7月8月は我々オタクにとってコミケ前の1年でもっとも余裕がない時期なんですが、塚口の上映スケジュールはなさけむよう。『夏コミ原稿を書く』『塚口に行く』「両方」やらなくっちゃあならないってのが「幹部」のつらいところだな。覚悟はいいか? オレはできてる。
というわけで今日見てきたのはこの作品!
何を隠そう、わたくし人形使いは今回が初ボヘミアン。
もちろんクイーンやフレディ・マーキュリーのことは知っていますが、音楽というジャンル自体にそれほど造詣がないので見てなかったんですよね。
しかし漏れ聞こえてくるこれまでの塚口ウェンブリーの感想、そしてなにより「まちの映画館」で取り上げられていた塚口ウェンブリーの様子を読み、これは行っておくべきだと心を決めて参加することに。
ちなみにわたくしのクイーン及びフレディ・マーキュリーについての知識で最初に出てくるのは須藤真澄先生の「おさんぽ大王」における「フレディーッ フレディーッ エイズはもういいのーッ!?」だったりします。
さて本作の感想なんですが、言うまでもなく書きたいことが多すぎて何から書いていいものやら。とりあえずいつも通り思いつくままに書いていきましょうかね。
待合室の熱気はもう言うまでもないでしょう。インド映画のときとはまた違う客層が集まっていて、塚口には実にさまざまな人たちが集まってくるんだなあと改めて感じました。
そしてお約束の上映前のスクリーンはこんな感じ。
いつもの上映前画像に比べると簡素ですが、それがかえってこの後に巻き起こるであろう嵐を予感させます。というかもう嵐が巻き起こりつつある。空気感が完全に台風直撃の直前のそれ。塚口の応援上映やマサラ上映に参加された方にはわかるはずですこの空気。
そして上映開始時間が迫りつつあるそのとき、スクリーンから響く「あの」リズム!
客席の誰もが後ろを振り返る、その視線の先にいるのはもちろんあの男!
フレディ・戸村・マーキュリーの登場だ!!
革ジャンをまとってポーズをキメる戸村支配人が姿を表した途端そこは映画館ではなくライブ会場に! 今いるここはどこ? 魔界?
もはや誰もが知る塚口サンサン劇場の名物となった戸村支配人の前説&マイクパフォーマンスですが、今回は特に気合が違います、というか降りてた。フレディが。
今回は「塚口リアルタイムウェンブリー2024」。何がリアルタイムなのかと言うとタイミング。
本作の……というかフレディとクイーンの最大最高の盛り上がりポイントである1985年7月13日にウェンブリー・スタジアムにて行われた史上最大のロックフェスと言われるイベント「ライブエイド」においてクイーンが登場した時刻である18時41分に実時間が合うように映画をスタートさせるという驚くべき試みなのです。
「まちの映画館」の記述によれば、この時間から逆算すると映画をスタートさせるべき時刻は16時47分。当然、前説もそれに合わせて終えなくてはいけません。
恒例の注意喚起と前説をしながらスタッフさんの合図をチェックする戸村支配人。いつも以上に注意が必要な中、絶対にやらなくてはいけない誰もが知るコール&レスポンス「エーーーーーーオ!」で場内は完全にウェンブリー・スタジアムに。
そもそも映画、ひいてはイベント上映はいっときのあいだ現実を離れて非日常を楽しむものです。でも非日常にも限度ってものがあるだろ。あの瞬間、シアター4は映画館じゃないどころか日本でも2024年でもなかったぞ。
そしてやはりというかなんというか時間が余って四苦八苦する戸村支配人に客席からは温かい拍手が向けられます。それも塚口。あれも塚口。みんな塚口。
すでにクライマックスといった感じですがまだ映画始まってませんからねこれ。というわけでこれより映画本編スタート! The Show must go on!!
