A Day in The Life

主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

塚口サンサン劇場「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション前章・後章」見てきました!

2024-07-18 23:07:46 | 映画感想
 毎週木曜は滑り込みの日。
 というわけで今日見てきたのはこれ!
 
 
 本作に関しては原作をちらっと読んだことがある程度で詳しい内容は知りませんが、かなり独特な世界観だったのでちょっと気になってた作品。
 公開当時は結局見てなかったんですが、今回塚口で上映するというので見てみることに。
 ちなみに浅野いにお作品は「おやすみプンプン」をタイトルからファンタジー的なほのぼのマンガだと思って読んでオゲェェとなるといったおもひでがあります。この傷は私の宝です。
 さておき、恒例の待合室は現在こんな感じ。
 
 
 塚口のファッションリーダー秋山殿の装いはミニオンズ。来月辺りにはあぶデカになってるに100万ガバス。
 そして壁の方には……
 
 
 推し過ぎ。サンサン劇場はどんだけあぶデカ好きなんだよ。普通年表まで作らねえよ。
 年表には「ドラゴンボール連載開始」「ドラゴンクエストⅢ発売」などという文言が記されておりめまいがしてきます。1986年……。
 こうして年表で見てみると歴史のある作品なんですよねあぶデカ。TVシリーズもみんな見てたし金曜ロードショーで放映されると必ず見てたしなあ。
 などとノスタルジーに浸りつつ上映開始を待ちます。本作、なんだか妙に年輩の方が多かったように思います。そういう年齢層に支持されてるんだろうかこの作品。なお「お前も年配じゃねーか」とか思った人は深夜に自宅に忍び込み家中のコンセントに紙ねんどを詰め込むの刑。
 
 さて感想に行きましょうか。
 仲良しの高校3年生、小山門出と中川凰蘭ことおんたんは、クラスメイトと平凡な日常を過ごしています。しかしその3年前の8月31日、東京上空に突然巨大な飛行物体、通称「母艦」が出現。それ以来、東京ではその「母艦」の浮かぶ空、そして自衛隊と母艦から現れたと思しき宇宙人の戦闘が日常となっていたのでした。
 そんな非日常が日常となった世界には、人知れず終焉が迫っており……。
 こうした作品は「突然の出来事から日常がいきなり崩れ去る」というのがお約束でしたが、いつからか「現れた非日常がいつしか日常に覆い隠されていく」という展開が増えてきましたよね。この辺に地代というか世相の変化を感じます。いい意味でも悪い意味でも「非日常」というものに夢が見られにくくなったってことなんでしょうか。
 本作でも、宇宙人の「母艦」出現からわずか3年で日本の人々はその非日常に慣れてしまっている描写が秀逸。門出やおんたんたちが年相応に学生生活を楽しんでいる場面だからこそ、「母艦」の存在が不気味に浮かび上がるのが不安感を煽ります。
 しかし、この非日常が完全に日常に多いか隠されてしまっているかと言うとそうでもない。「母艦」は人類を直接攻撃してくるわけでもなければ、中の宇宙人たちも自衛隊に一方的に駆除されるほど脆弱。しかし「母艦」や宇宙人の存在は人類にとって脅威であることには変わりなく、人類社会は次第に、あるいは勝手に混乱していきます。このどちらか一方に傾ききらないバランス感覚がなんというか「世の中そんなに単純じゃないよなあ」といった感じです。
 いきなり終盤について触れますが、なんやかんやあって「母艦」は墜落、人類は未曾有のカタストロフを迎えるかに見えます。いや実際、作中で東京が受けた被害はカタストロフと呼ぶに十分なものだったでしょう。
 しかし世界は崩壊しきらない。なんとも中途半端な崩壊を経てなお、世界と日常が容赦なく存続していく。門出やおんたんが常々口にしていたようには世界は都合よく滅んでくれなかった、というあの結末は、いわゆるモラトリアムがモラトリアムのまま完結してはくれなかったというラストだと解釈しました。
 門出もおんたんもそれぞれ誰もが経験する、しかし彼女らにとっては頭上に浮かぶ「母艦」と同じくらいの脅威であるさまざまな悩みを持て余し、それらすべてを解決する方法として「世界の崩壊」を望みます。本作は、そんな彼女らのモラトリアムこそが崩壊するべくして崩壊した物語のような気がします。
 
 「母艦」や宇宙人に関しては、門出やおんたんが抱える「将来への漠然とした不安の象徴」として彼女らの頭上に覆いかぶさっているものであって、その正体や目的などが具体的に明かされることはないというパターンだと思ってました。
 しかし「母艦」側の事情もかなり具体的に描写されたのが意外。しかもこっちはこっちで実は大多数から侵略の名目で切り捨てられた側だということが判明。侵略者側も決して万能で超越的な力を持った存在ではないというのが「第9地区」を思い出させます。
 意思の疎通もできない宇宙人のひとりをふとしたことから匿って、彼が持っている道具を使って……というどっかで見た流れもありますが、やっぱりそれで世界を大きく変えることはできない。
 後章ではおんたんが時間軸を転移してやり直しを行っていたことが判明しますが、正直この作品のキモにあるのは、「宇宙人が攻めて来ようが時間軸を移動しようが結局世界は都合よく滅んでくれたりはしないから、いやおうなく『その後の世界』を生きていくしかない」ってポイントだと思うんですよね。だからこそ門出やおんたんのだらだらした日常生活の姿が輝くという。
 本作はいわゆるセカイ系にも見えますが、その実けっこう真っ当な青春ストーリーでもあると感じました。やはり鑑賞後に心に残ったのは日常と非日常のシーソーゲームのバランス感覚の絶妙さでしょうかね。
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塚口サンサン劇場「K.G.F. Chapter1&2」連続マサラ上映入坑してきました!後半戦

2024-07-14 23:25:31 | 映画感想
 興奮冷めやらぬ中で終わった「K.G.F. Chapter1」。
 しかし、俺たちの戦いはこれからだ!
 というわけで45分間の休憩時間でカレーを補充して後半戦に進みます。
 今回も、インド映画のマサラ上映の際にはおなじみの「タージマハル・エベレスト塚口店」さんの出張販売によってカレーセットをはじめとするメニューが販売されていました。
 今回食べたのはこれ!
 
 
 今回は、新しいメニューとしてK.G.Fでその知名度を爆発的に上げたであろう「パパド」が追加されていましたので食べてみることに。
 パパド(パーパド、パパドゥとも)は、wikiによればレンズマメ、ヒヨコマメ、ケツルアズキまたは米粉を原料としたインド、南アジアで食される極薄クラッカーのような食べ物。生地を薄く丸い形に伸ばして、揚げる、直火やトースターで焼く、電子レンジで温めるといった食べ方をします。
 今回食べたパパドはカリカリに揚げたもので、スパイスと塩での味付けが効いてて美味しかったです。わたくし人形使いは今回初めて食べましたがなかなか好みの食べ物でした。他の食材を包んで食べたりもするようなので、そういう食べ方もしてみたい。
 サンサン劇場がきっかけでインド映画にハマり始めたわけですが、映画だけでなくこうしたインド料理も食べる機会を提供してくれるのが塚口の面白いところ。そういえばサモサもナンカレーも塚口で食べたのが初めてだったんですよね。異文化に出会える映画館、サンサン劇場。うめうめ。
 そしてこのパパド、後半戦で大活躍することになるんですがそこは後述。
 また今回、カレー待機列とカレー食べてるときにお土産をいただきました。いつ何時でも塚口のホスピタリティはどこから狙ってくるか分かったもんじゃありません。問答無用のホスピタリティ、素晴らしい。
 短い休憩の後、人が出ていったシアター4内に再び熱気が戻ってきます。そしてやはりというか案の定というか時間が押してるとのアナウンスがありました。まあ6時間もあるからなあ……。
 場内でカレー食べてる人もいましたが、急がないとカレーのトッピングに紙吹雪が混ざってしまいます。まあこのテンションならそのまま食べてもなんも気にならない気もしますが……。
 そんな感じで館内はだんだんエネルギーに満ちてきました。刃牙で言うところの背景が歪んでるアレです。というわけで後半戦、「K.G.F. Chapter2」開始(はじめ)ッッッ!!
 
ドコドコドコドコドコドコドコドコドコドコ(太鼓)
「ROCKING STAR YASH」
「うおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
 
