A Day in The Life

主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

今日はFallout3の日でした。

2024-06-30 23:04:39 | ゲームな話
 もう少しで終わりそうなので一気に終わらせようとずーっとFallout3やってましたがまだまだ終わりませんねこのゲーム。容量はたった8.66GBなのにどんだけボリュームがあるんだよ……。
 ちなみに現在のプレイ時間は174時間44分です。
 ようやくDLC「Mothership Zeta」をクリアしました。長かった……。
 はるけき宇宙から大量のアイテムとともにウェイストランドに帰ってきたのでまずはアイテム整理。落ちてるアイテムは全部拾わないと気がすまないのでダンジョン脱出時には毎回とんでもない量のアイテムを抱えています。
 残っていることはまだけっこうあるんですが、今日はボブルヘッド人形収集をコンプ。ラスト6個までは自力で見つけましたが残りは場所がわからなかったので攻略サイトを参考に収集。
 次は自作武器の設計図。意外と見落としてたのが店売りのもの。本作では時間帯によっては店の人がいなかったりそもそも武器防具はそこら辺で拾えるので中盤から後半は店を利用するメリットがなかったりで販売リストを全然見てなかったんですよね。
 そして設計図は大半を手に入れたんですが、盲点だったのがキャラバンで売っているもの。キャラバンはフィールド上でしか遭遇しないのでファストトラベルを使っていると会う機会があんまりないんですよね。売ってるものもそんなに良いものじゃないし。
 しかも一定のルートを移動しているので場所がわかりにくい。まあそういうランダム性もこのゲームの魅力なんですが。
 さしあたって設計図をコンプしたら最後のメインクエストとクリア後のDLCをクリアして終わりかな。カルマによるプレイスタイルの違いなんかもありますが、すでに続編のニューベガスと78も入手済みなのでそこまではやり込まないかな。
 それ以前にまだまだ未コンプ未クリアで放置してるゲームが山ほどあるのでそっちからやっていこうと思ってるんですがsteamサマーセールが始まってしまったので俺はもうダメです。
 
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塚口サンサン劇場「ボヘミアン・ラプソディ」応援上映行ってきました!

2024-06-29 23:47:44 | 映画感想
 7月8月は我々オタクにとってコミケ前の1年でもっとも余裕がない時期なんですが、塚口の上映スケジュールはなさけむよう。『夏コミ原稿を書く』『塚口に行く』「両方」やらなくっちゃあならないってのが「幹部」のつらいところだな。覚悟はいいか? オレはできてる。
 というわけで今日見てきたのはこの作品!
 
 
 何を隠そう、わたくし人形使いは今回が初ボヘミアン。
 もちろんクイーンやフレディ・マーキュリーのことは知っていますが、音楽というジャンル自体にそれほど造詣がないので見てなかったんですよね。
 しかし漏れ聞こえてくるこれまでの塚口ウェンブリーの感想、そしてなにより「まちの映画館」で取り上げられていた塚口ウェンブリーの様子を読み、これは行っておくべきだと心を決めて参加することに。
 ちなみにわたくしのクイーン及びフレディ・マーキュリーについての知識で最初に出てくるのは須藤真澄先生の「おさんぽ大王」における「フレディーッ フレディーッ エイズはもういいのーッ!?」だったりします。
 さて本作の感想なんですが、言うまでもなく書きたいことが多すぎて何から書いていいものやら。とりあえずいつも通り思いつくままに書いていきましょうかね。
 待合室の熱気はもう言うまでもないでしょう。インド映画のときとはまた違う客層が集まっていて、塚口には実にさまざまな人たちが集まってくるんだなあと改めて感じました。
 そしてお約束の上映前のスクリーンはこんな感じ。
 
 
 いつもの上映前画像に比べると簡素ですが、それがかえってこの後に巻き起こるであろう嵐を予感させます。というかもう嵐が巻き起こりつつある。空気感が完全に台風直撃の直前のそれ。塚口の応援上映やマサラ上映に参加された方にはわかるはずですこの空気。
 そして上映開始時間が迫りつつあるそのとき、スクリーンから響く「あの」リズム!
 客席の誰もが後ろを振り返る、その視線の先にいるのはもちろんあの男!
 フレディ・戸村・マーキュリーの登場だ!!
 革ジャンをまとってポーズをキメる戸村支配人が姿を表した途端そこは映画館ではなくライブ会場に! 今いるここはどこ? 魔界?
 もはや誰もが知る塚口サンサン劇場の名物となった戸村支配人の前説&マイクパフォーマンスですが、今回は特に気合が違います、というか降りてた。フレディが。
 今回は「塚口リアルタイムウェンブリー2024」。何がリアルタイムなのかと言うとタイミング。
 本作の……というかフレディとクイーンの最大最高の盛り上がりポイントである1985年7月13日にウェンブリー・スタジアムにて行われた史上最大のロックフェスと言われるイベント「ライブエイド」においてクイーンが登場した時刻である18時41分に実時間が合うように映画をスタートさせるという驚くべき試みなのです。
 「まちの映画館」の記述によれば、この時間から逆算すると映画をスタートさせるべき時刻は16時47分。当然、前説もそれに合わせて終えなくてはいけません。
 恒例の注意喚起と前説をしながらスタッフさんの合図をチェックする戸村支配人。いつも以上に注意が必要な中、絶対にやらなくてはいけない誰もが知るコール&レスポンス「エーーーーーーオ!」で場内は完全にウェンブリー・スタジアムに。
 そもそも映画、ひいてはイベント上映はいっときのあいだ現実を離れて非日常を楽しむものです。でも非日常にも限度ってものがあるだろ。あの瞬間、シアター4は映画館じゃないどころか日本でも2024年でもなかったぞ。
 そしてやはりというかなんというか時間が余って四苦八苦する戸村支配人に客席からは温かい拍手が向けられます。それも塚口。あれも塚口。みんな塚口。
 すでにクライマックスといった感じですがまだ映画始まってませんからねこれ。というわけでこれより映画本編スタート! The Show must go on!!
 
