というわけで、26日に配信されたbioshock infiniteのDLC「Burial at sea」です。
今回はプレイヤーキャラがブッカーからエリザベスに変わったことで、ゲーム性もまったくと言っていいほど別物に。
今まではばんばん敵を倒していくスタイルだったのが、今回は敵の目を盗みながらのスニーキングスタイル。
弾薬もそれほど豊富にはないので、慎重に進めていく必要があります。
そしてゲームとなる舞台も、ラプチャーとコロンビアが入り混じった感じのデザインで面白い。
まだまだ序盤ですが、もう序盤から引き込まれる引き込まれる。
このシリーズって基本的に「平和で明るい場所」はフラグなので、序盤の平和なパリの風景がすごく綺麗な反面いつこれが崩壊するかわかったものじゃないのでビクビクしながらプレイしてました。
ここからinfiniteの物語にどんな決着がつくのか楽しみです。
贈答SSひとつ完成したかと思いきやもうひとつ書かなくちゃいけないのが残っているという。
こちらの方は三題話で、もらったキーワードは「横断歩道」「桜色」「きのう」の3つ。
「きのう」をあえて漢字で指定しなかったのは意図的なものなんだろうか……。
これのせいで、「昨日」「帰納」「機能」「気嚢」などなどどれを使おうか迷ってるあいだにこんな時期に……。
今までは三題話のネタは比較的早く出てきてたんですが、今回は全然話が見えてきません。
大先輩を見習って魔法の白い粉でも吸引するかな……。
まあ焦らずに神様が脳に奇跡をぶち込んでくれるのを待つとしましょういあいあ。
あと、今日は居合の稽古だったんですが非常に嬉しいことがあったのでここに記しておきます。
僕が居合をする上でのプレッシャーの種というのは無数にあるんですが、その中で一番大きいものは、ずばり「居合をしてきた年月」です。
もう今年で居合を始めて16年目になるんですが、この年月っていうのが本当に大きなプレッシャーでして。
「10年以上続けている」ということは端から見れば結構すごいことなのかもしれませんが、「10年以上やっててこのザマかよ……」と落ち込んでしまうことのほうが多い。
それが今日の稽古にて、先生から「10年以上居合を続けているだけの位が業に出てきた」という予想外の賞賛を頂けました。
「居合を続けていること」を明確に他者に評価してもらえたのは、自己肯定も含めて16年間ではじめてのことでした。
ここ数年、先日の日記で述べていたような自己肯定がうまくできないせいか、他者からの褒め言葉に対しても素直に受け取れず、なおかつ他者からの賞賛や評価を得ても、そこから生じた嬉しさなどの自己肯定的感情はすぐに消えてなくなってしまいがちだったんですが、今回のは久しぶりに、ほんとうに久しぶりに素直に嬉しいと思えました。
昨日の日記で書いた言葉を使うなら、16年間の積み重ねがようやく芽を出したんだと思います。
ではこれからは、その芽を育てるべく血と汗と涙とその他もろもろのアレを供給してビオランテのごとき大輪の花を咲かせたいと思います。
頑張れ、俺!
まずは、またもや長文レスをくれたゲッターさんに感謝を。
今回もレスに変えて、思ったことをいろいろ書いていきたいと思います。
今回頂いたゲッターさんのレスで思い出したのが、ちょっと前に日記で取り上げたイメージトレーニングのこと。
イメージトレーニングのことで先生にお褒めの言葉を頂いたときにも話したことなんですが、僕は稽古というのは原則的に体を動かさなきゃいけないものだという考えがあったんですね。
妄想の中なら誰でも達人ぶれるじゃないか、という。
それプラス、最近忙しくてなかなか体を動かす稽古ができていなかったこともあって、先生から頂いた褒め言葉というのが嬉しい以前にかなり予想外でした。
しかし考え直してみれば、必ずしもイメージトレーニング<実際に体を動かすとは限らないわけで。
前述のとおり、確かに実際に体を動かさずに脳内のイメージだけならいくらでも自分が達人だと思い込めてしまうわけですが、実際に体を動かす稽古にも、とりあえず体を動かして汗をかいていれば有効な稽古をした気になってしまう、という落とし穴があるわけです。
大切なのは、「何をしたか」ではなく「どんな結果を導くことができたか」なんですよね。
たとえ「何もしない状態」があったとしても、それが結果へとまったく結びつかないとは限らない。従って、「何もしない状態」=「無駄」とは限らない。
確かに、結果や成果は今すぐにでも欲しいものですし、それに対しては可能な限りわかりやすいものであることを求めてしまいがちです。
しかし、そうした「わかりやすい結果」ばかりを求めてしまっては本道を得てして本道を見失ってしまうもので。
居合で言えば、試合で良い成績を収めることばかりを求めてしまっては、武道として正しい業を身につけることができない、という状態。
そうしたことにならないように、「本当に価値ある結果」が出るまで待つ、ということが必要だ、ということなんでしょう。
ちょっとズレるかもしれませんが、ここがゲッターさんの言うところの「手を加えない、自ら動かないという我慢」「醸成の時間」に当たる……のかな?