前述の通りわたくし人形使いは本作は初見なので、映画自体の感想を交えながら今回の応援上映の感想を書いていきましょうかね。
本作はフレディ・マーキュリー、出生名ファルーク・バルサラの生涯を再現した映画です。しかし本作はいわゆるライブ映像をまとめた映画ではなく、さりとて伝記映画というわけでもないしドキュメンタリーでもない。
じゃあ本作はなに映画なの?問われれば、彼ら「クイーン」が世界を席巻したロックでもありオペラでもあり演劇的ですらある既存のジャンルに当てはまらない楽曲と同じように、既存のジャンルに当てはまらない「フレディ・マーキュリーの映画」としか言いようがないと感じました。wikiでは「伝記映画」と表記されてますが、本作はただ単に伝記映画というわけでもない気がする。
わたくし人形使いは、前述の通りクイーンのディスコグラフィーやフレディの生涯について一般知識以上の情報は持ち合わせていませんでした。彼の本名が「ファルーク・バルサラ」ということも知らなかった。
そんな状態で見た本作ですが、フレディの生涯とクイーンの成立について134分の上映時間内にわかりやすくまとめていて、改めてフレディ・マーキュリーという人物について知ることができたと思います。
フレディに関しては、本作のタイトルにもなっている「ボヘミアン・ラプソディ」をはじめとする楽曲が世界的な人気となったことやゲイであったこと、そしてエイズが死因となって亡くなったことといった「点」の部分は知っていました。本作ではその点と点をつなぐ「線」の部分をよりはっきりと知ることができたと感じました。
フレディ・マーキュリーくらいの有名人になると、その功績や作品の存在感が大きすぎて、その背後にあったエピソードが押しやられてしまうことがあるもの。しかし本作は、ドキュメンタリーではないということを考慮したうえでフレディ・マーキュリーというひとりの人間を知ることができたと思います。
これだけの大成功を収めた有名人がしばしばそうであるように、彼も表面的なその栄光とは裏腹に常に孤独に苛まれていたと感じました。ペルシャ系移民という出自、セクシャリティ、メンバーとの対立……本作におけるフレディは、最後のイベントとなるライブエイドの時まで本当に満たされた瞬間ってなかったんじゃなかろうか。
「ボヘミアン・ラプソディ」のブレイクによる大成功も、逆に彼を苦しめる結果となったようにすら思います。作中でスキャンダルを求める記者から心無い質問を次々と投げつけられるシーンの痛々しさよ。
皆さん知っての通り、フレディはエイズによる肺炎で45歳という若さでこの世を去ります。調べてみたところ、フレディがエイズにいつ感染したかにはさまざまな意見があるらしく、「ライブエイドの2年後である1987年説」「1981年~1982年説」「1984年説」といった説がある様子。
どれが真実なのかははっきりしませんが、本作ではフレディはライブ・エイド前にエイズ感染を知ったという展開になっています。もちろん当時はエイズに対する有効な治療法は確立されていません。自分の命が残り少ないことを悟ったフレディは、断絶していたブライアン・メイをはじめとするクイーンのメンバーにエイズ感染を告白し和解。もっとも有名な舞台となるライブエイドに臨みます。
ここで、前回見た「サイラー・ナラシムハー・レッディ」の「生まれた意味を知るときは、死ぬ意味を悟るとき」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。
確かに、45歳という若さでフレディほどの才能を持ったパフォーマーがこの世を去ったことは世界にとって非常に大きな損失だったでしょう。
しかし、各自ソロ活動を始めてメンバー間の仲が険悪になっていたこのタイミングでフレディが己の命が長くないことを知ったことは天命であったと思うのです。己の命が長くないことを知ったからこそ、いわば「己の命」という絶対に覆せない締め切りを提示されたことで、彼は他のメンバーと和解することができたし、心理的な距離が空いていた家族とも愛を取り戻せたし、ライブエイドでの歴史に残るパフォーマンスを成し遂げられたのではないでしょうか。
もっと言うなら、彼が45歳という若さでこの世を去ったのは、有名になったことでさまざまな苦しみを抱え込んだ彼を、(この言葉を使うのはいささか気が引けますが)神さまがこの世から救い上げてくれたのではないかと思わずにはいられないのです。何らかのジャンルや活動で成功するということは、必ずしも救済とはならない、という。
そしてこれはwikiにあった記述なんですが「フレディの死が、クイーンの人気をさらに高めたともいわれている」というこの一文、やはりサイラーの「戦争は指導者の死で終わるが、この戦いは指導者の死によって始まる」という言葉を重ねずにはいられません。作中ではクイーンの楽曲の中でもっとも売れたとされている「ボヘミアン・ラプソディ」もあまりの斬新さと規格外さから最初から受け入れられていたわけではないんですよね。偉大な芸術家がしばしばそうであるように、フレディも死して後はじめて理解された……というか開放されたのかな、と感じました。