 
 前述の通りわたくし人形使いは本作は初見なので、映画自体の感想を交えながら今回の応援上映の感想を書いていきましょうかね。
 本作はフレディ・マーキュリー、出生名ファルーク・バルサラの生涯を再現した映画です。しかし本作はいわゆるライブ映像をまとめた映画ではなく、さりとて伝記映画というわけでもないしドキュメンタリーでもない。
 じゃあ本作はなに映画なの?問われれば、彼ら「クイーン」が世界を席巻したロックでもありオペラでもあり演劇的ですらある既存のジャンルに当てはまらない楽曲と同じように、既存のジャンルに当てはまらない「フレディ・マーキュリーの映画」としか言いようがないと感じました。wikiでは「伝記映画」と表記されてますが、本作はただ単に伝記映画というわけでもない気がする。
 わたくし人形使いは、前述の通りクイーンのディスコグラフィーやフレディの生涯について一般知識以上の情報は持ち合わせていませんでした。彼の本名が「ファルーク・バルサラ」ということも知らなかった。
 そんな状態で見た本作ですが、フレディの生涯とクイーンの成立について134分の上映時間内にわかりやすくまとめていて、改めてフレディ・マーキュリーという人物について知ることができたと思います。
 フレディに関しては、本作のタイトルにもなっている「ボヘミアン・ラプソディ」をはじめとする楽曲が世界的な人気となったことやゲイであったこと、そしてエイズが死因となって亡くなったことといった「点」の部分は知っていました。本作ではその点と点をつなぐ「線」の部分をよりはっきりと知ることができたと感じました。
 フレディ・マーキュリーくらいの有名人になると、その功績や作品の存在感が大きすぎて、その背後にあったエピソードが押しやられてしまうことがあるもの。しかし本作は、ドキュメンタリーではないということを考慮したうえでフレディ・マーキュリーというひとりの人間を知ることができたと思います。
 これだけの大成功を収めた有名人がしばしばそうであるように、彼も表面的なその栄光とは裏腹に常に孤独に苛まれていたと感じました。ペルシャ系移民という出自、セクシャリティ、メンバーとの対立……本作におけるフレディは、最後のイベントとなるライブエイドの時まで本当に満たされた瞬間ってなかったんじゃなかろうか。
 「ボヘミアン・ラプソディ」のブレイクによる大成功も、逆に彼を苦しめる結果となったようにすら思います。作中でスキャンダルを求める記者から心無い質問を次々と投げつけられるシーンの痛々しさよ。
 皆さん知っての通り、フレディはエイズによる肺炎で45歳という若さでこの世を去ります。調べてみたところ、フレディがエイズにいつ感染したかにはさまざまな意見があるらしく、「ライブエイドの2年後である1987年説」「1981年~1982年説」「1984年説」といった説がある様子。
 どれが真実なのかははっきりしませんが、本作ではフレディはライブ・エイド前にエイズ感染を知ったという展開になっています。もちろん当時はエイズに対する有効な治療法は確立されていません。自分の命が残り少ないことを悟ったフレディは、断絶していたブライアン・メイをはじめとするクイーンのメンバーにエイズ感染を告白し和解。もっとも有名な舞台となるライブエイドに臨みます。
 ここで、前回見た「サイラー・ナラシムハー・レッディ」の「生まれた意味を知るときは、死ぬ意味を悟るとき」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。
 確かに、45歳という若さでフレディほどの才能を持ったパフォーマーがこの世を去ったことは世界にとって非常に大きな損失だったでしょう。
 しかし、各自ソロ活動を始めてメンバー間の仲が険悪になっていたこのタイミングでフレディが己の命が長くないことを知ったことは天命であったと思うのです。己の命が長くないことを知ったからこそ、いわば「己の命」という絶対に覆せない締め切りを提示されたことで、彼は他のメンバーと和解することができたし、心理的な距離が空いていた家族とも愛を取り戻せたし、ライブエイドでの歴史に残るパフォーマンスを成し遂げられたのではないでしょうか。
 もっと言うなら、彼が45歳という若さでこの世を去ったのは、有名になったことでさまざまな苦しみを抱え込んだ彼を、(この言葉を使うのはいささか気が引けますが)神さまがこの世から救い上げてくれたのではないかと思わずにはいられないのです。何らかのジャンルや活動で成功するということは、必ずしも救済とはならない、という。
 そしてこれはwikiにあった記述なんですが「フレディの死が、クイーンの人気をさらに高めたともいわれている」というこの一文、やはりサイラーの「戦争は指導者の死で終わるが、この戦いは指導者の死によって始まる」という言葉を重ねずにはいられません。作中ではクイーンの楽曲の中でもっとも売れたとされている「ボヘミアン・ラプソディ」もあまりの斬新さと規格外さから最初から受け入れられていたわけではないんですよね。偉大な芸術家がしばしばそうであるように、フレディも死して後はじめて理解された……というか開放されたのかな、と感じました。
 これまたwiki情報ですが、フレディが生前最後に登場した映像作品は1991年5月に撮影された「輝ける日々」のミュージック・ビデオだそうですが、本作ではそこまで語られることはありませんでした。
 最高潮の盛り上がりを見せたライブエイドで物語は幕を閉じ、1991年の彼の死、エイズ患者支援基金「マーキュリー・フェニックス・トラスト」が設立されたことを告げるエンドロールが流れます。
 ライブエイドというフレディの最盛期で幕を閉じたこの物語には色々感じるところがありました。伝記映画であるにもかかわらず、彼の生涯を最初から最後まで描いているわけではないという点が、ことさらに彼の長いとは言えない人生のわずかな時間のあまりにも眩しい輝きを感じさせてくれたように思います。
 