で、この「本当に価値ある結果が出るまで待つ」のに必要なのが、またゲッターさんの言葉を借りると「これが出来る自分」なんでしょう。
「あるいは、ここまで出来た自分」でもいいかも。
これがあれば、人事を尽くして天命を待つの言葉通り、「自分はここまでやり遂げたんだ、あとは芽が出るまで泰然と待とう」と結果が出るまでじっくり待つことができるんでしょう。
ところが今の自分にはこれが欠けている。自信がない。
自信、文字通り自分を信じるということですが、これを阻害しているのがインナーペアレント。
その正体は、「自己否定を強行する不合理な思考パターン」。
ゲッターさんのレスの中に、「評価というのは結果に付随するものだから、そもそも結果が出せなければ評価もしようがない」というものがありましたが、これは正しい思考パターンです。
「テストで80点以上取れたら合格」というのは別に不合理な考え方ではありませんよね。
では不合理な思考パターンたるインナーペアレントはどうなのかというと、上記の例では「80点以上取ること」は「合格するための条件」となっているのに対し、「85点とっても100点に達していないこと」を「自己否定の理由」として使用しているわけです。
つまり、インナーペアレントは「条件をクリアしているか」を判断しているわけではなく、とにかくあらゆる理由をこじつけて自己を否定しているんです。
インナーペアレントの目的は「とにかく自己否定すること」なので、上の例で行けばたとえ100点とっても「前回のテストで70点だったこと」を理由に自己否定してくる。
なので、「結果が出るのを待つこと」も、「今すぐ結果が出せていない」という自己否定の理由として使われてしまうんですね。
このインナーペアレントの「自己否定の理由のこじつけ」を回避する手段、言い換えればインナーペアレントから認められるための条件というのがかの呪わしい「完璧な自分」です。
この条件は達成不可能、だってそんなものはこの世のどこにも存在しないし、前述のとおりインナーペアレントの目的は自己否定なので、達成可能な条件をそもそも提示しない。
さらにインナーペアレントは自己否定の理由として、決して排除できないある事柄を常に提示しています。
それはずばり、「自分であること」。
自分がやったことが人に迷惑をかけたとか、立てた計画が失敗したとかではなく、「自分が起こした行動だから」「自分が立てた計画だから」という理由でインナーペアレントは自己否定を行い続けるわけです今この瞬間にも。
思いつくままにいろいろ書いてきましたが、結局のところ自分に必要なのは自己肯定だ、という結論にたどり着くわけです。
ただ昨日も書いたとおりこれは、誤解と失礼を承知で言いますが他者がなにを言ったところでできることではありません。
自己肯定を手に入れて自分を救うことができるのは、この世で自分だけです。どんなに親しい人間だろうが血が繋がっていようが、これができるのは自分だけ。
またゲッターさんの言葉をお借りしますが、この自己肯定を手に入れようとして「これが出来る自分(=やらなければならないこと)」を沢山持ちすぎてる」んだろうなー、とも考えます。
