マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『41人の嵐』(著:桂木優)を読む

2015年10月17日 | 読書

 東京新聞社発行の本に『山小屋の主人を訪ねて』(著:高桑信一)という作品がある。著者高桑が北は知床半島「木下小屋」から南は九重連山の麓にある「法華院温泉山荘」まで、27の小屋を訪ね、小屋に暮らす主人の話を聞き、山々を旅した記録集である。
 その27の山小屋の一つに、南アルプス両俣小屋が登場している。
 「北岳の懐深く、野呂川がゆるやかに高度を上げ、やがて左右に分流する水辺のかたわらにたたずむ山小屋、それが両俣小屋である」と紹介されている。
 「多くの登山者が訪れる北岳の山塊にいだかれているとはいえ、両俣小屋は不遇ともいえる場所に位置している。北岳と仙丈岳に向かう、どちらのメインルートからも外れているからである」ともある。私は何度か北沢峠にテントを張り両俣小屋の存在は知っていたが宿泊したことはなかった。
 大学のワンダーフォゲル部などがより困難なルートを経て北岳に至ろうとする際のキャンプ地として、両俣小屋付近にテントを張ることも多いのであった。(写真:両俣小屋)

 北岳の登山基地である広河原ロッジに勤めていた星美知子が、派遣の小屋番として両俣小屋に入った二年目の夏に事は起こった。
 1982(昭和57)年8月1日。台風10号は各地に多大な被害をもたらした。取分け南アルプス上空に居直った台風は山脈一帯に豪雨をもたらし、例えば広河原は800ミリの降雨により雨量計の針は飛んだそうな。南アルプスはがけ崩れ・倒木が相次ぎ、林道はずたずたに分断されるなど、甚大な被害を受けた。両俣小屋もその例にもれなかった。豪雨は土石流となり両俣小屋を襲ったのである。
 『41人の嵐』は2日に、両俣小屋やその付近のテント場にいた、小屋番を含め41名の、必死の脱出物語である。
 8月1日から本格的に降り出した雨は一向に止まず、小屋やキャンプ場にも濁流が流れてきた。不安に感じた小屋番星はキャンプを張っていた大学などのワンゲルに小屋への避難を呼びかけると、三重短大ワンゲル・愛知学院大ワンゲル、新潟大ワンゲル、社会人パーティーが小屋に逃げ込んできた。しかし数時間後小屋そのものが濁流に飲まれそうな状況に陥り、星は皆をたたき起こし雨のなかを脱出する。裏山へ逃れ寒さと飢えに苦しみながらの一夜を明かし小屋に戻ってくると奇跡的にも小屋は無事であった。皆で喜び合い、その時初めて自己紹介を兼ねたミーティングも行われた。(写真:小屋付近のキャンプ場)

 しかし、去ったと思われた台風は2日の夜も猛威を振るい、小屋の1階は水に埋まり2階さえ危うくなったとき、女小屋番の星は北沢峠までの大脱出を決意する。25名の全員を率い、3000メートル級の仙塩尾根を越える壮絶な脱出を試みたのであった。普通なら2日は掛かる距離をずぶ濡れになりながらの、飢えと寒さに震えながらの逃避行。10代の女性も多々いた。前夜脱出の16名を含めキャンプ地にいた全員が無事北沢峠長衛小屋へと辿り着けたのであった。
 はらはらどきどきしながらこの物語を読んだ。国会図書館内にいたが、珍しく周りが全く気にならない状態での一気読み。
 著者は桂木優。実はこれは星美知子のペンネームであった。実際の当事者が綴った山岳物語なのだ。自慢話は全くない。小屋番として猛省点が多々述べられている。しかし小屋番として2年目、若き彼女の働きは、助けられたワンダラーに大きく感謝され、世間からも注目を浴びたのであった。『山小屋の・・・』で高桑は「ひとりの犠牲者を出すこともなく事態は収束した。勇気と統率力を兼ね備えた、星美知子というリーダーの成し遂げた快挙だった」と絶賛している。

 大災害の翌年から星は名実ともに小屋の管理人となり32年、現在に至っている。酒とタバコが大好きで、豪放磊落と噂の仙女を訪ねてみたいと思う。


          (両俣小屋周辺地図)


国立国会図書館へ

2015年10月16日 | 読書

 読みたいが簡単には手に入らない本『41人の嵐』などが国会図書館の蔵書にあることが分かり、10月のある日「国立国会図書館」に出掛けて行った。行く前にインターネットで調べると、以前のシステムとは異なり、新しい登録が必須でその為には身分証明書が必要なことを知り、運転免許証を持参した。
 千石から三田線で内幸町に至り、そこからは「新橋駅前⇔小滝橋車庫前」間の都バスに乗車し3つ目の国会議事堂前で下車。徒歩4分という便利さ。7月~9月にかけて何度かこのバスを利用して行った国会。全く異なる目的での都バス利用で、その日は国会周辺は静かだった。
 国会図書館へは10数年振りの事だろうか。この間に新館が造られていて、未登録者はそこでの「登録利用者カード」作成が必要だった。この図書館は開館が9時30分。9時40分という比較的早い時間帯であったからか、待ち時間5分程度でカードが作成された。退館した14時頃には100人くらいの登録待ちであったから、早いに越したことは無いを実感する。