 本作の感想を書くなら楽曲に関して言及しないわけにはいきません。作中では「We Will Rock You」をはじめとするクイーンの楽曲が用いられていますが、なにがすごいってどの曲もどこかで聞いたことがあるというのがすごい。
 前述の通りわたくし人形使いは音楽には疎く、クイーンやフレディの熱狂的なファンというわけでもありません。しかし、本作に登場するどの曲も、タイトルこそすぐに出てこなくても全部どこかで聞いたことがあるんですよね。これこそが「世界的に有名」「時代を超えて知られている」ということでしょう。「熱狂的なファンがいる」ではなく「特にファンでもない人でも知っている」という。
 特に「地獄へ道づれ」こと「Another One Bits The Dust」。曲自体ではなくあのリフが出た時点で体が勝手にリズムを刻んでいるという。文字通り体でクイーンというバンド、そしてフレディ・マーキュリーの人気というものを思い知らされました。
 改めてこうしてクイーンの歴史とともに楽曲を見ていくと、「斬新」とか「型破り」といった表現ではとても表しきれない楽曲とパフォーマンスだなあと思わされます。特に「ボヘミアン・ラプソディ」はさまざまな楽曲のエッセンスを取り混ぜた異様とも言える作品だと感じました。
 そしてこれに塚口の音響と「応援上映」というシチュエーションが加味されると、もはや「感じました」とか言ってる場合ではなくなるわけです。
 これまで塚口の応援上映やマサラ上映でたびたび書いていることですが大事なことなので何回でも書きます。塚口の応援上映やマサラ上映は唯一無二の「作品の一部になる」という体験ができます。これも「まちの映画館」で書かれていたことですが、体験を提供してくれるのが塚口の素晴らしくすごいところ。
 本来作品と客席はスクリーンという境界線で隔てられているものであり、普通ならこの境界線は決して超えられるものではありません。しかし何事にも例外はあるもの。
 その例外が発生するのが、前述のライブエイドでクイーンが登場する時刻である18時41分。今日この時劇場に集った誰もが、熱狂に身を任せながら頭のどこかでこの時が来るのを待ち構えていたことでしょう。
 そしてその時が来ます。ただし30秒遅れでしたがそこは芸のうちですよ。
 20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」が行われたのは1985年7月13日。場所は遠く離れたイギリス、ロンドン郊外ウェンブリー・スタジアム。今日は2024年6月29日。場所は日本、兵庫県尼崎市。
 ふたつの時代、ふたつの場所は大きく離れています。にも関わらず、いた。
 今日この日あの瞬間、我々は確かに1985年7月13日のウェンブリー・スタジアムにいた。
 スクリーンは境界線ではなく窓でした。この窓を通じて、2024年6月29日が1985年7月13日に、日本、兵庫県尼崎市がイギリス、ロンドン郊外ウェンブリー・スタジアムになってた。
 そこにいた。
 ライブエイドで拳を振り上げる無數の観客の中に、間違いなく自分がいた。生まれて間もなかったはずの自分があそこにいた。その頃はクイーンなんて知らないはずの自分が確かにそこにいた。
 そもそも映画というのはしばしば時間と空間を超えて作品を見る我々を宇宙の彼方や他の時代に連れて行ってくれるもの。その映画の魔力が塚口という場で増幅強化され、「あの時代のその時」に連れて行ってくれる。
 こんな体験ができる映画館が他にあるでしょうか。いやない。(反語)
 本作のクライマックスシーンであるライブエイドのあのシーン、スクリーンの向こうとこちら側がなんの隔たりもなくつながっていました。そしてみんなが一斉に歌う、歌う、歌う。
 しかしスクリーンの向こうとこちら側で決定的に異なる点がありました。それは、我々はこれから彼がたどる運命を知っていること。今この瞬間がどれほど華々しいものであっても、彼の命がこの後失われてしまうことを知っていること。
 だからこそ我々は声を限りに歌い、応援するのです。その声が1985年7月13日のあの日に届いていると信じて。
 
 初めての塚口ウェンブリー、完全に応援上映という枠組みを超えた体験でした。まさに塚口が理念とする「塚口でしかできない体験」でした。いやー素晴らしかった……。
 今回の応援上映で、塚口の空には大きな穴が空いたことでしょう。その穴から我々の声援が、天国のフレディに届いていることを願ってやみません。
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本棚の整理をしました。

