玉川上水に関して、前回同様「基礎講座」のまとめを綴ることにする。(写真:水道歴史館のパンフレットより)
〇玉川上水の水路
玉川上水は多摩川を水源とし、羽村堰から取水される。羽村堰は多摩川の屈曲する地を選び、投渡堰と呼ばれる破壊堰(丸太や木の枝、砂利などで造られ、洪水時には堰を取り払うことが出来る)で水をせき止めて、左岸から上水堀に引き込んでいた。(写真右:現代の投渡堰。土木学会選奨土木遺産に認定されている)
上水堀部分は、大木戸門に達するまでに33ヵ所に「分水」(用水)が設けられ、飲み水とともに灌漑用水として周辺の村々に配られた。有名な、青山・三田・千川は一時期「上水」として江戸市中に導かれたが、享保7年(1722)に廃止となった。灌漑用水が供給されたことにより、多摩地区での農業は飛躍的に発展した。(下の写真は『上水記』より。)
四谷大木戸門から地下に潜り、四谷見付門の手前で江戸城方向へ外堀を越えるものと南下し虎ノ門に向かうものに分かれた。江戸城内には半蔵門から入った。
〇玉川上水の構造
羽村堰→四谷大木戸門は開渠。暗渠部分は四谷大木戸門→四谷見付→虎ノ門付近のみ石樋で、市中の大部分は木樋や竹樋。市中では水圧がないため、水の利用は上水井戸から釣瓶で汲み上げられた。
羽村堰→四谷大木戸間は距離43Kmで、この間の標高差は92m。10m進むのに2.14cmという僅かな傾斜で造られている。(上の写真は享保5年頃の江戸時代の水道。地図は東西が逆になっている)
〇玉川上水の終焉
明治維新後も近代水道が完成するまでの長期間、上水としてに役割を果たした。明治31年(1898)、淀橋浄水場から神田・日本橋方面への通水開始によって、東京の近代水道の歴史が始まり、その3年後の明治34(1901)、神田上水とともに玉川上水は使用が停止された。ただし、淀橋浄水場の水は玉川上水から引かれ、玉川上水には引きつづき滔々と水が流れていた。
羽村堰をまだ見ていない。一部であれ、まだ現役として残る玉川上水路も含めて訪れたい。