 この図書館ではこのカードが万能の力を発揮する。逆に言えばこれが無いと入館も出来ない。このカードは入退館時にも、館内に置かれたパソコンでの資料検索にも、申し込みをした資料の受取り・返却にも、資料の到着を確かめる為にも必要であった。
 入館以前にしたことは、タブレットパソコンなどを入れたショルダーバック等をロッカーに仕舞うこと。バックの持ち込みは不可で、更には一定の大きさ以上の袋も不可で、私がタブレットを入れておく袋は不可だった。結局、図書館から渡された透明のビニール袋に退館までご厄介になった。
 パソコンで資料を検索し『41人の嵐』と『最後の30秒』を予約した。文京区立図書館などと違うのは、その日20分ほどの待ち時間で本が借りられたこと。本を受け取り、パソコンが置かれていない閲覧室を選んで本を読み出すと同時に、タブレットを起動させ、本の、重要で大事な記述をワードで書き移し始めた。ここで私はとんでもないことをしそうになった。『41人の嵐』の冒頭の写真。これは良いとスマホを取り出して撮影しようとした瞬間、係りの人が飛んできて「館内は撮影は禁止です」と。平謝りに謝った。
 昼の時間帯に6階にある食堂に行った。メニュー内容やお味は、やや安いだけが取り柄といったところ。
 ここの貸出システムは掴めたので、近辺の図書館では借りられない図書がある場合は躊躇しないでこちらへ行こうと思った。

 『41人の嵐』(著:桂木優)は1982年8月に襲来した台風10号の豪雨により、孤立した南アルプス「両俣小屋」からの41人の脱出行を描いたドキュメンタリー。その日は借りてざっと眺めただけで読めなかった『最後の30秒』(著:山名正夫)は1972年に起きた羽田沖全日空墜落事故についてのドキュメンタリー。『41人の嵐』は次回ブログで。

今日の一葉(フイリヤブラン:9月24富士前公園で撮影)


元担任からの電話

2015年10月14日 | 

 9月下旬のある夜、高校時代の担任だった安永和光先生から突然の電話が掛かってきて吃驚すると同時に恐縮してしまった。
 私が電話に出るや否や先生は「都高退教ニュースに載っている“辺野古・高江連帯ツアーに参加して”を書いたのは貴方ですか。同姓同名かも知れないとも思ってね」と切り出された。私「はい、私です。先生は都高退教ニュースを読まれているのですか」と返答と同時に逆にお聞きしてしまった。
 思えば元担任も都立高校の退職者。「都高退教」の会員で、しかも私達の大先輩でいらっしゃった。私は1958(昭和33)年4月~1962(昭和37)年3月までが都立小山台高校定時制に在籍。その3年生~4年生の担任が“やっさん”こと安永先生だった。私と同じ巳年で一回り上。担任と同時に兄貴のような存在だった。

 掛けて頂いた電話で色々とお話した。先生は教育大学体育学部卒で、入都から退職までの30数年間を都立小山台高校定時制勤務のみという、現在ではあり得ない、羨ましいような勤務を過ごされた。定年退職後は嘱託などは経験されないで、いきなり松陰大学へ。主として色々な運動部の設立に携わったとのこと。先生は確かラガーマン。ラグビー部の設立にも関わったのですかとお聞きすると、それは否定され、陸上部などの監督で、陸上部はまだ箱根駅伝出場はないが、学連選抜の選手は2人育てたとのこと。
 26年前に行われた定年退職を祝う会には参加させて頂いたが、それ以来お会いすることは無く、年賀状だけのお付き合いになっていた。私は今年で74歳になった。担任だった先生が86歳で今もって元気に活躍されていらっしゃるという幸せ。その時の電話で、これはお訪ねをし、もっとお話を聞くよい機会かも知れないと密かに思ったが、その第一歩はまだ踏み出していない。

 最近のニュースから。
 10月5日(月)山梨大学卒の大村智教授、ノベール医学生理学賞受賞。氏は昭和33年~38年まで都立墨田工業高校定時制の教師。私の定時制生徒時代とほぼ一致する。
 10月6日(火)埼玉大学理学部卒で現東京大学宇宙線研究所長梶田隆章氏、ノーベル物理学賞受賞。私も同じ大学の理学部の前進の文理学部理学科卒。
 
という訳で今年のノーベル賞は殊更身近なものに感じられた。
 10月13日(火)沖縄県知事「辺野古の埋め立て承認を取り消し」

 
 


生涯スポーツとしてのボウリング

2015年10月12日 | スポーツ

 手元にファイルングされた230枚あまりの「ボウリングスコアカード」がある。その最初の一枚の日付を見ると、2011年10月31日とある。今から4年前に、久しぶりにボウリングを始めた日だ。場所は「東京ドームボウリングセンター」。同行者は富士前福寿会の小林さんと熊坂さん。