2024-06-28 23:13:57 | 小説の書き方
 幸せの形は人それぞれ。
 わたくし人形使いが幸せを感じるのは、余裕のある本棚を見たときです。
 というわけで今日は本棚の整理をしてました。
 先日読まなくなった本を駿河屋に送ったので本棚に隙間ができたので、色々はみ出してた部分を整理。なお駿河屋に送るときに着払いで送るときにうっかり元払いで送ってしまうというお茶目をやらかしてしまいました。いくつになってもこんな調子です。よろしくお願いします。
 さておき、やはり本棚がスッキリすると気持ちもスッキリする気がします。特に梅雨時で鬱々した気分になりますが、そういう鬱々した気分を解消するのにおすすめなのが部屋の整理。いらないものを捨てたり、古くなってきたものを買い替えたりすると気分も変わってきます。
 さて本棚の整理についてなんですが、本を本棚に収めたときに上の方に空間ができますよね。本が溢れてくるとその空間にあふれた本を横置きにして置かざるを得なくなりますが、これをやるとなんか負けた気になります。非常に美しくない。また、違った判型の本をいっぺんに並べると段差ができてこれまた美しくない。
 なので今回は「同じサイズの本は同じ・近い場所に入れる」「出版社・レーベルごとにまとめる」「横置きにしない」の3点をなるべく守るようにして整理しました。
 まあ元の本の数が多いので「横置きにしない」は難しかったですが、残り2点はなんとかクリアできたと思います。特にサイズを揃えると段差がなくなるので非常に美しい。ここで曲者になるのがハヤカワSF文庫ですよ。新しいのと古いので微妙にサイズが違うんですよねハヤカワ。なんで急にサイズ変更したんだ……。
 ともあれこれで本棚に余裕ができたので満足。掃除や整理をした後はしばらくニヤつきながら眺めるのが趣味です。そして本棚に余裕ができるとこれでまた本を集められるぞとワクワクする。でも本棚の数がそもそも足りてないので、あと2つくらいは追加したいもの。大判サイズの図鑑や目録がまた厄介なんだよな……。
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塚口サンサン劇場「サイラー・ナラシムハー・レッディ」見てきました!

2024-06-27 23:40:19 | 映画感想
 サイ! サイラー!
 というわけで今日見てきたのは、日本での上映権がもうすぐ切れてしまうというニュースが飛び込んできたその翌日に上映決定してくれたこの作品!
 
 
 さすが塚口。我らが塚口。上映権が切れるという話が飛び込んできたときから信じてましたよわたくしは。絶対やってくれると思ってた。
 twitter(頑なにXとは呼ばない)では喚起に湧く領民たちで溢れかえっており、改めてこの作品がどれだけ愛されているかということがわかるというもの。というかアヴク・ラージュ愛されすぎ。
 もうすでに複数回見ている領民の声が燎原の火のごとく広がっているのを見ると、この作品の上映権取得を公約に掲げれば即座に政界進出できると思います。
 さて、このブログを読んでいる人はおおむね特定の映画を複数回見るのが呼吸をするかのごとく当たり前の事になってる人ばかりだと思いますが、ここで改めて「同じ映画を複数回見ること」の意義を考えてみましょう。
 わたくし人形使いが思うに、それは「前回とは違った状態と視点で同じ作品を見られること」だと思います。
 一度作品を最後まで見たからこそ、さまざまな情報が入った状態で同じ作品を見ることができる。誤解されがちなことですが、いわゆる「新鮮な驚き」というのは初回視聴時だけにしか発生しないものではありません。むしろ、2回3回見ることによって初めて見えてくることも多いのです。
 しかるに本作を複数回視聴するということはつまりみんな大好きアヴク・ラージュが最後まで裏切らない清く正しいツンデレだということを前提として本作を楽しめるわけですよ。
 初回では例の裏切り者あぶり出しパートのところで「これは本当に裏切る流れかそれとも……!?」と手に汗握ってたわけですが、今回は最初の牛追い祭りの段階で「こんなことやってるけどこれって要するに気になる子にちょっかい出してしまうアレだよなまったくウチの領主様はしょうがないなあ」と後方腕組み領民ヅラ(twitter由来のワード)で余裕で見てました。というか今回は全体的にアヴク・ラージュのツンデレ具合を粘着質な視線で見てました。
 というかアヴク、「火よりもお前が心配だ」とか「我が王は最後まで裏切っていない」と後半はもうまったく臆面なくデレを発揮してるので分類的にはツンデレではなくクーデレなのでは? 有識者の意見求む。
 いやー本作、好きなシーンは山ほどあるんですが、やはりあの裏切り者あぶり出しシーンがいちばん好き。というかこのシーンのアヴクとゆかいな仲間たちがいちばん好き。ナラシムハーと家族を暗殺するイメージを先に出しておいて、実はその刺客たちはアヴクらとその配下によって返り討ちにされていた!という見せ方が実にニクい。
 でも、その前のアヴクの「奴を王にするために参戦したのではない」という言葉もまるっきりデタラメというわけでもなさそうなんだよな。その言葉を口に出して裏切りに加担したように見せかけたと同時に、自分のそういう思いを裏切り者ごと始末したのかも。本作にはしばしば「自分がやったことの責任を取る」というシーンがありますが、これもアヴクなりの責任の取り方だったように思えます。
 本作をこうして見直して思うのは、ナラシムハー自身はもちろん強大な戦士なんですが、それ以上に彼は冒頭で導師に授かった教え「自分の怒りをみなの怒りにする」の通り、大勢の人々をインド開放に向けての自由闘争に駆り立てていくという「思想の伝播」という点で非常に強いということ。
 本作は歴史上初めてインド独立のためにイギリスと戦った人物であるナラシムハー・レッディの物語であると同時に、彼の思いを受け取って伝えていった人々の歴史でもあると感じました。
 サイラーと別れる際に「お前の踊りの才能は民のためのものだ」と諭されたラクシュミがその言葉通りに踊りで各地にサイラーの戦いを伝え、その踊りでテルグの民がナラシムハーの元に集うという流れはそれを端的に表しています。そしてラクシュミはナラシムハーの婚約者であるシッダンマと出会い心を通わせる。
 ほかにも本作に現れる全ての人物、つまり点はすべてナラシムハーという線によって繋がれていると感じます。そしてその線は作中にあるように大きな海のうねりとなってインド開放という勝利に向かって突き進む。
 ラストでサイラーは処刑されながらも「戦争は指導者の死で終わるが、この戦いは指導者の死によって始まる」と称えられたとおりに、敵の手にかかりながらも死によって英雄として完成し、そして冒頭のラクシュミー・バーイーの時代にまで語り継がれている。それだけではなく、エンドロールではインド開放のために戦ってきた偉人たちがスクリーンに映し出されることで、ナラシムハーの戦いやその思いが時代を超えてたくさんの人々に受け継がれてきたということを改めて感じさせられました。
 死を前にしながらなお勇壮、かつてラクシュミに語った通り「生まれた意味を知るときは、死ぬ意味を悟るとき」の言葉通り死を以て英雄と成ったナラシムハーの物語、まさに圧巻。
 今日は最終上映ということで平日ですがかなり人が入っており、上映終了後……というか、エンドロール後のインド国旗に対して拍手が起こってました。しかも長い。応援上映やマサラ上映でもないのにこれだけの拍手が巻き起こったのは初めての経験かも。
 そして人身事故で電車が遅れてえらく遠回りして帰宅後twitterを見てみるとみんなアヴク・ラージュ大好きで笑ってしまいました。そりゃあみんな大好きだよな。
 惜しまれつつも上映終了となってしましましたが、塚口のことなので上映権をしれっと買い取ってマサラ上映してくれるに決まってるので安心して座して待つのみよ。
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また自分の量が減りました。

