マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

千川上水を歩く(その1)

2017年06月01日 | 江戸の川・東京の川

 海老床地図についてはまだまだ綴りたいことがあるが、暫くは地図から離れることにし、今後、折に触れて戻ってきたい。
 咳が遠のいた528日(日)、全面暗渠化された千川上水を歩いてきた。実は521日(日)に、大泉高校定時制卒業生の同期会が中村橋で開催され、確かその近辺を千川通りが通っていたはずなので、千川上水を歩きつつ「味三昧」に出席しようと考えていたのだ。しかし、咳は初期ながら苦しく散策は止めていた。1週間後の28日は本来ならば中山道を歩いていた日、体調は戻っていたので、歩く目的地を千川に変えての遠出をした。
 
千川上水を意識的に歩いたことはなかった。六義園は千川上水から引水していたことは知ってはいたが、例えば掘割から六義園までどこを通ってどのように引水されていたかは知らなかった。てな訳けで、無性にこの千川暗渠を歩きたかった。
 この日、西巣鴨・掘割にある千川上水公園をスタートし、大山⇒板橋高校前⇒江古田駅⇒練馬駅⇒中村橋⇒富士見台駅と回り、歩数約26000歩で、時間にして約4時間。その経路を辿る前に、千川上水の概略を。
 かつての「千川上水調節池」が現在は千川上水公園となっている。
 1689年に江戸市民の飲料水を確保するために玉川上水から引水して作られた千川上水は、ここまで流れ来て、沈殿池で砂やごみを沈殿した後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中へと給水された。(写真:豊島区で最初に出来た千川上水公園)




 
その後、1865年に王子方面への分水(王子分水)が始まった。この近辺を掘割と呼ぶ謂れでもある。今までの給水と王子分水との分水堰も作られ、水利関係を刻んだ「千川上水分配堰」の碑が、明治通りに面して残されている(右図参照。下は千川上水用のマンホールの蓋)。




 公園内には「六義園給水用千川上水沈殿池」の掲示が為され、ここから六義園を初めとして、小石川白山御殿・湯島聖堂・下谷・浅草方面への給水が行われたことが分かる。
 一番上に掲載した
『千川上水探訪マップ』にもその事が載っていて、中山道(今は地蔵通りと呼ばれている部分)を竹樋や木樋の暗渠となって流水されていたことが分かる。中山道のどこから六義園へと分水されたかの記録は見ていないので分からないが、現在の「福音館書店」の手前を直角に左折し、六義園正門と反対の位置から園内に水を引き入れたのだろうと、私は推理している。
(写真:下は給水バルブ。最下段に掘割から巣鴨までの中山道沿いの流路を水色で表示)

   

 

 


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