自分自身を肯定するための口実を必死になって探している、というか。
そもそも自己肯定するのに条件を設定してるってのがすでにおかしいんだよな。
この世には条件を満たさないと手に入らないものばかりですが、「自分でいること」くらいはいちいち理由なんて挙げずに無条件で認めてやっていいじゃんかよ、とは思います。
それをするのはとんでもなく難しいということは承知の上で。
えーまずは、3月25日の日記に予想外の長文レスをくれたゲッターさんに感謝を。
で、下さったレスを自分なりに解釈して色々と考えてみました。
その結果出てきたのが、「自分は、素の状態の自分を肯定することができていない」という答え。
つまり、社会的地位、技能、経験、その他諸々をとっぱらった、ありのままの自分というものを肯定できていないとではないかという答えが出てきました。
○○ができる、○○を持っているといったことでしか自分を評価できない、ただその場にいるだけの自分に対して価値を見いだせないということです。
何かをしている自分でないと自己肯定できない、だから「何かをやりたい」という欲求よりも「何かをしなくてはいけない」という義務感……を通り越して強迫観念gあ先行してしまう、そのよう状態に、自分はここ数年間あるのだと気づきました。
だから、自己肯定しようとしてとにかく「何もしていない時間」をなくそうとして様々なことをひたすら詰め込む、しかしそれはやりたいと思ってやっていることではないので楽しくない、満足いく結果として認識できない、という状態なのでしょう。
ここまでくるともうほとんど自殺だ。自己否定という名の自殺。
いや、やはりこれは「何ができるかという視点で自分を評価する」=「何もできない自分には一切の価値がない」というインナーペアレントによる殺害だ。
俺は自らの裡にある「今まで自分を評価してきた他者(要は脳内にいる親)」になすすべもな嬲り殺されているんだ。
ゲッターさんの言葉を借りて、ちょっと変えるなら、「何もしない時間」ならぬ、「何もしない自分」というものを、評価どころか肯定すらできていない。
だから、とにかく何かをしていないと自分を肯定できないから、とにかく空いた時間にひたすら何かを詰め込まないと不安で不安で仕方がない。
じゃあ他者からありのままの自分を肯定してもらえばいいかというとそんな単純なものじゃない。
自己肯定とはその名前のとおり、自分でしかてきないことだ。
他者からの肯定によっては自己肯定はできないんだよ、少なくとも俺は。
でもなあ、これがまた俺にとってはノーベル賞取るよりも難しいことなんだよ、自分を認めてあげるってことは。
もうすぐ終わるから。もうすぐ終わるから。
・幻想ロマンスホリデイ 遠野フォークロア(小豆粥)
冬コミで手に入れたものではないんですが、せっかくだからここで紹介。
地上最強の飯テロサークル小豆粥さんの新刊は、幻想ロマンスホリデイシリーズ。
このシリーズ好きなんだよな、一緒に旅してる気分になれて。
さて今回の舞台は、タイトルにもあるとおり日本有数の不思議ゾーン、遠野。
そして今回は、紫いわく「妖怪以上の大妖怪」、超大物ゲストが参戦!