2024-06-26 16:21:45 | それさえも平穏な日々
 というわけで先週に続いて今度は左の親知らずを抜いてきましたよ。
 また自分の量が減ってしまった。
 前回は麻酔も抜歯もさほど痛くなかったんですが、今回は歯の根が深かったようで抜歯はけっこう苦戦した感じです。いててて。
 ともあれ、これで問題のあった歯はひとまず処理できたのでめでたし。
 かみ合わせも良くなった気がしますし、奥歯の裏側のいちばん歯ブラシが届きにくいところに食べかすが詰まることもなくなるでしょう。
 そして今回は、抜いた歯を持ち帰ってきました。
 
 
 前回抜いた右の親知らずは虫歯で半分ほど欠けた状態でしたが、今回の左の奥歯も虫歯で欠けてました。そしてよく見てみるとエナメル質の奥が黒ずんでおり虫歯がかなり奥まで進行していたのが分かります。
 なんか少し欠けてるなとは思ってましたがここまで進行してたとは。虫歯怖い。直接見えない部分なので明確な痛みが出るまで異常に気付けないのが奥歯の面倒なところ。
 でもまあ、これでなんとかなったと思いたい。
 なんかこないだの足の小指の骨折から始まり体の色んなところにガタが来てる感じなので、健康には気を使って暮らしていきたいと思います。内臓方面も心配だ……。
 
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第21回博麗神社例大祭戦利品レビューその10

2024-06-25 21:49:11 | 同人誌感想
 夜行バス、ホテル、印刷所、入場チケットと順調に準備が進んでいる中、肝心の原稿だけがまったく進みません。助けて百太郎。
 
・Ugly Lovely 岡山県が来る!(ニセキノコモドキ)
 デフォルメの効いた絵柄でシリアスもギャグもこなせるサークルさん、今回は非常に両極端な作品のレビューとなりました。
 「Ugly Lovely」、正確には例大祭ではなく東方名華祭の新刊なんですがタイミング的にここで紹介。
 本作ではちょうどひとつ前の作品「ご高配痛み入ります」で少しだけ出てきた残無がメインキャラ。地獄の行政の腐敗を残無の過去を絡めて描く社会派作品。
 本サークルさんはこれまでにも社会派なシリアス作品を出してきましたが、獣王園で一気に地獄周りの設定が広がったのでサークルさん的にはネタが大量に溢れてウハウハなんじゃないでしょうか。
 さて感想なんですが、本作でもこれまでの作品と同じように地獄の社会や政治の裏側の謀略を描く手腕が遺憾なく発揮されています。特に映姫も絡めた権謀術数の数々はさすがと言ったところ。二次創作の楽しみのひとつに「原作キャラの魅力や設定を深堀りする」がありますが、本作では改めて残無の東方キャラの中でも異例と言える徹底して裏工作と駆け引きで戦うキャラクター、直接的な戦闘ではなく舞台を整えることで戦うキャラクターであることを感じさせられました。
 そしてラストでのお約束の宴会での酔っぱらいどもの大騒ぎときてからの、獣王園の靈夢のテーマ曲「世界は可愛くできている」での締めの流れが見事。
 でも結局日狭美さんのインパクトが全部持っていったんですけどね。今後の作品でもひたすらいらんことをしてほしい。
 「岡山県が来る!」、いったいどういうことなんだこのタイトルは、と思いながら読んでいきましたが間違いなく本サークルさんの作品の中で最高濃度のカオスでした。
 感想なんですがなんというか要するに「翔んで岡山」でした。
 いきなり岡山県に到着するレイマリ。明かされる夢オチ。全高800mの桃太郎像。バッファロー。牛。猿。
 完全に理解を拒む超展開に次ぐ超展開に読んでて脳がスポンジ状になっていくのを感じました。 
 そして現れる今回の異変の元凶、岡山理沙! 岡山理沙ってなんだよ……。
 そんな恐るべき異変を倒すための秘策が「例のアレ」だったわけですがそっち系のネタはやめろ! それはマジでやばい!
 いやー脊椎がへし折れるほど笑わせていただきました。
 
 今日はここまで。
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TOHOシネマズ梅田「ザ・ウォッチャーズ」見てきました!