 Chapter2、いきなりこれで始まりますからね。そして上がったテンションがここから降りてきませんからね。どうなってるの?
 いやーしかし、これもインド映画の感想では毎回書いてる気がしますが、タイトルと同等かそれ以上のインパクトで俳優の名前がどどーんとスクリーンに出てくるのを見るにつけ、インドという国における映画俳優という立場の大きさ、ひいては映画というジャンルの立ち位置というものを見せつけられる思いです。「国民的スター」という言葉の意味するところが日本とインドではまったく違うんだなあ。
 Chapter2で見事K.G.Fを手中に収めたロッキーは、隠されていた8つの鉱山の採掘に着手。莫大な富と権力を手にします。その一方で、苛烈な性格で辣腕を振るうインド首相ラミカ・センはK.G.Fの存在を知り、違法採掘を止めるべく動き出します。
 ここからの物語の盛り上がりはまさにジェットコースター的ですごい勢い。
 すごい勢いといえば、みんな大好きワナラム閣下への声援がまあすごいのなんの。閣下が出るたびにロッキーと同等の声援が客席からぶち上がってました。特に今回はお隣の方が明らかにワナラム閣下推しで、もはや物理的圧力すら伴ったその愛の前ににわたくし潰れまんじゅう。
 応援上映やマサラ上映で楽しいのはもちろん自分の好きを叫ぶことですが、同時に他の人の好きを味わうのも好きなんですよね。
 Chapter1がロッキーに焦点を当ててその半生と彼がいかにしてK.G.Fを支配してきたかを描いたパートとするなら、Chapter2は絶大な富と権力を手にしたロッキーに対して周囲の人物がどうするかという点に焦点を当てた展開になっていると言えるでしょう。いわばロッキー以外の人物にカメラを当てることでロッキーを描写しているわけです。だからこそChapter2ではロッキー以外のキャラクターが輝くわけですよ。
 敵方のキャラとしてはバイキングかぶれのアディーラもえらい人気でしたね。例の剣がスクリーンに映っただけで大喝采。これ「PATHAAN」でタイガーのスカーフが出た時点で場内のテンションが最高潮になったのと同じ現象ですね。
 まあ本作では場内のテンションが最高潮になる瞬間が山ほどあるんですが。
 そのひとつがみんな大好きブローニングM2重機関銃ことビッグ・ママのシーン。みんなここともう1か所のシーンために今回大量の火薬を場内に運び込んだことでしょう。前回のマサラ上映でもそうでしたがここのクラッカーすごすぎ。機動隊呼ばれても申し開きは不可能レベルの爆発音で気分は蜂の巣にされる警察署ですよ。そしてこの銃撃シーンが長い長い。でもクラッカーが全然途切れないのがさすがと言うしかありません。
 そしてここのみんな大好きロッキーのダークヒーローしぐさ、「銃撃で赤熱した銃身にタバコを押し付けて火を着ける」でビッグ・ママに負けないくらいの大歓声が。もうすでにChapter1で3時間映画見た後のテンションと盛り上がりではない。このエネルギーをもってすれば地球上のエネルギー問題は全部解決ですよ。
 しかもこれだけやっててもまだ盛り上がりどころがあるという。ビッグ・ママと同等かそれ以上に盛り上がる銃撃シーン、みんなだいすき「カラシニコーーーーーーーフ!!!」
 ここ、聞こえる爆音がスクリーンの中の銃声なのかクラッカーの音なのかまったくわからなくなってて笑ってしまいました。これだけ撃ってもらえたらカラシニコフことAK-47自動小銃開発者のミハイル・カラシニコフ氏もニッコリですよ。
 このように通常の映画なら50回はクライマックスを迎えているレベルの盛り上がりなんですが、今回のChapter2でいちばん盛り上がったところというかみんなの心がひとつになったシーンが実は別にありまして。
 それはどこかと言うとさっき休憩のときに食べたアレのシーンですよ。
 リナのもとにロッキーがヘリで駆けつけるシーン、ヘリの風圧に煽られてなんか白くて丸い薄い生地みたいなものが舞っています。前回のマサラ上映のあとのtwitter(頑なにXとは呼ばない)で知ったんですがあれこそがパパドなんですよね。
 前回のマサラ上映ではこのパパドについてはそこまで知られてなかったようで、わたくし人形使いも前回のマサラ上映のあとであの白くて丸いものの正体を知りました。
 そして知ったからにはやらずにはいられないのが塚口ファン。今回の該当シーンで大量のパパドが場内を舞う!
 いやーもうみんな「これがやりたかった!」って顔に書いてますよ。あまりの見事さに、わたくし思わず拍手してしまいました。
 応援上映やマサラ上映に長く通っていると、いろんな作品での「お約束」が自然発生的に生まれてきます。そのため、同じ作品の応援上映・マサラ上映に継続して参加していると作品の展開だけでなく客席から次はなにが起こるかという予兆を感じ取れるようになるんですね。そうなると「次はアレが来るぞ……!」というワクワク感という楽しみが追加されるのでおすすめ。
 というか今回のパパドのシーン、直前でそこらじゅうから「ゴソゴソ……」ってパパドを取り出す気配がしてたのが最高に面白かった。みんな同じこと考えてたんだなあ。
 塚口ファンの心はひとつ。パパドを撒きたい。パパドを撒きたい。
 間違いなくここが今回のマサラ上映における最大のハイライトだったと言えるでしょう。
 Chapter2も後半に入るとストーリーは急展開を迎えます。K.G.Fにおける大バトルが勃発し、そして――。
 これは以前の「サイラー・ナラシムハー・レッディ」の感想でも書いたことですが、同じ作品を複数回視聴するという行為には、物語の展開を知ったうえでしか得られない、2回目以降でしか味わえない体感や発見があります。
 しかるに今回のK.G.F、特に後半戦となるChapter2は、物語が進んでいくに従ってロッキーが「あの結末」にどうしようもなく少しずつ近づいていくのがなんとも悲しい。リナと結ばれたロッキー、あの二人が幸福であればあるほどその後に待つ悲劇を知っている我々は悲しくなる。でもどうしようもないんですよね。
 これまた塚口の感想でたびたび書いていることですが、塚口の応援上映やマサラ上映はスクリーンという「窓」を通して、我々を本来なら触れることができないスクリーンの向こうに連れて行ってくれます。
 しかし、我々にはスクリーンの向こうで彼ら彼女らがたどる運命を変えることは決してできない。どれだけ応援してもリナがああなることも、ロッキーがああなることも変えられない。
 マサラ上映の大騒ぎに身を委ねる中で、そんな思考が頭の隅にあるのを感じました。
 どこまで自分の運命を悟っていたのか、どこから自分の運命を決めていたのか。
 客席にいる我々のほとんどは、そんなロッキーの運命を知っています。今回が初見の人も、なんとなく彼がこれから辿る運命を察していたんじゃないでしょうか。
 ストーリーは「あの結末」に向かって進んでいきます。そしてその時が来たその瞬間の紙吹雪の美しさよ……。
 またまたこれまた毎回書いてることですが、塚口のマサラ上映はクラッカー撃ちまくり歓声上げまくりの「動」の部分だけでなく「静」の部分もまた大きな魅力。誰が言うでもなく、沈黙のまま紙吹雪を撒くだけ。
 この沈黙の中に紙吹雪が降り積もる音だけが響く光景、一度見たら忘れられません。twitterでもこの「静」の部分に感動している人が数多く見受けられるのも頷けます。本当に本当に美しいんだこの光景……。
 そしてラストカット、全員で叫ぶ! 「MONSTER!!!」
 
 ……というわけで2本合計して6時間+αの「K.G.F. Chapter1&2」連続マサラ上映、これにて終幕。
 いやー楽しかった! いつも通り上映前からお土産交換やコスプレなどで大盛り上がりしてから、上映中はそれ以上の盛り上がりを見せるのが塚口のすごいところ。加えて今回は2本連続の長丁場であったにも関わらずその盛り上がりが一切落ち込むことがなかったのがすごいですね。なんなら今この時点でもtwitterにはその熱気が残っているという。
 そしてやはり今回はパパドが忘れられない。あの場内の上半分の空間を埋め尽くしてパパドが舞う光景、世界広しといえどもサンサン劇場でしか見られないものでした。どんな光景だったかは毎度おなじみ関西キネマ倶楽部さんが素晴らしい写真を撮影してくれていると思うのでぜひとも。
 しかしこれで終わった気になってるわけにはいきません。なぜならすでに次の「帰ってきたあぶない刑事」マサラ上映が控えているから。なんか6月末から毎週マサラ上映してないかこの映画館。
 付き合ってると息つく暇もない映画館、それがサンサン劇場。というわけで次のマサラ上映でお会いしましょう。
 
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塚口サンサン劇場「K.G.F. Chapter1&2」連続マサラ上映入坑してきました!前半戦

2024-07-13 23:13:27 | 映画感想
 先週RRRマサラ上映、そして一昨日RRR最終上映が終わったばかりだというのに塚口はまだまだ止まりません。3時間ずーっと見せ場のインド映画みたいだな。「子は親に似る」と言いますが、映画館も上映作品に似るんでしょうか。
 というわけで今日見てきたのはこの作品!
 
 
 戸村支配人の前説によればなんと本作上映1周年だとか。その記念すべき日に我らが悪党(ヴィラン)ロッキーを称えられるとはなんという幸福か。
 しかし個人的なことを言えば今回はちょっと準備不足でした。
 RRR最終上映の際に今日のための音だけクラッカーを買おうと思ったんですが、なんかもうイナゴの大群が通り過ぎた畑みたいに完全に狩り尽くされていました。ちなみにこないだのRRRマサラのときに音だけクラッカーを狩り尽くしたのはわたくし人形使いなので自業自得とも言えます。因果は巡る。
 そして今日も早めに塚口に到着してダイソーに行ったんですが残念ながら在庫は補充されておらず。なので今回はリングベルと己の肉体のみでの参戦となりました。
 みんなどんだけクラッカー買ったんだろうか。
 今週は関西圏……にとどまらず全国各地でお花紙とクラッカーが大量に売れて日本経済回りまくりだったのでは。マサラ上映は経済を動かす。
 しかし今日は比較的天気も良くて良かったですね。特に塚口のマサラ上映は遠方から来る人や仕事帰りなどで時間ギリギリで来る人も多いので天気がいいのは本当にいいこと。
 恒例の待合室ではさっそく大量のおみやげというK.G.F.愛がブローニングM2機関銃ことビッグ・ママの銃弾のごとく降り注ぎ蜂の巣にされてしまい、リュックサックがパンパンに。
 
 
 塚口の応援上映やマサラ上映の際には、みなさんさまざまなお土産を用意しているんですが、まあどれもこれもとんちと工夫が素晴らしい。毎回作品ごとに手を変え品を変え、バラエティ豊かなお土産を楽しませてもらってます。
 特に今回は「からしれんこん」をシールで無理やり修正して「からしにこふ」にした辛子蓮根風味うまい棒を持ってきた方にお土産部門MVPを差し上げたい。どっから思いつくんだよこんなの……。
 今回はコスプレの方もいつも以上に多かった気がします。主役であるロッキーやリナはもちろんのこと、名もなき一般坑員のコスプレしてる人とかいてコスプレ班の層の厚さに改めて驚愕したわたくしでした。
 といった感じでいつも通り上映前からアクセル全開です。塚口の辞書にペース配分という文字はありません。
 しかし、ここからさらに車の床踏み抜く勢いでアクセルベタ踏みになるのが我らが塚口。
 恒例の上映前のスクリーンはこんな感じ。
 
(※わたくし人形使いは愚かにも誤って上映前スクリーンの写真を削除してしまいました。今後このようなことがないよう十分に注意するとともに、本件につきまして深く陳謝いたします。てへぺろ☆)
 
