地方公設試験研究職を勤めあげ?、70歳ころまで溶接技能検定にタッチすることができました。間質性肺炎に悩まさる欲張りです。
ゆうゆう職場



小学生の頃に図書の本はほとんど読み上げたと言った妻は、私が漢字を得手勝手に読むことを度々笑ったもの。しつこい私は、例えば俳優の笠智衆さんをカサチ トモであるべきだっ と申しておりました。昨春に逝くまで、こんな私に飽きず よぉも一緒して呉れたものと感謝しております。

 のがれられない疾患;特発性の非特異性間質性肺炎についての”読み間違い”を2件あげる。原因不明をあらわす『特発性』と容態の悪化をあらわす『増悪』の2文字を、正しくトクハツとゾウアクと読めなかった。当然のようにトッパツとゾウオと発音していた。突発であり憎悪がそのとおりであるが、突発は特発と近く思う。ただし憎悪は増悪とは離れておりますな。しかし、私以外の方でも特発や増悪をママ読めるかは疑問です。つい、トッパツ・ゾウオ とでるのじゃないかな・・・


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病気のことを書くので、せめてもと今日の燕君を挙げておく。No.2が産卵に入りかけた様子。玄関口のNo.1は抱卵が長く続くので、もぉじき卵の殻をおとしてくれますかな


在宅の酸素と医療で近い先には被介護の身体となるから、相談したくケアマネージャのTさんに来訪いただいた。昨年の妻のケアではTさんにお世話になった。そこで介護の件とは別に、障碍者手帳の申請を勧められた。酸素に繋がれた身では妥当な申請に思えるのだが・・・実は簡単でなさそう
 昨年の4月と11月に酸素リハビリで短期入院した県総合医療センターで
指定難病認定の希望を伝えたのだが、主治医のG先生は困った笑顔で『〇さんの動脈血の酸素分圧を採血測定すると(入院中それぞれ1回)、通常の80~100torrに入ってしまうのですよ』とおっしゃった。人体に暗い金属屋崩れの私には、大気圧=760torrだから1/5量の酸素なら、大気の酸素分圧=150torrなことくらいしか分らん。血中ではナントカ鉄と結びつくから酸素分圧が半分ほどになるのかしらん???ま、それでも指定難病認定は数値的には困難なことが分かった。
 が、しかし である。指定を受けるには55torrを切らねばならんらしい。私の生活では簡単なパルスオキシメーターで測定するしかないが、入浴後には疲れ切ってしまうほどに酸素欠乏となるようで、お風呂からベッドに倒れ込んで測定すると70を切っている。4~5分で90台には戻る(1ヶ月も前なら3分もあれば十分に復帰していた)ものの、この間の苦しさを想うと、55torr以下の生活って棺桶の上で横たわっているのじゃないかいな・・・・
 難病は措くとして、障碍者認定を受けようと県の障害者認定医として指定されてあるごく近場の(田舎のことでありますが)M台クリニックのT先生を尋ねた。最近では軽トラで出向く気がしない程に億劫なからだとなり、嫁に連れて行ってもらった。残念なことに、動脈血酸素分圧の測定が不能だから、診断(見解)書が書けないとのこと。ただ、先生は首を傾げられる・・・酸素補給の時にならないのかなぁ と。そう、そうである。で、今朝までに調べ上げると、酸素補給だけでは✕なようで、酸素分圧を求められるようだ。
 エエィ、市の医療センターへ螺子込んでみようとしております♪

暗い病気記事ばかりだから、ソファで観た録画画面から。
ダイ ハードがヒットしたブルース ウィリスの『RED』で、モーガン フリーマンとは別にヘレン ミレンが出ていた。私は『ペイドバック』ごとき?で気になった女優さんで、デンチさん同様に気になります。もぅ読書と映画鑑賞?とがお友達になりそうですわ。





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月の上旬ころまでは朝も8時頃には、不承不承?であるが床を離れられた。
ところが先週頃から、9時過ぎになることがある。眠ったっ心地がない。疲れ一杯の身体をベッドから剥がすことが難儀である。3度ほどもある夜間頻尿と呼吸の不自由が睡眠不足をもたらすのだろうから諦める。が、健康体だったころの朝とともに病は去っておるとの期待ができない。というより、朝ごとに病の進度を痛感する。
 起床後の着替えが難儀で、洗面が辛さのあとを押す。もぉハァハァとソファに倒れ込む。酸素チューブを引き摺り玄関先へ新聞を取りに行ってはソファへ。TVを観ながら息を整える。なかなか朝飯の気分になれん程に食欲ゼロ。無理に腹を膨らませると10時頃になる(今朝は娘が座卓の朝のため9時過ぎに納めたが)。腹が膨れると、?理由が不明だが?呼吸が楽に感じる。横隔膜を隔てた内臓群と肺臓との場所取り合戦だろうか・・・・・16日に通院する呼吸クリニックさんで尋ねる。こちらのT先生は先月に開院、T総合病院にお勤めのころ何年も主治医先生でお世話いただいた。


