マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

豊国祭礼図(その1)

2017年11月23日 | 映画・美術・芝居・落語

 10月14日(土)、文京アカデミー主催の特別公開講座「古地図を読み、屏風絵を語る」に参加し、黒田さんの講演「舟木本洛中洛外図と豊国祭礼図の謎解き」を聴いた。その講演内容の「舟木本」については、既にブログに書いていた。実はその時の講演の後半部分は「豊国祭礼図」(徳川美術館本)についてだった。この話の途中に2冊の著書が紹介された、本の名は聞き取りづらかったので、講演終了後個人的に質問に行った。
 一冊は『洛中洛外図・舟木本を読む』でこれは図書館から借りてきて読んだ。もう一冊が『豊国祭礼図を読む』でこれは購買し読み終えた。講演内容は後回しにして、まずは『豊国祭礼図を読む』(角川選書)を綴る。(右写真)
 黒田さんはこの本で何度も「絵画史料論的に読み解くと」と書いている様に、歴史的事実と、表現された絵画を組み合わせて、厳密な論証を重ね、そこからその絵画の注文主・画家やその絵画が描かれた目的を明らかにしていく。大胆な仮説にたどり着くまでの過程は正に謎解きであり、ミステリー小説を読むような面白さがあった。
 この本で取り上げられた「豊国祭礼図」は3つあって、豊国神社本・妙法院模本・徳川美術館本の3つである。最後の徳川美術館本は講演で語られたので別の機会に譲るとして、今日は豊国神社本と妙法院模本について、黒田説をまとめてみる。
 「豊国神社本は、豊臣秀吉が死亡した6年後の慶長9年8月に秀吉七回忌の豊国大明神臨時祭礼を描いている。淀殿。秀頼が秀吉恩顧の画家狩野内膳に命じて作成させたもので、慶長10年に制作が開始され翌11年の8月13日に豊国神社に奉納された。奉納者は片桐且元。(写真:豊国神社本の左隻)

 この頃、淀殿・秀頼と家康・秀忠の間には鋭い政治的緊張が走っていた。秀頼を上洛させて、自分の威光を示そうとする家康への淀殿の怒りは、その使者となった高台院(大政所ねね)に対し更なる激しい怒りとなった。
 豊国本では高台院と思しき老尼が皺だらけの恐ろしい顔で表現されている。それは淀殿が狩野内膳に命じて、その様に描かせた。淀殿の高台院に対する怒りの表現で、それが「諸人」(=大衆)に公開され、一般大衆の目に晒された。淀殿は奉納者を片桐且元ということにして自身に向けられる非難の矛先をかわそうとした。」これが黒田さんの説である。(左隻第3扇。黒田氏は中央黒い衣を着た老尼を高台院と見立てている)

 
「妙法院模本の原本屏風は、慶長15年8月の秀吉13回忌に因んだ豊国大明神臨時祭礼後、その制作が企図された。恐らく高台院と神龍院梵舜が協力して新調したものであり、慶長16年から翌年にかけて制作され、慶長17年4月に豊国社の「下陣」に立てられた。
 豊国神社本で皺だらけの顔に描かれたことに憤慨した高台院は、秀吉の13回忌の機会を捉えて、慶長9年の豊国大明神臨時祭礼を描き直した屏風を新調することした。伝承によれば画家は狩野孝信を想定することが可能である。ここに描かれた図をみて、高台院はほっと胸をなでおろしたのではないか」との推理を書いている。  
 二つの「豊国祭礼図」から淀殿対高台院の対立感情をも読み解く過程が新鮮だった。


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