こないだリンクを張らせてもらったサイト「
AQUA RAINBOW」の管理人フミツキマサヒトさんから掲示板にてこんな記事を紹介してもらい、意見を求められました。
「酷評は何も生み出さない」
http://plaza.rakuten.co.jp/wakatukihikaru/diary/200602140000/
プロの作家の方のブログ内の記事のようです。
で、感想。
大部分がラノベ研の創作掲示板での質問「読者からの酷評について」に投稿した内容とかぶりそうだけど、まあ書きます。
まず、最初から酷評だけを目的として評価しあうのは、そりゃあ意味なかろうよ。やってる方は不愉快になりばかりだろうし、見てる方は気分悪くなるのも当然。こんなことするメリットはないと思う。もっともこの記事での「酷評しあおうというページ」っていうのはもしかしたら「厳しい評価でいこう」って程度の意味なのかもしれない。たぶんそうだと思うがなあ。
さておき、じゃあ酷評って全く必要ないのか? 全部無視するべきなのか?
答えはNOだ。
プロにせよアマチュアにせよ、作品を何らかの形で不特定多数の目に晒せば、色んな評価を受ける。プロだからって絶賛ばかりされてる訳じゃない。上記の記事の中にもあるとおり、プロの作品にすら突っ込みどころ=欠点がある。
それならアマチュアの作品に酷い評価が来ることもあって当然だろう。
作品を不特定多数に向けて発信するという行為は、常にその作品が批判を受ける可能性、否定される可能性、酷評を受ける可能性を伴う。当然のリスクだ。
で、酷評を受ければ当然作者はダメージを受ける。酷い時にはそのまま自信を無くしてかけなくなってしまうかもしれない。
そういう自体を避けるために、投稿サイトなどで自作品を人目に晒すこと、引いてはそこで批評を受けることに慣れておくことで、酷評を受けたときのダメージを軽減できるだけの耐久力を身につける必要があると思う。
よって僕は酷評を受けることが全く必要ないとは考えない。
そもそも批評を受けるリスクを受け入れられない人間に進歩はない。
批評が怖いから作品を人目に晒せないじゃ話にならない。
何かが欲しければ相応の代償を支払う。当然のことだ。
またこの記事内に書いてある事例と体験談についてだが、読む人によって感想が違うなんて当たり前のことだ。ある出版社では突っぱねられた作品が別のところで受け入れられたなんてよく聞く話だ。珍しくもない。
作品に対して返ってくる感想は千差万別だ。
じゃあどれを信用したらいいの?と誰もが思うだろう。
それは作者が自分の責任で自分で決めることだ。
どれが妥当で取り入れる価値のあるもので、どれが
読者からの感想の選別取得は書く側にとって執筆以上に重要な技能だと思う。
もう一つ、読者からの感想は感情ではなく理性で受けとって選別すること。
酷評を受けた→腹立てるでは話にならない。
読者からの感想を分解消化して、その感想の言わんとしていることを読み出す。
仮にも話を作る側なら、他者の書いた文章からその核心を読み出す程度のことはできて当然。
それと、記事内の「誉めあった方がいい」という意見には僕は反対。
理由は、誉めあいは確実に馴れ合いに発展するからだ。断言できる。
誉めあいという状況では読者から得られる感想が肯定的なものに限定されるので、作品の感想が上方修正されてしまう。つまり、過度に優れた作品だと勘違いしやすくなってしまう。
これは非常にまずい。なぜなら、批判と誉め言葉では当然誉め言葉の方が受け入れやすいし、もらって嬉しいだろう。
誉め言葉ばかりもらえて一切に批判が来ない場所があれば、そりゃあ安全だし居心地がいいだろう。
で、安全で誉め言葉だけもらえる限定されたグループ以外の場所で作品を発表できなくなる、と。さらには自分の作品が無条件で優れたものであると自覚なく誤解し続けるハメになる。
こうなると悲惨の一言だ。
記事の冒頭で、酷評しあっているサイトを見てて胸が悪くなったとあるが、仲間内で誉めあってるだけの馴れ合いはそれ以上に見てて気分が悪くなるものだ。実際にに経験あり。僕はそのグループを離脱した。
誉め言葉が無用であるとは言わない。けれど、誉め言葉は謙虚に受け止めなければ簡単に自分をつけあがらせる。
よって、酷評しあうことは確かに何も生み出さないけれど、誉めあうだけはもっと悪い、というのがこの記事に対する結論。
読者には酷評のみ、誉め言葉のみと限定せずに自由に感想を述べてもらうべき。というかそれが当たり前。