 こないだのRRRマサラ上映のレポでも書きましたが、わたくし人形使いのコミュニケーション能力はヒメマルカツオブシムシ以下なので普段は知らない人に話しかけるとかとてもじゃないけどできないんですが、応援上映やマサラ上映の際にはMPを振り絞ってお隣の方に挨拶するようにしています。
 今回はお隣の方はかたやはるばる新潟から来られた方、かたやお友達といっしょに大量の紙吹雪を持ってこられた方でした。北は北海道、南は沖縄から、塚口のマサラには遠方の方も数多く来られていて、本当に全国から愛されている映画館なんだなあと思いました。そしてお隣の方がお友達と「塚口にホテルを併設してほしい」と話されているのが聞こえて心の中で全力で同意していました。サンサン劇場はもういち都市として「地方自治体サンサン劇場」になってもいいのでは。
 今回はチケット争奪戦の際に3回も弾かれて席を選んでいる余裕がなかったのでいつもより後ろの方だったんですが、後ろの方から改めてこの光景を見てみると改めて「ここ本当に映画館?」(いつもの)といった光景で壮観ですね。なんだよ「これから都落ちします」みたいなその大量の荷物は……。
 そしてみんなが席につき、ざわついていた館内が少しずつ静かになってきたところで……我らが戸村支配人の登場だ! サラーム・トムラ・バーイ!!
 お客が芸達者なので劇場側も負けてはいません。ロッキング・スターことヤシュ氏演じるロッキーのあの名台詞を再現した前口上に館内のテンションはねぶた祭り20年分くらいの熱量に。どうなってんだよ毎回。もうこの時点で場内真ん中の通路は紙吹雪で埋まってます。
 そして今回も、初K.G.F、初マサラ、初塚口の方がけっこうおられて場内から温かい拍手が送られます。塚口で応援上映やマサラ上映をやるたびに必ず初鑑賞、初マサラ、初塚口の人がいるのってすごいことですよね。というかもうそろそろ塚口も4スクリーンでは限界なのでは。ここはひとつさんさんタウンを丸ごと乗っ取ってですね。
 そんな感じでブチ上がったテンションのまま上映開始!
 そして絶賛上映中「SALAAR サラール」の予告でさらにテンションがブチ上がります。もうこの時点で普通の映画3本分くらいのカロリーを消費してますよね。塚口の業態が「映画館」なのは無理があると常々思っています。
 そしてこのレポも2000字超えてようやく本編開始ですよ。
 
「TWIN」「うおおおおおおおお!!!!」
「K.G.F」「うおおおおおおおお!!!!」
「ROCKING STAR YASH」
「うおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
 
 スクリーンにはまだ文字しか出てませんが揺れてる揺れてる。座席が揺れてる。床も揺れてる。
 それも無理からぬこと。だってロッキーがあまりにもカッコ良すぎるから。
 わたくし人形使いは本作をもう何度も見てるんですが、見るたびに「映画って人間の『カッコよさ』をここまで引き出せるものなのか」と驚嘆せずにはいられません。
 ロッキーを演じるヤシュ氏がそもそもカッコいいんですが、本作ではカメラアングル、BGM、陰影、そして空気感、あらゆる要素を使ってヤシュ氏の持つカッコよさを最大限に引き出している。
 ロッキーのカッコよさの真髄は、その洒脱な台詞回しに依る部分が大きいと思うんですよね。みんな大好き「暴力、バイオレンス……」は言うに及ばず、各所の台詞回しが実に機知に富んでいる。「真似したくなるセリフ」って魅力の証だと思います。Chapter2にも大好きなセリフがあるんですがそこはあとのお楽しみ。
 もうロッキーが何をしてても客席からは歓声とクラッカーと紙吹雪が止まりません。基本的にロッキーの体の一部がスクリーンに映ってたらみんな大騒ぎ。なんならロッキーが画面に出てなくても「Rocky」の名前が入ったバイクがスクリーンに映っただけで大歓声だからな。
 そしてChapter1の盛り上がりのクライマックスの一つ(クライマックスが複数あることに今さら疑問を挟んではいけない)であるロッキーがリナに一目惚れするの巻のシーンの盛り上がりがまあすごい。ロッキーのマイベストダークヒーローしぐさである「掴んだ敵の手で自分の髪をなでつける」のところで思いっきり「ここすきーーーーーッッッ!!」って叫べたので満足です。
 あと今回見てて思ったんですけど、ロッキーだけじゃなくてリナも明らかにここで一目惚れしてるよな。
 これだけ盛り上がっててまだ盛り上がるところがいくらでも残ってるのが本作のすごいところ。次はみんな大好き「Salaam Rocky Bhai」をスタンディングで大合唱!!
 ここがどれだけ盛り上がったかは文字通り筆舌に尽くしがたい。だいたいこの作品を見てマサラ上映で「Salaam Rocky Bhai」を場内全員でクラッカーと紙吹雪撒き散らしながら絶唱したくならない人間なんて現在過去未来すべての時間軸において存在するわけがないんですよ。やりたかったことをやらせてくれる映画館、サンサン劇場。
 わたくし前述の通り今回はリングベルのみ参戦だったんですが、右手振りすぎて肩からすっぽ抜けるかと思いました。明日は筋肉痛が確定している人も多かろう。
 ここの一体感、本当に素晴らしかった。今日のシアター4に集まった人々だけでなく、スクリーンの中でロッキーを称える民衆とスクリーンの外でロッキーを称える我々もまた一体となっていた。
 このブログで何度も何度も言ってることですが、塚口の応援上映・マサラ上映はスクリーンの中の物語と一体となれる、映画という作品の一部になれるという未曾有の体験ができます。そりゃあ北海道やら沖縄やらからわざわざ宿を取って新幹線に乗ってくる人がいるわけですよ。こんな映画館ほかにないですよいやマジで。
 そんな感じでもう終わった気になってますが、こんだけ盛り上がってて1、2合わせた作品全体の尺的には4分の1くらいなのがすごいというかなんというか。作品のストーリー的にもここからどんどん盛り上がっていくんですよね。
 Chapter1のラストパートとなるロッキーがガルダ暗殺のためにK.G.Fに潜入するところで紙吹雪が実にいい仕事してるんだよな。画面の中から荒野の砂埃が吹き付けてくるようなあの館内の光景はこのあと関西キネマ倶楽部さんがしっかり撮影してくれてると思うので必見。本当に幻想的だった。
  Chapter1のラスト、奴隷たちに紛れてカーリー・マーの儀式に紛れ込んだロッキーがついに組織の重鎮のひとりであるガルダの暗殺に成功するシーン。ロッキーはあそこでK.G.Fの奴隷たちの心をつかみ、彼らの救世主と崇められるようになります。あのシーンでもう観客全員がK.G.Fの奴隷だった。スクリーンの中の奴隷たちと完全にシンクロしてた。あんなん見せられたらそりゃあ誰でも心酔するわ。誰だってそーする、おれもそーする。
 一連のストーリーの語り手である老記者アナンドの「これは始まりに過ぎない」のセリフでChapter1は幕。後半戦であるChapter2まで45分間の休憩となります。
 皆さん知っての通りChapter2はもう最初からフルスロットルなのでここでの栄養補給は必須。トライアスロンかな?
 前半戦はひとまずここで筆を置きましょう。後半戦に続く!
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塚口サンサン劇場「PS-Ⅱ 大いなる船出」「RRR」見届けて来ました!

2024-07-11 23:22:03 | 映画感想
 毎週木曜は滑り込みの日。
 そして今日はあの作品のいったんの最終上映日ということで、悪天候にもめげずにサンサン劇場に行ってきました。
 今日見てきたのはこれ! ……の前に、すっかりおなじみとなって、そして今日でいったんお別れとなるこの光景を写真に収めてきました。
 
 
 もうすっかり塚口の日常となったこのポスターも、いったんとはいえなくなると思うとさみしいもの。しかしまあ秋くらいにはしれっともとに戻ってそう。それが塚口。
 
 
 作中の名場面が楽しめるこちらのポスターも撮影。もうこのポスターを眺めているだけでこみ上げてくるものがあります。もうどの写真も名場面。この作品は名場面でできている。名場面の金太郎飴かよ。
 
 
 なんだよこの不審な空白は。
 塚口のファッションリーダー秋山殿がいずこかに姿をくらましていますが、きっと戻ってきてくれるでしょう。あぶない感じで。
 長い歴史のある塚口サンサン劇場ですが、間違いなくこの日が大きな境目となることでしょう。その歴史の一端を後世に残すためにも筆を走らせる次第です。
 というわけで今日の1本目はこれ!
 
 
 1週間限定の作品ばっかり見てるとロードショー公開の作品が後回しになってしまい、気がついたら終映日になってしまうもの。
 本作も1作目を見てからずいぶん間が空いてしまいましたが、今日ようやく見てきました。
 前作ラストで敵襲にあい海に沈んだと思われていたアルンモリ王子は謎の老婆に救われて生きていた! アルンモリ王子をはじめ、長兄アーディタや長女クンダヴァイ王女は密使デーヴァンからナンディニ王女による王朝転覆計画を聞き出します。
 計画を阻止すべく奔走する彼らのあいだには複雑な愛憎が渦巻いており……。
 前作もそうでしたが、本作もまた非常にスケールの大きな歴史絵巻となっています。そしてそのストーリーの重厚さを支えるのが壮麗な宮殿や雄大な大自然といったビジュアル。
 本作は前作よりも明らかに引きのショットで背景を大きく広く映すシーンが多かったように思います。特に印象的なのが川や海といった「水」のシーン。
 個人的にインドと言うとやはりガンジス川をはじめとする広大な川のイメージがあるんですが、本作の川や海はなんというか文字通り歴史の「流れ」といった感じで実に雄大。
 あと、本作は珍しく?と言うべきでしょうか、我々日本人には馴染み深い仏像やお寺の描写があったのが非常に新鮮でした。でも考えてみれば本場は向こうなんだよな。
 そして壮大な大河ロマンである本作の魅力といえば、複雑に絡み合った愛憎渦巻く登場人物たち。
 本作はたくさんの登場人物がさまざまな思惑をもってそれぞれの運命をたどっていきますが、その中でも特にクンダヴァイとナンディニがなんというか……とても「強い」。
 この「強い」はもちろん肉体的な強さではなくキャラクターとして強い。
 本作の主人公は誰かと言われれば、ある人はデーヴァンと言いまたある人はアルンモリと言うでしょう。公式的にはアルンモリになるのかな。
 しかし、こと存在感という点では上記のふたりが圧倒的だと思います。もうね、表情に込められている感情の分厚さたるや……。
 ふたりとも出自はともかくとして高貴かつ権力のある身分にいるのでそりゃあ人前、特に民衆の前では弱さや脆さを顔に出さないし出せないわけですが、それだけに内に秘めた感情が隠しきれなくなってるシーンが非常に印象的。それが明確に出るのが目なんですよね。
 かの名作「バーフバリ」のシヴァガミ様を例に出すまでもなく、インド映画の女性陣はどのキャラクターも目の力がすごい。だからこそ、その力が崩れてまるでひび割れた仮面の向こうから素顔が覗くかのような目の演技がすごいんですよね。わかりやすく絶叫したり泣いたりするのではなく、目だけであれだけの感情のゆらぎを表現できるというのが本当にすごいと思いました。本作でいちばん感動してインパクトを感じたのはストーリーよりもむしろこの点だったかも知れません。
 あと生臭坊主のナンビが実にいいキャラしててうっかりデーヴァンを食ってしまいそうなくらい魅力的でした。ああいうキャラとても好き。
 
