マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『天草島原一揆後を治めた代官鈴木重成』(著:田口孝雄)

2019年08月25日 | 読書

 妻は最近読んだ『天草島原一揆後を治めた代官鈴木重成』にいたく感心し、その読後感をブログに書いていた。私はそのブログを読んで、その著作ともどもそのブログを紹介したいと思った。私はブログを始めて10年になり、訪問者が時として500人を超える時がある。2年ほど前にブログ開設した妻のブログへの訪問者より圧倒的に多い。この本を多くの人に知って貰いたいとの妻側の思惑もあって、今日は(も?)妻文からの拝借である。



 
『驚いた。こんな人がいたなんて。「知らないことが多すぎる」わけだが、この人については知らない人が圧倒的だろう。

 「島原の乱」後、キリシタン弾圧強化、長い鎖国、「それでも隠れキリシタンとして信仰が残った」ぐらいの認識だった。処罰された領主達に代わった新領主達の領地経営だったのだろうが、残った領民達は苦難を強いられた、と多くが思ってしまう。ところが、そうではなかった、というのが本書である。
 読み捨ててしまうのが惜しい、真面目なまじめな本である。著者は、天草市鈴木神社の宮司さん。長く高校の先生をなさっていた方で、このお作は、とにかく読みやすい。屈指の名著ではなかろうか。

 重成は、三河武士である。家康に仕えた旗本であり、27歳の時には大阪冬の陣、夏の陣にも出陣し、家康死後も代々の将軍に仕え、島原一揆(と本書にある)時には、「五畿内の代官」衆の1人として大坂にいた。島原一揆の事後処理が当初の目的だった松平信綱に請われて、同行することになった。これが、「鈴木重成が歴史の表舞台に躍り出た一瞬」と、田口さんは書かれる。

  一揆後、信綱に命じられて、重成は天草代官(後島原代官も兼務)となり、天草の半分・島原の南部の荒廃地を、藩を越えて特命・特区のように、”国の仕事”として、復興の仕事を担った。天草で、人口25,000人→17,600人、田畑の1/4(8,732石)が亡所。島原はデータが無いがその比ではなく、7ヶ村は全滅、半数以上もいくつか、とか。重成→幕閣 の命で行われたのが、①天領・西国諸藩からの移民(以後50年も) 3年間年貢免除。
 ②年貢率 寛永20年~16年間 田23% 畑18%。一揆の真の原因が元領主の苛斂誅求にあったとする認識からで、当時の年貢は40~60%だから、凄い数字。これを実現するために自刃した、ということも伝わるが、病死説もあり不明。

 ③一揆終結1年後の原城戦死者の亡魂供養。蜂起10年後、碑を建てて鎮魂の法要。終結10年後の亡魂供養。
 これは、仏教的な「怨親平等」観に依るもので、敵味方の死者の霊を供養し平等に極楽往生させることを意味し、遊行寺には関東管領と鎌倉公方の合戦の「敵御方供養塔」が現存しているそうだ。蒙古襲来の後も双方の霊を弔ったとあるが、このキリシタン供養を、宗教の相違をも超えたことだったと、既に、『岩波仏教辞典』は、評価している。重成は、天草赴任以前、大坂で豊臣家臣の追善供養を行っているが、これは、恩義ある主君家康の豊臣滅亡後の豊国社迫害に対する意志表示ではなかろうか、と田口さん。体制派であろうと、忖度者ばかりではなかろう、封建時代だってサ。』


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