それと、繰り返しになるけど作者の側で読者からの感想を選別することは捜索する上での最重要テクニック。
酷評でも的確に足りない部分を突いてくれているのなら自分にプラスになるし、誉め言葉でも気を遣ってるとか手放しで誉めてるだけなら聞く価値はない。
さらには感想をもらってる友人や投稿サイトそれ自体をも選別する必要がある。
小説に限らず、何かを学ぼうとした場合、それが上手くいくかどうかは誰に学ぶか、どこで学ぶかにかかっている。
言ってしまえば、学ぼうとしていることが上手くいく、ずっと続くかどうかは誰に、どこで学ぶかを決めた時点でほぼ決まるといってもいいと思う。
僕は居合を10年ばかり続けている訳だけど、これだけ続けることができているのは優れた道場に入門し、優れた先輩や先生方に学ぶことができたからだと断言する。
自分自身の努力ややる気は全部後付けだ。この道場だから努力できたしやる気が沸いた。もし今通っている道場以外の場所に入門していたら、これだけ続けることができたかどうか。
同じ事が小説にも言える。
誉め言葉だけでなく指摘もきちんとしてくれる友人や投稿サイトを自分で選ぶことは必須条件だ。
今僕はラノベ研を利用している訳だけど、ここがもし酷評だけしかしなかったり誉めあってるだけのサイトだったりしたら、僕は利用するのを止めているし、ベタ誉めだけしかしなかった相手の感想は耳に入れていない。
自分が正しいことを学べる場と相手の選別というのは重要な点だ。
以上の理由から、僕は誉め合うだけっていうのには反対。
……と、僕はこの記事に関しては否定的意見を述べてきたけど、全部が全部反対って訳じゃない。
記事の最後の方にある、「誰かに感想を言って欲しいのなら、小説化志望者だけじゃなく読書がすごく好きな人に読んでもらうのが一番。そういう人の意見は小説のテクニックなんて知らない分すごく深いところを突いてくる」の一文。
これは然り。おっしゃる通り。
小説化志望者=書く側にだけ感想を求めていたのでは、得られる感想の視点が限定されてしまうので、小説志望者とは別の視点からの感想というのも必要だと思う。
小説化志望者の視点はどうしても作品の構造や文法的な正しさと言った技法的な部分に向きがちだ。かくいう僕もそういう傾向があることを自覚している。映画や漫画を見るときなんか、作品を楽しむというよりは構造を解析するという視点で見てしまうんだな。「感情で作品に触れてない」という表現ができるかも。もっともこれはこれで楽しみ方の一つとも言えるけれど。
それに対して作家志望者でない読書が大好きな人たちって言うのは、そういう技法的な部分でなく、ストレートに話が面白いかどうか、どこが面白いか、どこがつまらないかという視点で作品を読み、感想をくれる。書く側の視点では見つからないような「すごく深いところ」が見えるのだ。
以上の理由から、僕は作品を小説家志望者以外の人間に見せることには賛成。
あとこれには平素の人間関係が大きく影響するだろう。
色んな知り合いが居れば居るほど色んな意見をもらえるからね。
だいぶ長くなったけど、あともう一つ。これは記事とは関係のない話。
僕は人からの誉め言葉を素直に受け入れることができない。
理由は、誉められて駄目になった経験があるからと、誉め言葉がどれだけ容易に自己満足に繋がるか知っているから。
言ってしまえば、僕は誉め言葉を受け入れるのが怖くてたまらない。
さらに言ってしまえば、僕は自分が何かができる人間だと認めることに抵抗を感じる。
自己肯定することに対して病的に疑り深いのだ。
上記の文章でやたらと誉め言葉を警戒しているのはそのためだ。
誉め言葉も選別しないといけないとは書いてきたが、実際のところ正確に誉め言葉を選別できているとは思っていない。ほぼそのままゴミ箱に捨ててると言っていい。
自分に厳しい人だとよく言われるけれど、実際には技量を伸ばすために自分に厳しくしているのではなく、自分をこき下ろす事そのものが目的化しているフシがある。自己批判ではなく自己否定になっているんだな。これに関しては以前日記で書いたけどね。
なので、今自分に一番必要なのは、自分の技量を正確に認めてやること=他者からの誉め言葉をもう少し信用することだ。
いたずらに自分を否定するのは、無条件に自分が正しい、優れていると思い込むのとベクトルが正反対なだけで同質の行為だ。やっちゃいけない。
……と、恐らく今までで最長の日記になりましたが、フミツキさんこんな感じでよろしいでしょうか?