 そして2本目。
 1年8ヶ月連続上映というギネス的な記録を打ち立てたこの作品も、ついにいったんの終わりの時を迎えることになりました。
 その有終の美を見届けるために、今日は平日で天気も悪い中たくさんのファンが詰めかけました。
 それはもちろんこの作品!
 
 
 なんかもうマサラ上映に慣れきってて、ナートゥで「あれ? 踊らなくてよかったっけ?」とか思ってしまいました。
 この作品ももう数え切れないくらい見てます。今日ここに集った方の中には鑑賞回数3桁の人もいるでしょう。
 わたくし人形使いも相当回数見ていますが、全然飽きないし面白さが減衰しない。むしろ見るたびに面白さが増していく……というか、なんでこの作品がこんなに面白いのかがだんだん分かってくると言うべきか。
 本作の面白さを担保する要素はいくつかあります。例えば「ストーリーに遅滞がないこと」。
 本作を鑑賞して、どこかのパートで退屈したという人はまずいないでしょう。なぜなら、本作は常に何らかの形でストーリーが進行しており、次から次にイベントが進んでいくから。「パートからパートへのリレーが着実に行われている」と表現すればいいでしょうか。
 パートのつながりがあまりにもスムーズすぎて意識しませんが、そもそも最初の3つのパート「STORY」「FIRE」「WATER」で物語の前提を示して最初のイベントである救出劇につなげてタイトルドーンの流れが完璧すぎる。「心をつかむシーン」であるのはもちろんのこと「心をつかみ続けるシーンが連続して作品を構築している」というのがわかります。
 それでdostiが終わってジェニーとアクタルの市場のシーンが終わったらすぐにナートゥ、ナートゥが終わったらラッチュ捕縛、ラッチュ捕縛からスコット邸襲撃、インターバルが終わったらラーマの回想……と、こうやって取り上げていくとわかるようにストーリーの緩急はあるのにダレないんですよねこの作品。どうなってんだ。この勢いがそれこそ最後のエッタラジェンダまでずーっと続くという……。
 本作がラーマとビームのつながりや絆を描いた作品であるように、シーンごとのつながりも非常に強く、なおかつスムーズ。そして劇的。
 個人的にこの「シーンごとのつながり」ですごいと思うのがタイトルからのdosti。救出劇のパートであれだけ盛り上げてるなら、普通はタイトルの後は落ち着いたパートになるはずなんですよ。しかし本作はそこからノータイムでさらにアクセルを踏むという。
 そしてこのdostiのシーンでは「救出劇を経てラーマとアクタルが信頼を深める」以外にも「ラーマは反逆者を見つける、アクタルはマッリを見つけるという目的が果たせずに焦っている」「ふたりの信頼関係にはいずれ決定的な破滅が訪れる」という要素が散りばめられているんですね。
 さらには終盤のバトルへの伏線であるみんな大好き肩車もここでやってるという。
 作品全体の尺から見れば短いシーンであるにも関わらずカラビ・ヤウ空間に折りたたまれてるの?ってくらいの情報量が突っ込まれてるのが改めて分かります。人間業じゃねーよこんなの。
 またシーンごとのつなぎ方が最高に上手くて好きなのがラーマのペンダントのシーン。ラッチュ拷問のシーンで振り上げたラーマの腕からペンダントが弾け飛ぶ→ペンダントを握りしめるラーマの手のアップ→すかさずペンダントを握りしめるシータの手のアップになるここの流れ最高に好き。例えるなら業物の日本刀でなんの抵抗もなく敵を唐竹割りにした感触がある。わかれ。
 さっきから書いている通り、改めて本作を見ると3時間という長尺であるにも関わらずシーンごとの流れが非常にスムーズで、なおかつ見せ場がわんこそば状態で次から次へと来るので、いわゆる「体感5分」になるわけです。今回も見てて、「あれ? ナートゥってこんなに早かったっけ?」って思いました。dostiが終わったらすぐナートゥって感じだった。
 本作は始まりから終わりまで本当に飽きない作品なんですよね。1ナノ秒たりとも観客をスクリーンから離さない。DVVからエッタラジェンダまでずーっと作品世界から心が離れません。
 そして今日の上映終了後の拍手がまたすごかった。わたくし今まで上映終了後の拍手には何度も遭遇してきましたが、今日の拍手は間違いなく最長かつ最大でした。そして客席から「ありがとーーーーー!!」「また帰ってきてーーーーーー!!」の絶叫が。RRR、愛されすぎ。多分ここで上映中に蓄積された紙吹雪撒きたいクラッカー鳴らしたいナートゥ踊りたい絶叫したいの欲求が爆発したものと見られます。なんかもうRRRはマサラ上映が通常上映という認識すらありますよね。
 まあ心配しなくても下手すりゃ今年中に帰ってきますって塚口だもの。
 というわけで、RRRとはひとまずのお別れです。しかし、王が凱旋するようにこの作品もまたいずれ凱旋してくれるでしょう。信じて待つのみよ。
 そして次は、というか明後日はK.G.Fでカラシニコフじゃい!
 
 
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塚口サンサン劇場「RRR」最後のマサラ上映見届けてきました!

2024-07-06 23:34:08 | 映画感想
 何事にも終わりは来るもの。
 それは、この作品も例外ではありません。
 1年8ヶ月ものあいだ異例のロングラン上映を行ってきたこの作品も、ついにいったんスクリーンから去る日が来ました。
 
 
 もうこのポスターからもこの作品がどれだけマサラ上映されてきたかわかるというもの。戸村支配人の前説によれば、実に12回ものマサラ上映を行ったとのこと。
 そしてその最後を飾る本日のマサラ上映は昼の部と夜の部の2回!
 昼夜マサラ上映は以前にも一度開催されており、わたくし人形使いは気合と根性で昼夜マサラ上映連続参加を果たしましたが、流石に今回は夜の部のチケットを取るだけで精一杯でした。
 恒例のチケット争奪戦の際は、過去の戦闘データから上映スケジュール画面ではなく上映カレンダー画面を出しておいてあとは日付が変わる1分前からひたすら祈りながらF5キー連打という形で応戦してます。
 しかし今回は予想通りというか当然というか、日付が変わった途端にページの更新が異様に重くなって大ピンチ。これはこのまま待つべきかいったんブラウザ閉じてからやり直すかそれとも、という判断を1ナノ秒の間に下した結果、火花を散らす脳が導き出したのはスマホで予約を取り直すという選択肢でした。
 これが勝敗の分かれ目でしたね。普段の予約なら別にどっちでもいいんですが、応援上映やマサラ上映の際には回線の速さを考えればやはりスマホよりPCという考えでPCを使っています。この辺は実際どうなんだろうな。
 実際の回線速度に差があるのか、はたまたタイミングだったのかはわかりませんが、スマホからの予約で無事夜の部のチケットを入手!
 塚口に行くのにいつも使っている阪急電車が最近なんだかやたらと人身事故が多いので早めに出発することに。
 そして家を出たらなんなんだこの暑さは。最近はすっかりヨレヨレの引きこもりと化しているのを差し引いても、この暑さはどう考えてもおかしい。洗濯物干すのにベランダに出ただけで汗だくになったぞ……。しかも家を出た後に財布を忘れて陽気なザサエさん。
 そんな感じで上映前どころか劇場に到着する前にすでに体力を消耗しつつも塚口に到着。
 消耗した体力をマサラではいつものカレーセットで補充します。
 
 
 もはや街の公民館と化した待合室では、これまた恒例のお土産交換会が。今回頂いたのはこんな感じ。
 
 
 いつも貴重な栄養源をありがとうございます。これらの栄養源は今まさにこのレポの原動力となっています。うめえうめえ。
 そしていよいよ入場開始。今回の上映前のスクリーンはこんな感じ。
 
