マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

野火止用水行を再開(その1)

2023年05月08日 | 江戸の川・東京の川

 前回、野火止用水沿いを歩いたのは昨年の5月7日で、ほぼ1年前のことになる。妻の体調が徐々に悪くなり、彼女を一人置いての外出が不安になって来ていた。更には一緒に通院することも増え、川沿い歩きどころでは無くなっていった。
 その後、妻の急死という思いもかけない事態に遭遇し、茫然自失の日々を過ごしてきたが、多くの方の助けを頂いて、心理的にも少しは落ち着いた日々が訪れ、ブログも再開出来た。介護の必要が無くなり、旅にも行ける状態なのだが、まだ、一人旅には何故か不安を感じている。川歩きには何度もご同行をお願いして来た菅原さんに今回もお声を掛けた。86歳になられた石川さんは体力に自信が持てないとのことで、今後の参加は断念されていたので、二人旅となった。
 4月27日(木)は西武新宿線「久米川駅」に9時半に集合し、東村山市・久米川から新座市にある平林寺まで約12km(歩数22000歩)の距離を歩いてきた。(写真:中橋の下を流れる清流)



 新座市にある「史跡公園」までは、野火止用水に沿うように東北東方向に「水道道路」が延びている。用水沿いの道と水道道路を交互に進んだ。時に開渠あり、時に暗渠ありだった。用水の水勢は上流ほどではないが澄んだ流れだ。多分不要になった用水路は一時は邪魔者扱されたのではなかろうか。貴重な武蔵野の自然を惜しむ住民の熱意に行政が動かされ、この歴史的遺産を後世に残そうと、昭和59(1984)年8月“清流の復活”がなされ、通水が復活した。(写真:新座市史跡公園にある碑)
 新座市に至るまで用水は東村山市・東久留米市・清瀬市などを流れるが、新座市に至るまでに分水は行われていない。それでも見るべきこのは幾つかあった。

①恩多野火止用水水車苑
 新青梅街道を越えて暫く行くと水車が目に飛び込んできた。立派な水車小屋と水車だが、水の供給は用水からではないらしい。
 帰宅後ネットで調べると
 「恩多野火止水車苑の水車は、天明2年(1782)に旧大岱(おんた)村(現・東村山市恩多町に含まれる)の當麻(とうま)本家の酒造米の精米を目的に川越藩の許可を得て設置したといわれます。水車は直径7.5 メートルにも及ぶ大きなもので、酒造業廃業後は脱穀などに利用し、水車業を営んだとされます。水車苑は、天明2年(1782)頃から戦後まで使われていた場所に水車を復元し整備したもので、東京都内では数少ない野火止用水の憩いの地となっています」とあった。(写真:恩多野火止水車苑)

②万年橋のケヤキ
 更に500mほど進むと万年橋のケヤキの巨木があった。根が用水を橋のように跨ぐので万年橋のケヤキと呼ばれているとか。掲示板には次のように書かれていた。
 「用水を掘る時、このケヤキが大木であったため、その根の下を掘り進んだ話や用水が出来た時ケヤキが植えられ、土橋ぞいに根が延びた話などいろいろありますが、根が向こう岸に達し、あたかも橋のようだったことから、万年橋のケヤキの名で地元に親しまれています 東村山市教育委員会」とあった。(写真:万年橋のケヤキ)
 


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