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ブログのスタートは2004年10月で、曲がりなりにも20年はに続いておる。
同じように長い付き合いの間質性肺炎、最初に記したのが2006年8月。そこに記したとおり、2004年夏の定期健康診断時にはX線透過像がクリーンでなかったから、ブログ歴と病歴との期間はまるっと一致する。
 記したとおり胸部の精密検査を受けたのが鈴鹿市の中央病院、諸事情で近場の回生病院に10年以上はお世話になった。2009年の定年までには(時期を失念)主治医の立ち合いと施術で、三重大学付属病院で気管支内視鏡を差し込まれた。この結果『(繊維細胞優位な)非特異性間質性肺炎;NSIP』と確定されたのだが、今思い出しても検査は苦しかった。主治医=研修医か と大学病院との連絡ちがいか私の生来の不注意からだろうが、午後の検査に横着にも!職場から附属病院まで自家用車で向かった。咽頭部の奥(気管支までかな)までたっぷりと麻酔を振りかけられたから、検査後もフラフラ。主看護師さんに車で職場に戻ることを呆れ叱られた。やむを得ず、空き部屋で数時間?休養させていただき、夕刻に10km程の飲酒運転状態で職場へ帰還した。事故でも起こしたら、飲酒処罰になったのだろうか??
 それから10年近く零細米農家を続けながら第2職場に通った。その職場も終えて田圃と畑との完全田舎生活でのんびりしていた。しかし2020年になり、静かに進んでいた病が一歩踏み出したのを観たT主治医(Fさんの後任)さんにより、四日市市にある県医療センターへの紹介となった。改めて内視鏡の世話になるも泊まり検査だから麻酔を遠慮なく!使ったようで、楽な検査であったものの、妻が連れ帰ってくれた翌日は寝床で眠ったママ過ごすしかなかった。以後、G主治医さんのもとオフェブの服用を始めたりしたが、2021年秋頃までの1年間で中止となった。消化器へのアタックが薬効より大きかったのが原因。ま、治療薬でない抗繊維化の薬だから中止もしかたない。野良作業はできたものの、ゆっくりと、しかし確実に病気が進んだようで昨年から在宅酸素、今年からは在宅医療の身になりました。当然なことでボンベとともには野良作業は不能で、畑作はもちろん草刈り機での軽い作業もできなくなった。
 あのころは◎〇作業や▼山に登ったり、妻と◇温泉へ出かけたなぁ と過去と亡き賢妻を想うだけの生活になってしまった。先月末頃から、体感では日毎に病態悪化が進むようである。朝起きるのも億劫な身になり、洗面や着替えなど軽い動作の一挙手一投足にも息が続かない。すぐにソファに延びる。そしてTV画面を流して時間を潰してしまう。


 そんな先日、中日新聞になんと、2ページ繋ぎで間質性肺炎が採り上げられた。患者としては喜ぶべきか・・・?取材先が私も患者の会に入らせていただいた陶生病院のK先生であり、注意して読んだ。なお、前回のWEB会合では掲示された病態図でf(繊維化)タイプのNSIPの表現に工夫があるようで嬉しかった。以下に私の記事所感。

・入り口
 60代後半の男子、息切れ酷く入院・起き上がりも難儀なところ薬物療法で改 善あるも、進行により2年後に亡くなられたとのこと。ステロイドパルスなどの薬効で、一時的には改善されたのかな
・肺炎の説明
 間質性肺炎について一般的な説明がなされてある。ただ、『特発性』間質性肺炎の患者が最も多い と明記されている。これは知らなかった。そして間質性肺炎の20~50%を占めるのが厄介な『特発性肺線維症』と記されているのも初めて。ところで私の非特異性間質性肺炎も内視鏡検査で線維化細胞が優位であるから、今の症状は肺線維症と呼んでいいのでは と考えておる。しかし、呼吸器の先生は明答をくださらない。指定難病の繊維症の認定条件はよほど厳しいらしく、私の場合なら認定=すぐ昇天と思っております。
・療法
 ニンテンダニブ(オフェブ)やピレスバなど抗繊維薬の開発があったが、2~3年の進行延期が期待できるほどとのことで、私も1年間の服用で効能よりも消化器出血で止めたのは上記の通り。繊維化を抑えるでなく繊維化細胞を生じさせない治療薬が欲しいです。現状、60歳までの肺移植法しか治療法がないのはしかたない。
・締め
 最後に19年に特発性で余命3年とされた60歳女性がリハビリに励むこと、05年に余命数ヶ月と言われた現会長の記事があり、この肺炎の『厄介さ』がよくあらわれております。


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