 
 RRRのマサラ上映には何回も参加して何回も上映前のスクリーンを見てきましたが、今回のこの映像を見ているといよいよこの時が来たか……と感慨深い気持ちになりました。本当にこの時が来るなんて……。
 などといつまでも感慨に浸ってはいられません。上映時間が近づくにつれ、場内の人数が増えていくにつれ、場内の空気が人間界から魔界のそれに変わっていきます。
 さてわたくし人形使いは、通常上映でもマサラ上映でも基本的に劇場中心に近い席を取るようにしてますが、今回は前述の通り席を選んでいる余裕なんてなかったのでいつもならまず選ばないような位置になって新鮮な気分。
 そして同じくいつもなら対人コミュニケーション能力はアフリカナガバモウセンゴケ以下のわたくしですが、マサラ上映や応援上映では隣の席の人には挨拶するようにしてます。今回のお隣の方はかたや装備から見るに歴戦のマサラ戦士、かたや初RRR&初塚口だそう。こうして名前も知らない人と交流ができるのも塚口の良いところ、
 そして上映時間が近づいてきます。言うまでもなく塚口の応援上映やマサラ上映は戸村支配人の前説からスタートするわけですが、何回も応援上映やマサラ上映に参加してると気配でわかるんですよね、戸村支配人が出てくる瞬間が。
 拍手とともに振り返ればそこにいる、戸村支配人ことシネマイスター☆トムの登場だ!!
 毎回書いてますが戸村支配人の登場時の盛り上がりがすごすぎる。お隣の初塚口の方を横目で見ると驚きの表情でホクホクでした。そりゃあ驚くよな映画館来てこんな光景見たら。
 数々の作品で数々の前説を行ってきてもはや前説芸人と化している戸村支配人ですが、恒例のナートゥはマサラのたびにレベルアップしてて笑えます。今回は流石に昼の部からの疲労が残っていたようですが、そう遠くないRRR復活マサラ上映の際には本家もかくやのキレを見せてくれることでしょう。
 前説では恒例の注意事項とともに初RRR、初塚口のアンケート。これ好きなんですよね。ここで手を挙げた人にシアター中から拍手が贈られるのがいいですよね。なおこの拍手は「お前はもう逃げられない」の意である。チェスト塚口!
 そしていよいよ上映開始!
 いつも通り本編どころか予告の時点でシアター内のテンションは天井知らずに上がっていきます。特に今回は「K.G.F」と「サラール」の予告が連続で来るもんだから場内のテンションがえらいことに。予告の時点でこれだけ盛り上がる映画ってある?
 すでに本編クライマックスレベルの盛り上がりを見せるシアター4ですが、これまだ本編始まってないんですよね。にも関わらずシアター内はクラッカーの火薬臭と大量の紙吹雪で満たされています。そしてこのブログはこの時点で2000時越えてます。
 こんなペース配分で勢いは続くのかと思われる方もいるかも知れません。続くんだよなあこれが。
 スクリーン暗転からの「DVV」で「うおおおおおおおおお!!!」
 そこからの「S. S. Rajamouli」でさらに大きな「うおおおおおおおおお!!!」
 上映は始まってますがまだスクリーンには文字しか映ってない段階でこれですよ。そしてここからラストのエッタラジェンダまで場内の熱気は上がる一方です。エントロピーの法則? なにそれおいしいの?
 もうRRRのマサラ上映のレポでは毎回言ってますが毎回言うべきなので今回も言います。紙吹雪班の仕事が素晴らしい。
 本作は見せ場のシーンごとに明確に色が分かれているので紙吹雪班の業(わざ)が実に輝く。作品が紙吹雪を、紙吹雪が作品を引き立てる!
 「FIRE」「WATER」のタイトルはもちろんのこと、爆発や水しぶきに合わせて場内に紙吹雪が舞うさまはもうスクリーンの中なのか外なのかわからないくらい。圧巻だったのは、以前のレポでも書きましたが場内前方左右から赤と青の紙吹雪が吹き上がるところ。
 本作はセリフに頼らずにBGMや表情で語るタイプの作品なんですが、そこに紙吹雪という追加効果が入ることで作品がさらに雄弁になる!
 では今回のマサラ上映にてこの紙吹雪がもっとも効果を上げたのはどこかと問われれば、ノータイムで「コムラム・ビームのシーンだ」と答えます。
 あのシーンの、ビームが歌い出す直前の一瞬の静寂。もちろんその瞬間を狙いすましたのでしょう、スクリーンの中で風に乗って飛んでくる1枚の木の葉がそのまま増えたかのように舞い上がる緑色の紙吹雪の美しさよ……。
 今このレポを書きながらtwitter(頑なにXとは呼ばない)で今日のマサラ上映の感想をちょくちょく見ているんですが、やはりこのシーンに感動したという声が散見されます。ほんとに美しかったんだあのシーン……。
 あと紙吹雪が木の葉の形に切ってあるのを見逃さなかったぞ。塚口の紙吹雪班は
 これもまたマサラ上映のレポでたびたび書いていることですが、マサラ上映はみんなで歓声を上げたりクラッカーや鳴り物を鳴らしたりする「動」のイメージが強いですが、同じくらい「静」の魅力もあるわけです。
 もちろんクラッカーも素晴らしかった。歴戦のマサラ戦士にとってRRRは親の顔より見た映画。なのでどのタイミングでなにが起こるか完璧に把握しています。それにRRRのマサラもこれで12回目。中には皆勤賞の方もいるでしょう。なのでもはやクラッカー班にとって面識のない集団といきなりクラッカーのタイミングを合わせるなど当然の仕儀。
 そんなクラッカー班の力が最大限に発揮されていたのが終盤戦におけるエドワードの「撃ち方やめ!」の号令にも関わらず延々と撃ち続けるところでしょう。あそこすごくシリアスな場面なのに場内から笑い声が上がってて笑えました。
 この流れ、RRRのマサラ上映の中から自然発生的に生まれたんですよね。映画泥棒の着地でクラッカーと同じように、こういうお約束が生まれてくるのも塚口マサラの楽しいところ。
 そして歓声。
 以前はコロナのせいで無発生を余儀なくされていたRRRマサラですが、やはり声アリだと皆さん気合が違います。今回マサラに参加した人は軒並みデスヴォイスになってるんじゃなかろうか。
 本作には歓声がすごいポイントはそりゃあもう山ほどあるんですが、やはりナートゥの歓声は完全に映画館で出して良い声量を無視しててもはや笑えてくるレベル。
 あそこは当然手拍子やクラッカーと音がすごいシーンなんですが、ラストでラーマvsアクタルになったときの「ラーマ! ラーマ!」のラーマコールのすごかったこと。あそこ劇場揺れてたぞ。
 そして終盤戦、みんなだいすきラーマンビーマンのシーンで「ラーマン! ビーマン!」の大合唱。あそこたまらん。ラーマとビームのパートが混じり合ってひとつになるのと同じように、場内に集ったマサラ戦士の心もまた一つになるという。
 これだけ盛り上がってても最後の最後でさらに盛り上がるポイントが残っているのがこの作品のすごいところ。みんなだいすきエッタラジェンダの時間だオラァ!!
 ここの盛り上がりはもう言葉を尽くすのは無粋だとすら言えますね。前説の通り監督が全部持ってった。
 いやーもう楽しかった。twitterを見ると今回が初マサラあるいは久しぶりのマサラという方も多かったようで楽しんでもらえてなにより。いや別に自分はなんにも関与してないんですが。
 さて、これで1年8ヶ月もの間上映を続けてきた塚口RRRも、来週木曜11日の上映をもっていったん休止となります。しかし、休止ということは当然いずれ大復活のときが来るということ。というかわたくし半分くらいは来月に、遅くとも年内にしれっと復活すると思ってます。だって塚口ですよ?
 さて、これだけ大きなイベントが終わってもまだ大きなイベントがモリモリ残ってるのが塚口の怖いところ。次はK.G.F連続マサラ上映でお会いしましょう!
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塚口サンサン劇場「ソング・オブ・ザ・シー海のうた」「海獣の子供」見てきました!

2024-07-04 23:50:56 | 映画感想
 毎週木曜は滑り込みの日。
 というわけで今日は久々にアニメ作品を2本連続で見てきました。
 まず1本目はこれ!
 
 
 「ウルフウォーカー」のトム・ムーア監督による劇場長編アニメーション映画の第2作目。以前にも塚口で上映されてましたが、そのときはウルフウォーカーだけしか見てなかったので今回見ることに。
 本作は、地上では人間の姿、海ではアザラシの姿となる妖精セルキーの伝説を元にしたファンタジー作品。
 灯台のある離児島で暮らしている兄ベンと妹シアーシャ、そして父のコナーと大型犬のクー。母ブロナーはシアーシャの誕生と入れ替わるようにして姿を消しており、ベンはシアーシャに冷たく当たりがち。
 いっぽうシアーシャはなぜか生まれたときから声を発することができず、家族仲はぎくしゃくしていました。そんな折り、シアーシャはブロナーからもらった形見の巻き貝の笛の音に導かれるようにして自宅に隠してあった宝箱を発見。その中にしまってあった白いコートを着たシアーシャは、白いアザラシに姿を変えます。母ブロナーはセルキーであり、シアーシャはその血を濃く受け継いでいたのです。
 本作の魅力はたくさんありますが、まず何と言ってもビジュアルが優しい。まるで絵本のようなデザインで綴られる本作は、セルキー伝説をもとにしたストーリーと非常に親和性が高く幻想的な雰囲気を高めています。ウルフウォーカーでもそうでしたが、場面ごとの細やかな筆致の使い分けはどちらかというとマンガの技法に近いものを感じました。
 そして耳に残るBGMとヴォーカルソング。テーマ曲「Song of the Sea」のいかにも古くから歌い継がれてきたという雰囲気の曲調は、観客を一気に作中世界に引き込んでくれます。
 ストーリーは日本ではおなじみ?の異種婚姻譚が核となっていますが、本作ではベンとシアーシャの冒険に焦点が当てられています。その冒険の中で最初はシアーシャに冷たくしていたベンがだんだん「おにいちゃん」していく姿が微笑ましくて眩しくて穢れた大人としては目ェブッ潰れそうになりました。眩しすぎる……。あとお年寄りキャラが軒並みいいキャラしてたのがよかったですね。
 
 続けて2本めはこれ!
 