このサークルさんの本はこういうゲストをさらっとほんとうに自然に入れてくるからすごい。
ほかの作品には決してない、独特の味があるんだよね、ここの作品は。
・苦笑邸のゲスト原稿総集編Shine!(苦笑邸)
数年前までずっと「くしょうてい」だと思い込んでたサークルさんのゲスト原稿総集編です。
もう表紙から既にひどい本の匂いがプンプンですが中身はそれ以上にひどい。
絵柄がかわいい系なのに、どのページをめくっても暴行流血脳症ブチまけ当たり前の惨状が繰り広げられています。
表紙めくって1ページ目が遺書の同人誌なんてこの地上にこれしか存在しない。
サブタレイニアンマンは今まで見てきた東方系クリーチャーの中でも最悪のデザインだと思う。
あとネタが異常に幅広く、ドラゴンボールから忍空まであらゆるネタが跋扈しておりそのさまはまさに百鬼夜行。
今日はここまで。
3月中には終わるはずです。多分。
さっきメールチェックしてたら第10回東方紅楼夢の申し込み開始の報が届いていたので、善は急げとばかりに速攻申し込みを済ませておきました。
さて今回の新刊は、twitterで思いついた阿求の話になる予定。
阿求をメインキャラに据えるのは初めてのことなので、どうなることやら。
今まで阿求で妄想したことってあんまりないんだよな……。
基本的に今まで書いてきた本は、それまでの知識や妄想を材料にしてきたんだけど、今回のはちょっと調べることがらが多くなりそう。
そういやそれ以前に夏コミ原稿を進めないといけないんですけどどっかでコピーロボット売ってませんかね。2000円くらいで。
なんかここ数年、書く力が衰えてる気がする。
どうにも自分が書いてるものが上っ面だけというか、気が入ってない感覚が抜けない。
小説に限らず、なんだかなんにしても「何かをするためのエネルギー」が枯渇してきてる気がするんだよなあ。
よく、昔の作品を読み返して恥ずかしー!っていうのがあるけど、昔の作品の方が明らかに出来が良く見える。
今書いてるのはどれもこれも、「とりあえず小説としての体裁を整えました」ってだけで中身がない感じがある。
明らかに昔の方が楽しんで書けてた。
なんというか今は、激しく○○がしたい!っていう動機付け、欲動が出てこない。
ポジティブなことだけじゃなくて、悩むとか落ち込むとかいうネガティブなことも深くできない無気力状態が恒常的に続いてる気がする。
娯楽にしても何にしても、なんだか「本気でやってる」って気がまるでしない。
大抵こういうのは一過性のものだけど、程度の差こそあれずっと続いてるんだよなこの感覚。
ひとつは「○○したい!」って欲動が、「○○すべき!」っていう義務感に完全に塗りつぶされてしまってるってのがある。
また、自分の中にしつこくこびりついているインナーペアレントが、あの手この手を尽くして365日休まず自己否定を繰り返しているってのもあるだろう。
自分のやってること、やろうとしていることが正しいと思えないのはそのせいだ。
だから物事を芯から楽しめないでいるんだろうな……と賢しげに語ったところでどうなるわけでもなく。
やっべぇもう3月終わってしまう。
・夜行遊女 捌式(しましまおぱんちゅ&teaminazuma)
なんつーか、読んでると次第に「禅」の境地が見えてくるような錯覚に襲われるコピー本です。
にくばなれさんの漫画はこれレイマリでいいのか?
相沢さんの秋屋コレクションはなんかこう、読んでて「アッハイ」ってなる。
……こんなんうまくレビューできねえよ俺。
・人の目に魚見えず(ちょこびゐる)
こちらも秘封のコピー本。
ナマズの民話を絡めたお話です。
こういう民話と秘封の相性は抜群だと思うので、もっといろんな土地の民話を書いて欲しいですね。
今日はここまで。
今月いっぱいで終わらせねば。
はい、それでは今週の進捗です。
今週はなんとかなりゅーさんへの贈答用SSを完成させることができました……誕生日はとっくの昔に過ぎてるんですが。
さらに別件の誕生日プレゼント三題話はまだネタが浮かんでいないという。
もうそろそろ夏コミ原稿の続きも書き始めないといけないのでもうどうしたもんやら。
……いや、書けばいいんだけどさ。
ライティングの仕事が増えて以来、文章を書く頻度は上がったものの、創作の方に割く時間が減ってしまってるので、なんとか時間配分をうまくしなくては。
素で日記書くの忘れてた……。
というわけで脳内反省会開始ッ!
えーまず今回は久しぶりに熊本の道場の方々とお会いできたので良かったです。
ほんとに数年ぶりにお会いした方もいるのでお話できてよかった。
日程的に熊本勢はさっさと帰らないといけないので、ゆっくりお話できなかったのが至極残念。
そしてもっと残念だったのが、稽古の成果を発揮できなかったこと。
自分でもわかるレベルで上半身に力が入った居合になってしまってて、満足いく業が抜けたとはとても言えませんでした。
久しぶりにお会いする熊本の道場の先生方に、立派な技を見せたいという欲が出たんだろうなあ……。
でもまあ、たくさんのアドバイスももらえたので、それを今後の稽古に生かして行こうと思います。