 久しぶりにボウリングを始めたのには訳があった。文京区では65歳以上になると、一定の手続きを経て、とある団体の「生涯スポーツファンクラブ」会員となることが出来る。申請をして1年間ほど待たされたが、晴れて会員となることが出来た。数々の特権があり、その中の一つに「毎日、ボウリング1ゲーム無料」があった。夢の様な話で、熊坂さんからその話を聞いたとき「まさか」と思った。実際どうか確かめに行くとまさしく無料だった。という訳で3人で出かける事になっていったのだ。それがボウリングにのめり込む第一歩とは知る由もなかったが・・・。(写真:東京ドームボウリング場)

 1ゲーム無料というのが味噌である。時間をかけて赴いて、1ゲームで終れる訳がない。
 ここのボウリング場には、“とくとくパック”というシステムがあって「シニア2ゲーム」700円(現在は800円)だった。勿論靴代もコミで。1ゲーム無料+シニア2ゲームの合計3ゲームを楽しむのが私達3人の毎週のイベントになっていった。

 最初のスコアを見ると、99点。少しずつ点数は増加していったが、他の二人の伸びに比較して私の伸びは遅々としていて、満足のいく点は得られなかった。そこでマイボールを購入したり、ボウリング教本などを熟読したが、一向に点数は増加しなかった。ボウリングを止めたくなった時期もあった。そんな時に考えたのは基礎から習うのがベストではということ。毎週火曜日午後に行われるボウリング教室に通い出した。生徒の投球ホームを眺めて先生がアドバイスをする教授スタイル。
 その教室に通い始め、マイシューズを購入し、ボウルの穴の位置が先生製作のマイボールを購入し、ドームボウリングの会員になった頃から徐々にスコアは上がり始めた。スコアのアベレージは2011年121、2012年122、2013年120、2014年119、今年が138。2014年後半からは著しい上昇に転じている。苦節は3年もあったのだ。6月4日には1ゲーム自己ベスト213点を記録、この9月24日には3ゲームで524点が出た!。直近2回は3ゲーム500点台が続いている。

 ボウリングは高齢者に適していると思う。過度ではない適度な運動で、お安く楽しめる。
  私自身の問題でいうと、自宅から至近距離にボウリング場があり、個人で点数を競い合える点が面白い(良いスコアーが出ている場合はだが・・・)
 要するに気楽に楽しめるスポーツということである。
 現在は火曜日がボウリング教室(1500円)。木曜日が例の3人でボウリング(800円)をスタートとしてゴールが一献の日。時として金曜日や土曜日の夜9時~10時15分の1レーン貸切ボウリング(1000円)を一人楽しむ。
 昔に比べればはるかにお安く、待ち時間皆無に近い会場でのボウリング。まだまだ楽しめそうだ。


別荘解体を日程に乗せる

2015年10月10日 | 信濃紀行

 10月4日(日)蓼科の山小屋に着いて階段を下り始め目を瞠った。屋根に木が倒れ掛かっていたのだ。数日前の強風の結果と思われる。しかし、よく見ると枝が屋根に当たり、枝が木を支える格好で木全体は辛うじて倒木を免れていたが・・・。

 愕然としながらも、妻と私はこの建物そのものと周りの樹木の関係が限界に近いことを悟った。管理センターからは水回りの関係等々で危ない部分があり修繕を勧められてもいた。窓外を見ると樹々の揺れが激しい日もあった。ここの権利再契約まであと8年間はあり、売却を模索した時期もあったが反応は殆どなし。耐震化構造でもない建物をこの様な状況で売りに出すこともままならないと思った。修繕は無しに済ませたくもあり、解体を決意した瞬間でもあった。
 翌5日(月)東急不動産の販売所を訪ね、解体工事の見積もりを依頼した。来年8月までにそれなりのものは持ち帰るなり、お裾分けして、9月からの解体。費用はざっと見積もって150万円~200万円。私達がまだ元気なうちにケリを付けて起きたかった。今になって気が付くのだが”往きはよいよい帰りは怖い”の心境。



 この山荘を購入して丁度20年になる。購買当初ここで新年を迎えたこともあった。夏休みの多くを過ごした年もあった。自宅をリフォームする間の1ヵ月近くここを仮住まいとしたこともあった。勤務に疲れた日々の週末をここで過ごしリフレッシュして帰京したこともあった。
 色々な方に泊まって頂いた思い出も多い。夜、宿泊して頂いた方の名前を書き上げたら60名近くになった。バーベキュー・ゴルフ・スキー・登山・松茸パーティー・ミニクラス会・渓流釣り・温泉・ドライブ・ブルーベリー狩・高遠への花見・諏訪湖の花火鑑賞・御柱見物等々、数え出したら切りがない。

 アルバムや本関係は別にして、多くのものは解体時に一括処分して貰う予定だ。