 
 公開当時は見てなかったんですが、こないだのボヘミアンのときに会ったフォロワーさんが激推してたので見に行くことに。
 そして例によって例のごとく、本作に関しての前情報はほぼゼロ。知ってることと言えば予告、ポスター、そして漫画が原作だということだけ。内容に関しては漠然と青春ファンタジー系の作品だろうなーと想像していました。
 主人公・琉花は活発だけど不器用で人間関係がうまくいかない中学生の女の子。せっかくの夏休みもトラブルで始まってしまいます。そんな夏の日、琉花はジュゴンに育てられたという不思議な男の子・海、そして海の兄である少年・空と出会います。三人の出会いがきっかけであるかのように、世界中の海ではさまざまな異変が起こるようになり……。
 本作は序盤こそ夏の日の思い出的な青春ファンタジー作品の雰囲気でしたが、話が進んでいくごとにだんだんストーリーの規模というか焦点が大きくなり……ってこれ完全にSFでワイドスクリーン・バロックじゃねーか!!
 まあ「海」というテーマ的にそっち方向に舵が切られるのは不思議ではありませんが、あの導入からこの方向とこの深度に話が進むとはまったくの予想外でした。
 琉花は海・空のふたりと関わりを深めていくとともに、この地球という惑星の成り立ちや移り変わり、海と空に秘められた記憶を追体験することになります。これらの壮大なイメージの本流は徹底して抽象的で幻惑的ですらありました。特に印象的だったのが、雨の中で琉花が自転車を走らせていると突如周囲に魚のイメージの奔流が巻き起こるというあのシーン。美しいシーンであるのと同時に、琉花がヒトならざるなにものかの世界に取り込まれつつある描写のようで恐ろしくもありました。
 というか本作のビジュアル、基本的に「美しく恐ろしい」そして「寓話的で示唆に満ちている」なんですよね。海はともかく空は明らかにこの世のものではない存在としてのビジュアルを持っていますし、「隕石」を口移しで琉花に飲み込ませるシーンは先に見た「ソング・オブ・ザ・シー海のうた」でもあった異種婚姻譚、ひいては妊娠・受精のメタファーですらある。
 後半にかけて怒涛の展開を見せる本作のあまりにもダイナミズムにあふれた海の描写は、ある種の畏怖すら感じました。そう、海は我々にとってもっとも近い宇宙なんだよな……。渦巻きは銀河の基本的構造なんだよな……。
 これだけ抽象的な方向に舵を切っておいて、その終着点は従来の他の夏休みを舞台にした作品と同じように「夏の終わりにちょっとだけ成長した少女」なのがまた異質。
 あれだけのことがあったのに世界は当たり前に夏の終わりを迎えているなか、琉花は確実に変わっている。もしかしたらあれだけのスペクタクルはすべて琉花のパーソナリティの中で起こったことなのかも知れません。さかしまに言うなら、琉花が「夏の終わりにちょっとだけ成長する」ということはそれだけで宇宙開闢にも匹敵するスペクタクルだということなのかも。
 果たして物語は波から凪へ移り変わって終わります。Cパートでは琉花には妹が生まれることで、ルカもまた受け継いだ側から血耐えていく側になったのではないかと思いました。
 今日は2作続けて海をテーマにした作品を見たせいか、海に行きたくなってきましたね。夏はコミケ以外に夏らしいことをろくにしてないので海か水族館に行くくらいはするかな……。
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塚口サンサン劇場「ボヘミアン・ラプソディ」応援上映行ってきました!

2024-06-29 23:47:44 | 映画感想
 7月8月は我々オタクにとってコミケ前の1年でもっとも余裕がない時期なんですが、塚口の上映スケジュールはなさけむよう。『夏コミ原稿を書く』『塚口に行く』「両方」やらなくっちゃあならないってのが「幹部」のつらいところだな。覚悟はいいか? オレはできてる。
 というわけで今日見てきたのはこの作品!
 
 
 何を隠そう、わたくし人形使いは今回が初ボヘミアン。
 もちろんクイーンやフレディ・マーキュリーのことは知っていますが、音楽というジャンル自体にそれほど造詣がないので見てなかったんですよね。
 しかし漏れ聞こえてくるこれまでの塚口ウェンブリーの感想、そしてなにより「まちの映画館」で取り上げられていた塚口ウェンブリーの様子を読み、これは行っておくべきだと心を決めて参加することに。
 ちなみにわたくしのクイーン及びフレディ・マーキュリーについての知識で最初に出てくるのは須藤真澄先生の「おさんぽ大王」における「フレディーッ フレディーッ エイズはもういいのーッ!?」だったりします。
 さて本作の感想なんですが、言うまでもなく書きたいことが多すぎて何から書いていいものやら。とりあえずいつも通り思いつくままに書いていきましょうかね。
 待合室の熱気はもう言うまでもないでしょう。インド映画のときとはまた違う客層が集まっていて、塚口には実にさまざまな人たちが集まってくるんだなあと改めて感じました。
 そしてお約束の上映前のスクリーンはこんな感じ。
 
 
 いつもの上映前画像に比べると簡素ですが、それがかえってこの後に巻き起こるであろう嵐を予感させます。というかもう嵐が巻き起こりつつある。空気感が完全に台風直撃の直前のそれ。塚口の応援上映やマサラ上映に参加された方にはわかるはずですこの空気。
 そして上映開始時間が迫りつつあるそのとき、スクリーンから響く「あの」リズム!
 客席の誰もが後ろを振り返る、その視線の先にいるのはもちろんあの男!
 フレディ・戸村・マーキュリーの登場だ!!
 革ジャンをまとってポーズをキメる戸村支配人が姿を表した途端そこは映画館ではなくライブ会場に! 今いるここはどこ? 魔界?
 もはや誰もが知る塚口サンサン劇場の名物となった戸村支配人の前説&マイクパフォーマンスですが、今回は特に気合が違います、というか降りてた。フレディが。
 今回は「塚口リアルタイムウェンブリー2024」。何がリアルタイムなのかと言うとタイミング。
 本作の……というかフレディとクイーンの最大最高の盛り上がりポイントである1985年7月13日にウェンブリー・スタジアムにて行われた史上最大のロックフェスと言われるイベント「ライブエイド」においてクイーンが登場した時刻である18時41分に実時間が合うように映画をスタートさせるという驚くべき試みなのです。
 「まちの映画館」の記述によれば、この時間から逆算すると映画をスタートさせるべき時刻は16時47分。当然、前説もそれに合わせて終えなくてはいけません。
 恒例の注意喚起と前説をしながらスタッフさんの合図をチェックする戸村支配人。いつも以上に注意が必要な中、絶対にやらなくてはいけない誰もが知るコール&レスポンス「エーーーーーーオ!」で場内は完全にウェンブリー・スタジアムに。
 そもそも映画、ひいてはイベント上映はいっときのあいだ現実を離れて非日常を楽しむものです。でも非日常にも限度ってものがあるだろ。あの瞬間、シアター4は映画館じゃないどころか日本でも2024年でもなかったぞ。
 そしてやはりというかなんというか時間が余って四苦八苦する戸村支配人に客席からは温かい拍手が向けられます。それも塚口。あれも塚口。みんな塚口。
 すでにクライマックスといった感じですがまだ映画始まってませんからねこれ。というわけでこれより映画本編スタート! The Show must go on!!
 
 
 前述の通りわたくし人形使いは本作は初見なので、映画自体の感想を交えながら今回の応援上映の感想を書いていきましょうかね。
 本作はフレディ・マーキュリー、出生名ファルーク・バルサラの生涯を再現した映画です。しかし本作はいわゆるライブ映像をまとめた映画ではなく、さりとて伝記映画というわけでもないしドキュメンタリーでもない。
 じゃあ本作はなに映画なの?問われれば、彼ら「クイーン」が世界を席巻したロックでもありオペラでもあり演劇的ですらある既存のジャンルに当てはまらない楽曲と同じように、既存のジャンルに当てはまらない「フレディ・マーキュリーの映画」としか言いようがないと感じました。wikiでは「伝記映画」と表記されてますが、本作はただ単に伝記映画というわけでもない気がする。
 わたくし人形使いは、前述の通りクイーンのディスコグラフィーやフレディの生涯について一般知識以上の情報は持ち合わせていませんでした。彼の本名が「ファルーク・バルサラ」ということも知らなかった。
 そんな状態で見た本作ですが、フレディの生涯とクイーンの成立について134分の上映時間内にわかりやすくまとめていて、改めてフレディ・マーキュリーという人物について知ることができたと思います。
 フレディに関しては、本作のタイトルにもなっている「ボヘミアン・ラプソディ」をはじめとする楽曲が世界的な人気となったことやゲイであったこと、そしてエイズが死因となって亡くなったことといった「点」の部分は知っていました。本作ではその点と点をつなぐ「線」の部分をよりはっきりと知ることができたと感じました。
 フレディ・マーキュリーくらいの有名人になると、その功績や作品の存在感が大きすぎて、その背後にあったエピソードが押しやられてしまうことがあるもの。しかし本作は、ドキュメンタリーではないということを考慮したうえでフレディ・マーキュリーというひとりの人間を知ることができたと思います。
 これだけの大成功を収めた有名人がしばしばそうであるように、彼も表面的なその栄光とは裏腹に常に孤独に苛まれていたと感じました。ペルシャ系移民という出自、セクシャリティ、メンバーとの対立……本作におけるフレディは、最後のイベントとなるライブエイドの時まで本当に満たされた瞬間ってなかったんじゃなかろうか。
 「ボヘミアン・ラプソディ」のブレイクによる大成功も、逆に彼を苦しめる結果となったようにすら思います。作中でスキャンダルを求める記者から心無い質問を次々と投げつけられるシーンの痛々しさよ。
 皆さん知っての通り、フレディはエイズによる肺炎で45歳という若さでこの世を去ります。調べてみたところ、フレディがエイズにいつ感染したかにはさまざまな意見があるらしく、「ライブエイドの2年後である1987年説」「1981年~1982年説」「1984年説」といった説がある様子。
 どれが真実なのかははっきりしませんが、本作ではフレディはライブ・エイド前にエイズ感染を知ったという展開になっています。もちろん当時はエイズに対する有効な治療法は確立されていません。自分の命が残り少ないことを悟ったフレディは、断絶していたブライアン・メイをはじめとするクイーンのメンバーにエイズ感染を告白し和解。もっとも有名な舞台となるライブエイドに臨みます。
 ここで、前回見た「サイラー・ナラシムハー・レッディ」の「生まれた意味を知るときは、死ぬ意味を悟るとき」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。
 確かに、45歳という若さでフレディほどの才能を持ったパフォーマーがこの世を去ったことは世界にとって非常に大きな損失だったでしょう。
 しかし、各自ソロ活動を始めてメンバー間の仲が険悪になっていたこのタイミングでフレディが己の命が長くないことを知ったことは天命であったと思うのです。己の命が長くないことを知ったからこそ、いわば「己の命」という絶対に覆せない締め切りを提示されたことで、彼は他のメンバーと和解することができたし、心理的な距離が空いていた家族とも愛を取り戻せたし、ライブエイドでの歴史に残るパフォーマンスを成し遂げられたのではないでしょうか。
 もっと言うなら、彼が45歳という若さでこの世を去ったのは、有名になったことでさまざまな苦しみを抱え込んだ彼を、(この言葉を使うのはいささか気が引けますが)神さまがこの世から救い上げてくれたのではないかと思わずにはいられないのです。何らかのジャンルや活動で成功するということは、必ずしも救済とはならない、という。
 そしてこれはwikiにあった記述なんですが「フレディの死が、クイーンの人気をさらに高めたともいわれている」というこの一文、やはりサイラーの「戦争は指導者の死で終わるが、この戦いは指導者の死によって始まる」という言葉を重ねずにはいられません。作中ではクイーンの楽曲の中でもっとも売れたとされている「ボヘミアン・ラプソディ」もあまりの斬新さと規格外さから最初から受け入れられていたわけではないんですよね。偉大な芸術家がしばしばそうであるように、フレディも死して後はじめて理解された……というか開放されたのかな、と感じました。
 これまたwiki情報ですが、フレディが生前最後に登場した映像作品は1991年5月に撮影された「輝ける日々」のミュージック・ビデオだそうですが、本作ではそこまで語られることはありませんでした。
 最高潮の盛り上がりを見せたライブエイドで物語は幕を閉じ、1991年の彼の死、エイズ患者支援基金「マーキュリー・フェニックス・トラスト」が設立されたことを告げるエンドロールが流れます。
 ライブエイドというフレディの最盛期で幕を閉じたこの物語には色々感じるところがありました。伝記映画であるにもかかわらず、彼の生涯を最初から最後まで描いているわけではないという点が、ことさらに彼の長いとは言えない人生のわずかな時間のあまりにも眩しい輝きを感じさせてくれたように思います。
 