これまたwiki情報ですが、フレディが生前最後に登場した映像作品は1991年5月に撮影された「輝ける日々」のミュージック・ビデオだそうですが、本作ではそこまで語られることはありませんでした。
最高潮の盛り上がりを見せたライブエイドで物語は幕を閉じ、1991年の彼の死、エイズ患者支援基金「マーキュリー・フェニックス・トラスト」が設立されたことを告げるエンドロールが流れます。
ライブエイドというフレディの最盛期で幕を閉じたこの物語には色々感じるところがありました。伝記映画であるにもかかわらず、彼の生涯を最初から最後まで描いているわけではないという点が、ことさらに彼の長いとは言えない人生のわずかな時間のあまりにも眩しい輝きを感じさせてくれたように思います。
本作の感想を書くなら楽曲に関して言及しないわけにはいきません。作中では「We Will Rock You」をはじめとするクイーンの楽曲が用いられていますが、なにがすごいってどの曲もどこかで聞いたことがあるというのがすごい。
前述の通りわたくし人形使いは音楽には疎く、クイーンやフレディの熱狂的なファンというわけでもありません。しかし、本作に登場するどの曲も、タイトルこそすぐに出てこなくても全部どこかで聞いたことがあるんですよね。これこそが「世界的に有名」「時代を超えて知られている」ということでしょう。「熱狂的なファンがいる」ではなく「特にファンでもない人でも知っている」という。
特に「地獄へ道づれ」こと「Another One Bits The Dust」。曲自体ではなくあのリフが出た時点で体が勝手にリズムを刻んでいるという。文字通り体でクイーンというバンド、そしてフレディ・マーキュリーの人気というものを思い知らされました。
改めてこうしてクイーンの歴史とともに楽曲を見ていくと、「斬新」とか「型破り」といった表現ではとても表しきれない楽曲とパフォーマンスだなあと思わされます。特に「ボヘミアン・ラプソディ」はさまざまな楽曲のエッセンスを取り混ぜた異様とも言える作品だと感じました。
そしてこれに塚口の音響と「応援上映」というシチュエーションが加味されると、もはや「感じました」とか言ってる場合ではなくなるわけです。
これまで塚口の応援上映やマサラ上映でたびたび書いていることですが大事なことなので何回でも書きます。塚口の応援上映やマサラ上映は唯一無二の「作品の一部になる」という体験ができます。これも「まちの映画館」で書かれていたことですが、体験を提供してくれるのが塚口の素晴らしくすごいところ。
本来作品と客席はスクリーンという境界線で隔てられているものであり、普通ならこの境界線は決して超えられるものではありません。しかし何事にも例外はあるもの。
その例外が発生するのが、前述のライブエイドでクイーンが登場する時刻である18時41分。今日この時劇場に集った誰もが、熱狂に身を任せながら頭のどこかでこの時が来るのを待ち構えていたことでしょう。
そしてその時が来ます。ただし30秒遅れでしたがそこは芸のうちですよ。
20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」が行われたのは1985年7月13日。場所は遠く離れたイギリス、ロンドン郊外ウェンブリー・スタジアム。今日は2024年6月29日。場所は日本、兵庫県尼崎市。
ふたつの時代、ふたつの場所は大きく離れています。にも関わらず、いた。
今日この日あの瞬間、我々は確かに1985年7月13日のウェンブリー・スタジアムにいた。
スクリーンは境界線ではなく窓でした。この窓を通じて、2024年6月29日が1985年7月13日に、日本、兵庫県尼崎市がイギリス、ロンドン郊外ウェンブリー・スタジアムになってた。
そこにいた。
ライブエイドで拳を振り上げる無數の観客の中に、間違いなく自分がいた。生まれて間もなかったはずの自分があそこにいた。その頃はクイーンなんて知らないはずの自分が確かにそこにいた。
そもそも映画というのはしばしば時間と空間を超えて作品を見る我々を宇宙の彼方や他の時代に連れて行ってくれるもの。その映画の魔力が塚口という場で増幅強化され、「あの時代のその時」に連れて行ってくれる。
こんな体験ができる映画館が他にあるでしょうか。いやない。(反語)
本作のクライマックスシーンであるライブエイドのあのシーン、スクリーンの向こうとこちら側がなんの隔たりもなくつながっていました。そしてみんなが一斉に歌う、歌う、歌う。
しかしスクリーンの向こうとこちら側で決定的に異なる点がありました。それは、我々はこれから彼がたどる運命を知っていること。今この瞬間がどれほど華々しいものであっても、彼の命がこの後失われてしまうことを知っていること。
だからこそ我々は声を限りに歌い、応援するのです。その声が1985年7月13日のあの日に届いていると信じて。
初めての塚口ウェンブリー、完全に応援上映という枠組みを超えた体験でした。まさに塚口が理念とする「塚口でしかできない体験」でした。いやー素晴らしかった……。
今回の応援上映で、塚口の空には大きな穴が空いたことでしょう。その穴から我々の声援が、天国のフレディに届いていることを願ってやみません。
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