2024-06-24 21:14:08 | 映画感想
 梅雨入りで雨ばっかりで気が滅入る時期が続いてますが、こういうときも映画ですよ。
 というわけで今日見てきたのはこれ!
 
 
 予告で見て気になってたので見てみることに。M・ナイト・シャマラン監督の娘であるイシャナ・ナイト・シャマラン監督作品ということでもちょっと興味を引かれました。
 主人公・ミナは母親と死別し双子の姉とも断絶状態。そんな中、ミナは鳥かごに入った鳥を指定場所に届ける最中で謎の森に迷い込んでしまいます。車とスマホが故障し外部との連絡が絶たれた状態で森を彷徨うミナは、壁の一面がガラスになった怪しげな家を発見。その家には老女マデリン、若い女性キアラ、青年ダニエルの3人が。
 その家では、日が落ちると謎の存在がガラス越しに彼女らを観察するという日々が繰り返されていました。g日が暮れてから森に入ると殺されてしまうために脱出不能となったミナたちは、どうにかして謎の存在の正体を暴こうとするのですが……。
 うーん全体的にはまとまってましたがストロングポイントがあんまりなかった感じでしょうか。
 冒頭でミナが持っている「鳥かごの中の鳥」にミナ自身がなってしまうとういう二重構造、異常な環境下で観察されることで露呈する隠された過去など、一つ一つのシーンはうまく機能しているもののすごく目を引く部分が足りませんでした。
 展開も終盤まであまり意外性やビジュアル的なインパクトのあるシーンがなく、突拍子のない超展開はない代わりにサプライズもないというやや退屈な展開だったなあ。森の中の閉塞感やガラス越し壁越しになにか得体のしれないものがいるという不安感は良かったんですが。なんかシャマラン監督作品の感想も全体的にこんな感じだった気がする……。
 またクリーチャーデザインも凡百。あとこういう「姿を見せないクリーチャー」ってみんな示し合わせたみたいにクリック音出すのなんで?
 なので本作、全体的に「起こるべきことは起こるけど起こりそうにないことは起こらない」という印象でした。ラストパートまでは。
 本作が本当にやりたかったこと、言いたかったことって、明らかに命からがら森から脱出した以降のパートだと思います。
 そう、あのままだとミナは無事帰ってきたものの再び何も変わらない日常に埋没してしまうんですよね。
 しかしミナは、謎の家の地下で見つけた研究施設内で、この森と謎の存在を研究していたひとりの教授の残したメッセージを発見します。そして彼女はそのメッセージに従い、教授が遺した研究資料をすべて破棄するために大学へ。
 そこで彼女は、謎の存在の正体が人間の姿に成り代わる「チェンジリング」という妖精だということを知るのです。こういう作品の場合、謎の存在が与えてくる恐怖が重要でありその存在の正体が明白になることがない場合も多いもの。しかし本作は謎の存在の正体をSF的なものではなくまさかのファンタジー方向に振ってきました。ここが本作の最大のサプライズポイントでしょう。
 思えば謎の存在は他の人間の声音を騙ったり人間的な容姿を持っていたりすることが示唆されてたのをここで思い出しました。そしてここでお約束の「怪物から逃げ切ったと思ってたら着いてきてた」ですよ。
 ここで面白いのが、このチェンジリングが対話不能な怪物で火力で撃退というお約束の展開ではなく、対話で解決したという点。
 チェンジリングはさまざまな姿に化けた後、最終的にミナと同じ姿になります。ここでミナは一方的に観察する/される状態から初めて文字通り自分と向き合うわけですよ。
 このミナとチェンジリングが向き合う構図は、そのままかつて人間と友好的な関係を築いていながら排斥された妖精としてのチェンジリングと人間の構図でもあります。さらに言うなら、間に何もない状態で直接向き合う構図なんですよね。
 映画のシーンというのはメタファーなわけですが、このシーンのメタファーとしての機能は非常によかった。ここでのチェンジリングが語る妖精の悲劇の歴史はそのままミナが抱えるトラウマのメタファー。
 このシーンでミナは、押し隠していた自分自身と向き合い、自分自身の心を外側から「観察」することで心の底に隠していた「自分のせいで交通事故が起こり母が死んだ」というトラウマと向き合い、そしてそのトラウマと「和解」する」という……。
 対話を終えたチェンジリングが、すでに失ったはずの翼をもう一度広げて「あなたを信じる」という一言を遺して飛び去っていく姿はまさにトラウマとの和解と言えます。
 そしてラスト、今まで音信不通だった双子の姉とその子どもと楽しく笑っているミナ。その姿を遠くの窓から見守っているチェンジリング。このラストシーンには、タイトルの通りの「お前は見られている、その罪も」という意味に加えて「あなたを見守っている、いつでも」という意味も込められているように思いました。
 この感想書いてて思ったんですが本作は非常にもったいないんだよな。本作のキモは前述の通り森から脱出したあとに集約されているので、ストーリー的な面白さがボトムヘビーなんですよね。おそらく普段映画を見ている人ほどそこまでが退屈なんじゃないかな。でもそこを通してから見るラストパートはとてもいいんだよな……。実にもったいない……。
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第21回博麗神社例大祭戦利品レビューその⑨