 本作の感想を書くなら楽曲に関して言及しないわけにはいきません。作中では「We Will Rock You」をはじめとするクイーンの楽曲が用いられていますが、なにがすごいってどの曲もどこかで聞いたことがあるというのがすごい。
 前述の通りわたくし人形使いは音楽には疎く、クイーンやフレディの熱狂的なファンというわけでもありません。しかし、本作に登場するどの曲も、タイトルこそすぐに出てこなくても全部どこかで聞いたことがあるんですよね。これこそが「世界的に有名」「時代を超えて知られている」ということでしょう。「熱狂的なファンがいる」ではなく「特にファンでもない人でも知っている」という。
 特に「地獄へ道づれ」こと「Another One Bits The Dust」。曲自体ではなくあのリフが出た時点で体が勝手にリズムを刻んでいるという。文字通り体でクイーンというバンド、そしてフレディ・マーキュリーの人気というものを思い知らされました。
 改めてこうしてクイーンの歴史とともに楽曲を見ていくと、「斬新」とか「型破り」といった表現ではとても表しきれない楽曲とパフォーマンスだなあと思わされます。特に「ボヘミアン・ラプソディ」はさまざまな楽曲のエッセンスを取り混ぜた異様とも言える作品だと感じました。
 そしてこれに塚口の音響と「応援上映」というシチュエーションが加味されると、もはや「感じました」とか言ってる場合ではなくなるわけです。
 これまで塚口の応援上映やマサラ上映でたびたび書いていることですが大事なことなので何回でも書きます。塚口の応援上映やマサラ上映は唯一無二の「作品の一部になる」という体験ができます。これも「まちの映画館」で書かれていたことですが、体験を提供してくれるのが塚口の素晴らしくすごいところ。
 本来作品と客席はスクリーンという境界線で隔てられているものであり、普通ならこの境界線は決して超えられるものではありません。しかし何事にも例外はあるもの。
 その例外が発生するのが、前述のライブエイドでクイーンが登場する時刻である18時41分。今日この時劇場に集った誰もが、熱狂に身を任せながら頭のどこかでこの時が来るのを待ち構えていたことでしょう。
 そしてその時が来ます。ただし30秒遅れでしたがそこは芸のうちですよ。
 20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」が行われたのは1985年7月13日。場所は遠く離れたイギリス、ロンドン郊外ウェンブリー・スタジアム。今日は2024年6月29日。場所は日本、兵庫県尼崎市。
 ふたつの時代、ふたつの場所は大きく離れています。にも関わらず、いた。
 今日この日あの瞬間、我々は確かに1985年7月13日のウェンブリー・スタジアムにいた。
 スクリーンは境界線ではなく窓でした。この窓を通じて、2024年6月29日が1985年7月13日に、日本、兵庫県尼崎市がイギリス、ロンドン郊外ウェンブリー・スタジアムになってた。
 そこにいた。
 ライブエイドで拳を振り上げる無數の観客の中に、間違いなく自分がいた。生まれて間もなかったはずの自分があそこにいた。その頃はクイーンなんて知らないはずの自分が確かにそこにいた。
 そもそも映画というのはしばしば時間と空間を超えて作品を見る我々を宇宙の彼方や他の時代に連れて行ってくれるもの。その映画の魔力が塚口という場で増幅強化され、「あの時代のその時」に連れて行ってくれる。
 こんな体験ができる映画館が他にあるでしょうか。いやない。(反語)
 本作のクライマックスシーンであるライブエイドのあのシーン、スクリーンの向こうとこちら側がなんの隔たりもなくつながっていました。そしてみんなが一斉に歌う、歌う、歌う。
 しかしスクリーンの向こうとこちら側で決定的に異なる点がありました。それは、我々はこれから彼がたどる運命を知っていること。今この瞬間がどれほど華々しいものであっても、彼の命がこの後失われてしまうことを知っていること。
 だからこそ我々は声を限りに歌い、応援するのです。その声が1985年7月13日のあの日に届いていると信じて。
 
 初めての塚口ウェンブリー、完全に応援上映という枠組みを超えた体験でした。まさに塚口が理念とする「塚口でしかできない体験」でした。いやー素晴らしかった……。
 今回の応援上映で、塚口の空には大きな穴が空いたことでしょう。その穴から我々の声援が、天国のフレディに届いていることを願ってやみません。
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塚口サンサン劇場「サイラー・ナラシムハー・レッディ」見てきました!

2024-06-27 23:40:19 | 映画感想
 サイ! サイラー!
 というわけで今日見てきたのは、日本での上映権がもうすぐ切れてしまうというニュースが飛び込んできたその翌日に上映決定してくれたこの作品!
 
 
 さすが塚口。我らが塚口。上映権が切れるという話が飛び込んできたときから信じてましたよわたくしは。絶対やってくれると思ってた。
 twitter(頑なにXとは呼ばない)では喚起に湧く領民たちで溢れかえっており、改めてこの作品がどれだけ愛されているかということがわかるというもの。というかアヴク・ラージュ愛されすぎ。
 もうすでに複数回見ている領民の声が燎原の火のごとく広がっているのを見ると、この作品の上映権取得を公約に掲げれば即座に政界進出できると思います。
 さて、このブログを読んでいる人はおおむね特定の映画を複数回見るのが呼吸をするかのごとく当たり前の事になってる人ばかりだと思いますが、ここで改めて「同じ映画を複数回見ること」の意義を考えてみましょう。
 わたくし人形使いが思うに、それは「前回とは違った状態と視点で同じ作品を見られること」だと思います。
 一度作品を最後まで見たからこそ、さまざまな情報が入った状態で同じ作品を見ることができる。誤解されがちなことですが、いわゆる「新鮮な驚き」というのは初回視聴時だけにしか発生しないものではありません。むしろ、2回3回見ることによって初めて見えてくることも多いのです。
 しかるに本作を複数回視聴するということはつまりみんな大好きアヴク・ラージュが最後まで裏切らない清く正しいツンデレだということを前提として本作を楽しめるわけですよ。
 初回では例の裏切り者あぶり出しパートのところで「これは本当に裏切る流れかそれとも……!?」と手に汗握ってたわけですが、今回は最初の牛追い祭りの段階で「こんなことやってるけどこれって要するに気になる子にちょっかい出してしまうアレだよなまったくウチの領主様はしょうがないなあ」と後方腕組み領民ヅラ(twitter由来のワード)で余裕で見てました。というか今回は全体的にアヴク・ラージュのツンデレ具合を粘着質な視線で見てました。
 というかアヴク、「火よりもお前が心配だ」とか「我が王は最後まで裏切っていない」と後半はもうまったく臆面なくデレを発揮してるので分類的にはツンデレではなくクーデレなのでは? 有識者の意見求む。
 いやー本作、好きなシーンは山ほどあるんですが、やはりあの裏切り者あぶり出しシーンがいちばん好き。というかこのシーンのアヴクとゆかいな仲間たちがいちばん好き。ナラシムハーと家族を暗殺するイメージを先に出しておいて、実はその刺客たちはアヴクらとその配下によって返り討ちにされていた!という見せ方が実にニクい。
 でも、その前のアヴクの「奴を王にするために参戦したのではない」という言葉もまるっきりデタラメというわけでもなさそうなんだよな。その言葉を口に出して裏切りに加担したように見せかけたと同時に、自分のそういう思いを裏切り者ごと始末したのかも。本作にはしばしば「自分がやったことの責任を取る」というシーンがありますが、これもアヴクなりの責任の取り方だったように思えます。
 本作をこうして見直して思うのは、ナラシムハー自身はもちろん強大な戦士なんですが、それ以上に彼は冒頭で導師に授かった教え「自分の怒りをみなの怒りにする」の通り、大勢の人々をインド開放に向けての自由闘争に駆り立てていくという「思想の伝播」という点で非常に強いということ。
 本作は歴史上初めてインド独立のためにイギリスと戦った人物であるナラシムハー・レッディの物語であると同時に、彼の思いを受け取って伝えていった人々の歴史でもあると感じました。
 サイラーと別れる際に「お前の踊りの才能は民のためのものだ」と諭されたラクシュミがその言葉通りに踊りで各地にサイラーの戦いを伝え、その踊りでテルグの民がナラシムハーの元に集うという流れはそれを端的に表しています。そしてラクシュミはナラシムハーの婚約者であるシッダンマと出会い心を通わせる。
 ほかにも本作に現れる全ての人物、つまり点はすべてナラシムハーという線によって繋がれていると感じます。そしてその線は作中にあるように大きな海のうねりとなってインド開放という勝利に向かって突き進む。
 ラストでサイラーは処刑されながらも「戦争は指導者の死で終わるが、この戦いは指導者の死によって始まる」と称えられたとおりに、敵の手にかかりながらも死によって英雄として完成し、そして冒頭のラクシュミー・バーイーの時代にまで語り継がれている。それだけではなく、エンドロールではインド開放のために戦ってきた偉人たちがスクリーンに映し出されることで、ナラシムハーの戦いやその思いが時代を超えてたくさんの人々に受け継がれてきたということを改めて感じさせられました。
 死を前にしながらなお勇壮、かつてラクシュミに語った通り「生まれた意味を知るときは、死ぬ意味を悟るとき」の言葉通り死を以て英雄と成ったナラシムハーの物語、まさに圧巻。
 今日は最終上映ということで平日ですがかなり人が入っており、上映終了後……というか、エンドロール後のインド国旗に対して拍手が起こってました。しかも長い。応援上映やマサラ上映でもないのにこれだけの拍手が巻き起こったのは初めての経験かも。
 そして人身事故で電車が遅れてえらく遠回りして帰宅後twitterを見てみるとみんなアヴク・ラージュ大好きで笑ってしまいました。そりゃあみんな大好きだよな。
 惜しまれつつも上映終了となってしましましたが、塚口のことなので上映権をしれっと買い取ってマサラ上映してくれるに決まってるので安心して座して待つのみよ。
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TOHOシネマズ梅田「ザ・ウォッチャーズ」見てきました!

