江戸糸あやつり人形

江戸時代から伝わる日本独自の糸あやつり人形。その魅力を広めるためブログを通して活動などを報告します。

浅草21世紀

2010-04-20 18:45:44 | 日記
日曜日で8日間続いた浅草21世紀が終わった。
ここでの皆勤は初めてで、これだけ長期に出演したのは修業時代以来であろうか。

寄席というところは勉強になるところだ。
もともと九代目結城孫三郎は写し絵師として寄席に立っただけでなく、落語家でも
あったと言うから、私がこうして寄席に立つのは本筋だと、密かに自負している。
舞台の上でいろんな芸人と切磋琢磨するから勉強になるというのはもちろんだが、
楽屋で聞く先輩たちの話が、実に芸の肥やしになるのだ。
芸へのアドバイスから下ネタまでそれは多岐に渡っているから、尚のこと面白い。
笑いが絶えない楽屋はここだけとのこと。

幕開き開口一番で座長が挨拶に出るのを袖で見送ろうと待っていると、ひょいと
振り返って座長が自分の芸の話を一言二言話す。
突然なので「なんで私に」と面食らうのだが、これが美味しいのだ。
改めて座長の挨拶を聞く。
話の持って行き方、観客の掴み方、成る程と思う。
私は演劇畑で育っていてそもそも畑違いなので、色んなところに違いを感じている。
だからこそこういう場が大切なのだ。
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日本のもの

2010-04-16 22:24:31 | 日本の文化について
今日は舞台を下りたところで失礼し、浅草橋に向かう。
人形の材料を求めてよくこの辺りに来る。
今日は小道具に使う扇子。
以前求めたときには「10本単位で」と言われたのだが、
今日は「1本からで良いですよ」と言う。
なんともう4本しか残っていないという。
しかも以前と比べて質の落ちたもの。
扇子を作るところ自体減ってきている上、私が求めるような大きさのものは
手間に対して割が合わないそうで、もう作るところは無いそうだ。
話を聞いているうちに、ちょっと頭がくらくらしてきた。

この話を読んで、「もったいない、何とか伝統を後世に伝えて欲しい」と
思う人はいるかもしれない。
私もよく言われる。
でも需要が無ければ消えてしまうのだ。
「上質なもの、面白いものを作ればよい」
そういう声も聞こえる。
ところが日本の職人が育っていくには時間が掛る。
一つの作品を作り上げるには、手間が掛る。
どうしてもデフレの流れから離れたところにいる。

これで手に入らないものが3つに増えてしまった。
自分で作れるものは自分で作ることも考えなければならなくなってしまった。
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CMがうるさい

2010-04-14 20:51:19 | 日記
テレビの話しではない。
地下鉄の話。
丸の内線では、駅構内で四六時中CMが流れている。
ホームで待っていると目の前にスクリーンがあって、動画CMが流されている。
閉口するのは頭上から降りかかるCMのその音だ。
うるさい。
以前はもうちょっと小さめで、なんとなく聞こえるかなという感じだったのが
今は圧迫感を感じるぐらい大きいのだ。
東京に住んでいると、起きてから寝るまでずっとコマーシャルに囲まれている
ような気がする。
見たくないのに見せられるつらさ。
地下鉄を待っているときは、逃げられないのだ
私は今度の日曜日が終わると解放されるが、毎日付き合わされる人は耐えられるの
だろうか。
オーバーかもしれないが、人間破壊につながらないことを祈るのみである。
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桜異変

2010-04-10 23:54:36 | 日記
どうした事だろう、今年の桜は。
7日から4日間九州は大分から宮崎を往復していたのだが、
山桜もソメイヨシノもしっかりと咲いていた。
桜吹雪を期待していたのだが、強風が吹き荒れた7日も全くなく、
散り際の桜といわれているのに、一斉に散ることなく葉が茂り始めている。

東京を去るとき今年の東京の桜は見納めと思っていたのに、
まだ見事に咲き誇っている。
全国的にこんな感じなのだろうか。
人間は欲望の塊である。
今は桜吹雪が見たいと思っている。
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戦中の糸あやつり人形

2010-04-06 00:46:50 | 日記
何かの参考にと送られてきた本、
「糸あやつり人形  作り方とやり方」
大政翼賛会宣伝部編 とある。
表紙を開けると
「この本を、お読みになったら隣組や、お友達に回覧してください。これからは雑誌でも、
本でも、一冊を十人も百人もの人で読めるように、お互いに工夫してゆきましょう.」
昭和18年に書かれた本だ。(かなは現代の使いに直している)
そして次のページの書かれてある「はしがき」には
「大東亜戦争が私たち全ての力を結び集めた国家総力戦である事は今更いうまでもない。
ここでは、政治も経済も文化も、ありとあらゆる力が、勝つために動員される。その結果
これまで、すっかり軽んじられていたような文化財が、用い方によっては、私たちの生活
に案外大きな影響を及ぼす事ができることも少なくないのである。」
そして「すっかり軽んじられていたような文化財」として紙芝居、詩の朗読、人形劇が
挙げられ、「戦う力の一つとして」「私たちの生活の中にもっと広く浸みこんで行かな
ければならない。」と結んでいる。

それから糸あやつり人形の作り方が展開されて、最後に脚本の作り方が紹介されている。
「脚本作家はまず動機によって与えられた着想から主題を選ばなければならない。」
もっともな話だ。そして
「『屠れ米英我らの敵だ』という気持ちなり考えが着想であって」
「『勧め、一億火の玉だ』という主題が与えられる」
何故そうなるのか。
「時局の要請する国策なり国民士気の昂揚に役立ち、雄渾にして高雅なる皇道精神に立脚
したものであることが望ましい」

精神性の荒廃というか、さもしい限りだ。
戦争を二度としてはいけない、加担してもいけない、
この本を読んで、改めて強く思った。
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