2024-06-23 15:51:03 | 同人誌感想
 実はまだ終わっていない例大祭新刊レビュー。さらには待望の秘封新作もまだ聞いてないという。
 もう6月も終わってしまうので、今月中には例大祭新刊レビューは完了しておきたい。
 
・ムガムビル9(薬味さらい)
 いよいよ次は2桁の大台というところまで来たゾウノセさんの総集編。今回は5作品+描き下ろしが収録されています。今回は全体的にけっこう珍しいキャラの絡みが多かった印象。
 それでは収録作品ごとに感想を。
 
・花椒娘
 タイトルは「ホアジャオニャン」と読みます。
 これまでこのサークルさんの作品を読んできた人ならこのタイトルだけで色々察することでしょう。薬味さらいさんはもはや自分の中では半分くらいグルメ漫画サークルさんという認識になりつつあります。
 のっけから「炙り照り焼き人間サンドイッチ」とかいう衝撃的なメニューが登場する本作ですが、要するに咲夜さん渾身のデレ「わたしを食べて♡」が炸裂する濃厚なめーさくでした。やっぱこのサークルさんの咲夜さんてサイコだよ……怖いよこの人……。
・さよならビースト
 少し前くらいから東方でいちばん好きなキャラであるところのルーミアの出番が増えてて俺によし。というわけで本作はなかなか珍しいルーミアと星をメインに据えたお話。
 じゃあこの二人でどういう話が展開されるのか?ということなんですが、テーマは「狩って食う」ということ。
 東方Project的妖怪観は非常に独特ですが、幻想郷における妖怪ってそもそも「特定のルールに従っていることで成立している存在」なんですよね。そのルールの中でも代表的なものが「妖怪は人を襲う」ということ。じゃあ東方に登場する全ての妖怪がこのルールに従っているかと言われればそうでもない。
 本作のルーミアと星という一見関連がないに見える二人は、かたやめんどくさがって自分から人を襲わない、かたや毘沙門天の使いでお寺の御本尊としての立場があるというそれぞれの理由で積極的に人を襲いません。そういった意味ではこの二人は例外的な存在なんですね。
 本作ではこの二人にカメラを合わせて他の生き物を狩って食う「獣性」とそれに対する「人間性」の対置構造を描いていると感じました。
 ラストでルーミアは迷いなく人間の喉笛に食らいつき、星は結局人間を襲えなかった。この分かれ目を二人の決定的な違いとして提示しておいて、さらにダメ押しとばかりにルーミアから勧められた人肉を「戒律を理由に断る描写」を入れることで、星は決定的に獣としての自分に別れを告げたということを描写しているのがさすが。
 二次創作の楽しみのひとつに「意外なカップリングによるキャラの掘り下げ」があると思ってるんですが、本作はまさにルーミアと星という意外なカップリングを使った、星の持つ「獣性と人間性の対立」という掘り下げを行った作品だと言えるでしょう。
・スワコカエル
 メタスラで見たぞこれ。
 薬味さらいさんの作品の中ではおぜう様に次いで扱いが酷い印象のある諏訪子ですが、今回はどんぐりになるという斜め上の虐待を受けています。もっと諏訪子さまに優しい扱いがあろうもん……。
 タイトルは「帰る」「孵る」「蛙」のトリプルミーニングでしょうか。
 ふとしたことから土に還ってしまった諏訪子がどんぐりとなって、器を得て再誕するという本作の一連の流れは実に神話的、寓話的で好き。なんとなく大長編ドラえもんみも感じます。
 ハイテンションけーき様が大量生産する諏訪子再生体のバラエティ豊かな姿になんだかGガンダム終盤を思い出しました。
 そして諏訪子を復活させるために作った「核」が縄文土器というので「だからどんぐりなのか!」と気づくこの快感よ。すっかり妖怪カエル女のイメージが定着してますが、いわゆる「旧き神」なんだよなこの人。
 ギャグなのかシリアスなのかよくわからん話でしたがそれがいい。というかこれって諏訪子の体を張った一発芸的なものだったのでは……。
・刃傷!惨状!!いざ陳情!!!
 このタイトルのリズム感よ。日本語って美しい。
 「犯人はお前! 被害者は私!?」このリズム感よ。日本語って美しい。
 新作が出る事にキャラがブレブレで有名な妖夢ですが、久しぶりに辻斬りキャラを見た気がします。
 シリアスな作品のイメージが強い本サークルさんですが、本作は思いっきりギャグ方向にアクセルを踏んだ作品。妖夢の半霊がシャッフルされたところで崩壊しました。でも妖夢って原作とか公式書籍でもこのくらいすっとんきょーな子なんだよな。
 そして死体の隠滅方法として紅魔館があまりにも便利すぎる。
・神神神
 衝撃的なシーンから始まる本作、読む前の段階でタイトルからいろいろな想像ができます。
 東方Projectの世界にはたくさんの神々が存在しますが、その在り方はさまざま。しかしひとつ共通しているのが、彼女らは決して万能不惑の完全存在ではないということ。
 作中の言葉を借りれば、彼女らは神そのものとしての権能を持ちながら、人間以上に「慕い、妬み、絆され、猛る」存在なのです。そして本作の事件の発端であるてゐの傷もまた、八十神の呪いによるものという。
 神々の姿がたくさんの信仰や言い伝えが習合されて出来上がったものであるように、諏訪子や神奈子、永琳といった人物もまたさまざまな縁に繋がれ、さまざまな業を抱えた人間以上に情け深い存在として描かれていると感じました。
 そしてエイトフレンズってなんだよ……。
・描き下ろし「EATER」
 さて恒例の総集編の本番とも言える描き下ろしですよ。
 毎回収録された作品の内容を非常にうまくまとめた内容になっているのがすごく好きな描き下ろしなんですが、今回の収録作はどれもかなり異色なものだったので、これをどうやってひとつの話にまとめ上げるのかと楽しみに読み始めました。いやーまとまるもんだなあ……。
 八十神の一件が人里に知れ渡ってしまったことから、「因幡の白兎」のエピソードで知られる和邇(ワニ)への畏れが広がってしまいます。その畏れはほどなく実体を得て各地で暴れ始め……。
 なんでこの収録作をまとめて「けものフレンズwith川のぬし釣り」が始まるのか。
 そして咲夜さんはなんでこんなノリノリでエサ役に立候補してるのか。なんか今回の咲夜さん全体的にはっちゃけてるよな。
 収録作の内容を「捕食者vs被食者」の構図に落とし込んで、うまくキャラや収録作のネタをはめ込んでいるのは流石の一言。本作の……というか本サークルさんの作品における「戦い」は、どれもただの殴り合いではなく「事態解決のためのパズル」なんですよね。メタ的な意味でも本サークルさんの作品の作り方、特に総集編における描き下ろしパートの作り方はパズル&ロジックだと思っています。
 群れで襲ってくる和邇の分霊に対しては同じく集団である八十神をぶつけ、そして本来爪も牙も持たない被食者であるはずの「人間」でありながら同族を日常的に食料として処理している例外存在である十六夜咲夜のもとに追い立てる。このロジックの通り方が実に気持ちいい。
 そして最後は勝利のBBQというのが実にこのサークルらしい。なんかもう薬味さらいさんは小豆粥さんと並んで東方界隈における2大飯テロサークルになってきた気がします。
 
