。

 一条天皇は学問に優れ、人間的にも立派な人物であったこと、そしてその一条天皇の魅力にさらにみがきをかけたのが定子との愛情であったことが繰り返し語られています。定子は話題豊富で、明るくユーモラスな性格の女性でした。一緒にいて楽しい女性だったのでしょうね。そんな定子に、一条天皇が深い愛情を感じたことはごく自然なことだったのかもしれません。
 定子の実家、中関白家が没落してからも、一条天皇は定子に変わらぬ愛情を注ぎ、必死に守り抜こうとします。二人の純愛には胸を打たれます。

 一方彰子は、定子の崩御の1年前に入内したのですが、12歳という幼さのため、権力者道長の娘という立場がかえって痛ましく感じました。しかし、何もわからないお人形で終わらなかったところが彰子のすばらしいところです。
 彰子が紫式部に漢籍の講義を頼んだ本当の理由は、漢籍を学ぶことによって一条天皇の話し相手になりたい、そして、一条天皇の真の后になりたいという願いからだった…と、この本に書かれていましたが、私も同感です。彰子の一人目の子、敦成親王は、一条天皇が「道長との融和のため、何としてでも彰子を身ごもらせなくては」という必要に迫られてできた子であるのに対し、二人目の子である敦良親王は、二人の真の愛情によってできた子でした。しかし、それでも一条天皇が最も愛した女性はやはり定子であり、彼の辞世の句は定子に捧げられたものだったようです。

 その他、清少納言や紫式部も登場します。清少納言と定子は、信頼し合った友人同士という関係だったのに対し、紫式部と彰子は、「頼りない中宮さまを守ってあげなくては」という関係だったというのも面白いです。

 また、一条天皇が崩御したあとの彰子、清少納言、紫式部にも触れられていました。彰子が権力を持った立派な后になっていく姿には感動します。

 このように、各人物の性格や行動が具体的に描かれていますので入りやすい本だと思います。「源氏物語」は知っているけれど、物語の書かれた時代のことはよく知らないという方には入門書として最適です。もちろん、この時代や人物のファンの方にも、新しい発見がたくさんある本だと思います。お薦めです。

☆トップページに戻る

紫式部伝 その生涯と「源氏物語」

2008-02-01 10:13:07 | 図書室1
 2週間ほど前に読み終わった角田文衞先生著の「紫式部伝 その生涯と源氏物語」を紹介いたします。

☆源氏物語千年紀記念出版 紫式部伝 その生涯と「源氏物語」
 著者=角田文衞 発行=法蔵館 価格=9200円

☆もくじ
 第一章 紫式部の境涯
   紫式部の本名
   若き日の紫式部
   越路の紫式部
   紫式部の結婚
   紫式部と常陸国
   紫式部の居宅
   土御門殿と紫式部
   紫式部の歿年
   紫式部の墓
   紫式部の子孫

 第二章 紫式部をめぐる人びと
   紫式部の伯母と従姉
   源典侍と紫式部
   ある夜の紫式部
   実資と紫式部
   道長と紫式部
   紫式部と藤原保昌
   紫式部と清少納言

 第三章 紫式部と『源氏物語』
   若紫の君
   源氏の物語
   北山の『なにがし寺』
   大雲寺と観音院
   『雨夜の品定め』をめぐって
   夕顔の宿
   夕顔の死
   源氏物語後宮世界の復原
   紫野斎院の所在地
   源氏物語の遺跡
   秋のけはひたつままに

結語にかえて
   紫式部の影響と研究の歴史 
   『大島本源氏物語』の由来

紫式部略年譜・系図
あとがき


 一言で言うと、この本すごいです。9200円は決して無駄ではありませんでした。角田先生のご著書全般に言えることなのですが、とにかく斬新で面白いです。また、専門書にしてはわかりやすい文章だと思います。そして、今まで私の知らなかった「えっ」という話が満載でした。

 もくじをご覧頂いておわかりのように、第一章では、紫式部の生涯について、ほぼ年代順に述べられています。

 紫式部が彰子中宮のもとに初めて出仕した日について角田先生は、寛弘二(1005)年十二月二十九日と推定されていますが、実はその前日の藤原行成の日記「権記」に、「ある女性を命婦に任じた」と推定できる記事があるそうです。実はこの女性こそ紫式部であるとのこと。また、「源氏物語」に出てくる常陸国や肥前国は、紫式部と縁続きの人たちの多くが受領として赴任した国なのだそうです。そのほか、「めぐり逢ひての歌の贈答の相手は藤原実方の女である」「紫式部の没年は長元四(1031)年である」など、興味深い話が集録されていました。

 第二章では、紫式部の周りの人たち、関わった人たちについて述べられています。

 「源氏物語」で色好みのおばあさんとして登場する源典侍のモデルは、宣孝の兄、説孝の妻であった源明子であること、彼女は源典侍と呼ばれていたやり手の女官であったこと、また、彼女の思いがけない出自についても述べられていました。しかし、私が一番驚いたのは、後に和泉式部の夫となった藤原保昌が、一時紫式部と恋仲だったということです。

 第三章では、「源氏物語」を主として地理・歴史的に考察しています。

 夕顔の宿や、夕顔が憤死したなにがしの院の位置をはじめ、光源氏が紫の上を見いだした「北山のなにがし寺」のモデルとされる大雲寺の歴史は読み応えがあります。また、「源氏物語」の内容と当時の歴史事項の関連についても少し述べられていて、興味深かったです。こうした地理的・歴史的背景がわかると、「源氏物語」を読むのがいっそう楽しくなりそうです。

 この他にも、興味深い論考が満載です。源氏物語千年紀に当たる今年に、この本を読むことができたことを嬉しく思いました。

 お値段はかなり高めですが、源氏物語や紫式部に興味がある方、平安時代の歴史が好きな方には自信を持ってお薦めしたい一冊です。

☆トップページに戻る