2024-06-24 21:14:08 | 映画感想
 梅雨入りで雨ばっかりで気が滅入る時期が続いてますが、こういうときも映画ですよ。
 というわけで今日見てきたのはこれ!
 
 
 予告で見て気になってたので見てみることに。M・ナイト・シャマラン監督の娘であるイシャナ・ナイト・シャマラン監督作品ということでもちょっと興味を引かれました。
 主人公・ミナは母親と死別し双子の姉とも断絶状態。そんな中、ミナは鳥かごに入った鳥を指定場所に届ける最中で謎の森に迷い込んでしまいます。車とスマホが故障し外部との連絡が絶たれた状態で森を彷徨うミナは、壁の一面がガラスになった怪しげな家を発見。その家には老女マデリン、若い女性キアラ、青年ダニエルの3人が。
 その家では、日が落ちると謎の存在がガラス越しに彼女らを観察するという日々が繰り返されていました。g日が暮れてから森に入ると殺されてしまうために脱出不能となったミナたちは、どうにかして謎の存在の正体を暴こうとするのですが……。
 うーん全体的にはまとまってましたがストロングポイントがあんまりなかった感じでしょうか。
 冒頭でミナが持っている「鳥かごの中の鳥」にミナ自身がなってしまうとういう二重構造、異常な環境下で観察されることで露呈する隠された過去など、一つ一つのシーンはうまく機能しているもののすごく目を引く部分が足りませんでした。
 展開も終盤まであまり意外性やビジュアル的なインパクトのあるシーンがなく、突拍子のない超展開はない代わりにサプライズもないというやや退屈な展開だったなあ。森の中の閉塞感やガラス越し壁越しになにか得体のしれないものがいるという不安感は良かったんですが。なんかシャマラン監督作品の感想も全体的にこんな感じだった気がする……。
 またクリーチャーデザインも凡百。あとこういう「姿を見せないクリーチャー」ってみんな示し合わせたみたいにクリック音出すのなんで?
 なので本作、全体的に「起こるべきことは起こるけど起こりそうにないことは起こらない」という印象でした。ラストパートまでは。
 本作が本当にやりたかったこと、言いたかったことって、明らかに命からがら森から脱出した以降のパートだと思います。
 そう、あのままだとミナは無事帰ってきたものの再び何も変わらない日常に埋没してしまうんですよね。
 しかしミナは、謎の家の地下で見つけた研究施設内で、この森と謎の存在を研究していたひとりの教授の残したメッセージを発見します。そして彼女はそのメッセージに従い、教授が遺した研究資料をすべて破棄するために大学へ。
 そこで彼女は、謎の存在の正体が人間の姿に成り代わる「チェンジリング」という妖精だということを知るのです。こういう作品の場合、謎の存在が与えてくる恐怖が重要でありその存在の正体が明白になることがない場合も多いもの。しかし本作は謎の存在の正体をSF的なものではなくまさかのファンタジー方向に振ってきました。ここが本作の最大のサプライズポイントでしょう。
 思えば謎の存在は他の人間の声音を騙ったり人間的な容姿を持っていたりすることが示唆されてたのをここで思い出しました。そしてここでお約束の「怪物から逃げ切ったと思ってたら着いてきてた」ですよ。
 ここで面白いのが、このチェンジリングが対話不能な怪物で火力で撃退というお約束の展開ではなく、対話で解決したという点。
 チェンジリングはさまざまな姿に化けた後、最終的にミナと同じ姿になります。ここでミナは一方的に観察する/される状態から初めて文字通り自分と向き合うわけですよ。
 このミナとチェンジリングが向き合う構図は、そのままかつて人間と友好的な関係を築いていながら排斥された妖精としてのチェンジリングと人間の構図でもあります。さらに言うなら、間に何もない状態で直接向き合う構図なんですよね。
 映画のシーンというのはメタファーなわけですが、このシーンのメタファーとしての機能は非常によかった。ここでのチェンジリングが語る妖精の悲劇の歴史はそのままミナが抱えるトラウマのメタファー。
 このシーンでミナは、押し隠していた自分自身と向き合い、自分自身の心を外側から「観察」することで心の底に隠していた「自分のせいで交通事故が起こり母が死んだ」というトラウマと向き合い、そしてそのトラウマと「和解」する」という……。
 対話を終えたチェンジリングが、すでに失ったはずの翼をもう一度広げて「あなたを信じる」という一言を遺して飛び去っていく姿はまさにトラウマとの和解と言えます。
 そしてラスト、今まで音信不通だった双子の姉とその子どもと楽しく笑っているミナ。その姿を遠くの窓から見守っているチェンジリング。このラストシーンには、タイトルの通りの「お前は見られている、その罪も」という意味に加えて「あなたを見守っている、いつでも」という意味も込められているように思いました。
 この感想書いてて思ったんですが本作は非常にもったいないんだよな。本作のキモは前述の通り森から脱出したあとに集約されているので、ストーリー的な面白さがボトムヘビーなんですよね。おそらく普段映画を見ている人ほどそこまでが退屈なんじゃないかな。でもそこを通してから見るラストパートはとてもいいんだよな……。実にもったいない……。
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塚口サンサン劇場「ZOO」見てきました!

2024-06-20 23:00:48 | 映画感想
 映画好きのみなさんなら、深夜放送の映画を見た経験があるでしょう。
 深夜放送の映画はいわゆるエンターテイメント系の映画とは異なってアート系のものも多く、深夜という時間帯もあってまるで異世界を覗き見ているような気分になったものです。
 塚口で上映される作品の中には、まさにそうした深夜放送の映画のような普段知ることのないものが多いもの。塚口はまさにそうした、今までまったく知らなかったような深夜放送の映画に突然出くわす楽しみが味わえる場所なのです。
 今日見てきたこの作品も、そんな作品のひとつ。
 
 
 本作は「ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティブ」と題して上映されている作品のひとつ。
 例によって例のごとく作品のことも監督の名前もなーんにも知らず、ポスターのビジュアルインパクトに心の妖怪アンテナが反応したので見てみることに。
 双子の動物学者オズワルドとオリヴァーは交通事故で同時に妻を亡くしてしまいます。彼らはそのショックから、動物の死骸が腐敗していく様子を観察することに偏執的なこだわりを見せるように。片足を失いながら事故から生き延びた女性アルバと二人は次第に親しくなっていくのですが……。
 本作でもっとも印象的だったのはもちろんそのビジュアルインパクトでしょう。本作は劇場では初となる無修正での上映となっており、動物の死骸が腐敗していくさまも隠すことなく映し出されます。しかし本作のビジュアルにおいてもっともインパクトを感じたのは、偏執的なまでに繰り返される左右対称の構図でしょう。
 ポスターで大きなインパクトを見せている全裸で椅子に腰掛けるオズワルドとオリヴァーはもちろんのこと、アルバを中心に左右に座るオズワルドとオリヴァーの構図は執拗に繰り返されます。普通の映画のように登場人物の顔に寄るショットはほとんどなく、なんらかの形で左右対称の要素を入れている。カメラのパンもほとんどなかったと思います。特にアルバ、オズワルド、オリヴァーの3者がいる部屋を映すときはほぼ必ず引いたショットで全員を映すことが徹底されていました。
 このように気味が悪いほど徹底したカメラアングルで、動物の生態や腐敗の過程を交えて映し出される本作のビジュアルは異様でありながら同時に均整と調和を感じさせます。
 まったくの偶然で昨日ちょうどアマプラで「岸辺露伴は動かない」の「ジャンケン小僧」の回を見てたんですが、その中に「3はもっとも安定した数字」という言葉が出てきたのを思い出しました。
 そして本作の作中では、「腐敗は対称性が崩壊するところから始まる」という言葉も出てくるわけですね。この言葉が象徴するように、本作は「交通事故で同時に妻を失う」という形でのオズワルドとオリヴァー対称性の崩壊からスタートし、アルバを巡ってその対称性が激しく変化し、最終的にお互いの死という形で対称性が安定すると思いきや……。
 この「対称性の安定と崩壊」に関しては、タイトルですでに暗示されているようにも思えます。タイトルは「ZOO」であり「OZO」ではない、という。
 正直なところ今の段階で本作に含まれている寓意や暗示をすべて取り上げることはとてもできません。ギリシャ神話になぞらえた寓意は確実にあるはずなんですが……。
 塚口ではこうしたいわゆるアート系の作品も多数上映されていますが、本作はその中でも久しぶりのがっつりアート系の作品でした。
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