マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『不死身の特攻兵』を読む(その2)

2018年02月22日 | 読書

 著者は、特攻隊として、都合9回出撃し9回生還して来た、万朶隊々員であった佐々木友次伍長へのインタビュー結果を記す以前に『陸軍特別攻撃隊』から「戦争のリアル」について書き始めた。
 1944年10月26日、フィリピンに到着した万朶隊は毎日激しい訓練を続けた。この頃岩本隊長の苦悩は深かった。自分が反対した“体当たり攻撃”に隊員たちを出撃させねばならないという奥悩。しかし、隊長は隊員を前にして「・・・体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで、撃沈できる公算は少ないのだ。こんな飛行機や戦術を考えたやつは、航空本部か参謀本部か知らんが、航空の実際を知らない、よくよく思慮の足らないやつだ」と言い切った。そして最後に「出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」とまで語ったのだ。それが可能なように飛行機を改装してもいた。
 これは軍隊では死刑に相当する発言・行為だった。この発言が佐々木伍長の胸に深く刻まれた。
(私は、出撃し毎回生還した佐々木伍長の行動を解く主な鍵は上記の部分にあったと思う)

 11月4日、岩本隊長以下5名の将校は、マニラへ来るよう命令を受けた。儀式好きの、フィリピン第四航空軍司令官冨永恭次は、陸軍最初の特攻隊員と宴会をしようと決めたのだ。マニラへ行く途中岩本隊長の乗った九九双軽は米国のグラマン機に襲われ墜落。岩本隊長以下4名の将校全員が戦死。
(単に宴会好きな司令官の個人的趣味の為に呼ばれ、危険な空域を飛行しての“無念死”。他にも登場して来るが、無能な上に無慈悲な命令を出す側により、命令を受ける側の無駄な死が綴れている)(上の写真は、鴻上さんが本書を著す動機となった『特攻隊振武寮』)



 11月12日、佐々木を含み万朶隊5人は出撃していった。以下9回の出撃の様子が、主として佐々木の視点で描かれている。佐々木は「岩本隊長のために、絶対に成功させなければならない。爆弾を敵艦隊に当てて、生きて帰ってくるんだ」の決意のもと、突撃機に乗り込み、敵機を襲撃・突入する。その様子が実にリアルに描かれている。(写真:出陣前の乾杯をする万朶隊。左端が佐々木)
 ・・・
 1945年6月、大本営は沖縄の組織的戦闘の終了を発表。日本軍は負けた。佐々木はフィリピンに取り残され山中で生きていた。
1946年1月15日、佐々木は捕虜終了所などを経て、浦賀の土を踏んだ。日本を離れて約15ヶ月ぶりだった。   
 北海道に帰った後、妻と実家の農業を続け、4人の子供を育てあげ、北海道の大地で生活を続け、2016年2月9日、92歳で亡くなった。


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