 今日はここまで。
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紅楼夢申し込みました!

2024-06-22 23:14:07 | それさえも平穏な日々
 夏コミの席は無事確保、そこから夜行バス、ホテル、そして印刷所の予約も済ませて安心してたらすっかり忘れてました紅楼夢の申し込み。締め切りもう今月末だった。
 というわけで今年も紅楼夢に申し込みました。そして何を書くかは例によって例のごとく何も決まってません。その前に夏コミの新刊の内容もまだ決まってないという。まあなんとかなるでしょう。
 イベント用の原稿は現在のところ夏コミ、紅楼夢、そして来年発行予定のGCR二次創作小説と3つあるんですが、最近ちょっと執筆ペースが落ちてしまってますね。まあテキストデータ紛失事件とかあったのでやむなし。ちょこちょこ進めていこう。
 あと以前にも日記に書きましたが、自分の作品の改善点としては「作品構造をしっかりまとめる」というのがあります。なんとなく話が進んでることが多いので、起承転結……にはこだわらないにしても作中の物事の因果関係をしっかり書くということを意識して、加えて作品の型を意識して書いていくことを目標にしたいですね。
 作品の型、つまりパターンは今さら自分で頭を捻るまでもなくたくさんあるので、作品の型に自分のアイデアを寄せる形で書いていこうと思います。
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「Epido」コンプしました!

2024-06-21 21:11:43 | STG
 本作はいわゆる脱衣系STG.センチメンタルシューティングとかD-Forceとかのアレです。
 天使の女の子を操作して各ボスを撃破していくオーソドックスな横画面縦STG。ボスメインの構成で、各段階を撃破すると脱衣が進行するというもの。
 道中の難易度は短くそれほどではないんですが、後半ボスはそれなりの手応え。しかし救済措置は多く、マナを消費して前方の敵弾を消せる近接攻撃、いくらかの被弾はOKのライフ制、コインを貯めて自機のパワーアップが可能と必ずしも弾避けテクニックは要求されません。手軽にプレイできるSTGがやりたい、初心者向けのSTGがやりたいという人には価格も安いのでおすすめ。
 各ボスキャラのイラストもクセがなく素直に可愛いのでそっち方面でもおすすめです。個人的にはDLCのバニーガール姉妹と猫耳メイドが好き。
 しかしSTGとして見るとけっこう粗もあります。かなり小さい敵弾があり背景に溶け込みやすい、道中の敵の攻撃パターンが少ない、ボスの撃ってくる敵弾がお菓子、トランプなどの形をしているせいで画面がかなりごちゃつくことがある、といった点が気になるところでしょうか。
 また、ボス戦では画面左右に自キャラとボスキャラの立ち絵が表示されるんですが、この立ち絵が画面に被っているので左右に寄っての弾避けが非常に困難なのがちょっとストレスポイント。
 とはいえ、前述のとおり救済措置はそれなりにありますしイラストも可愛く、セール中であれば100円を切るのでサクッと遊びたいゲームとしては良いと思います。
 ちなみにアビリティはパワーアップと無敵がおすすめ。
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