地方公設試験研究職を勤めあげ?、70歳ころまで溶接技能検定にタッチすることができました。間質性肺炎に悩まさる欲張りです。
ゆうゆう職場



田圃のトラクター作業をするべきである。昨日は薄暗くなるまで(単に朝遅くのトラクター出動のため)田圃の秋耕。村のほとんどのお家の田圃は耕されておる。もっと早く乗り入れるべきであったのに、畑に夢中になったり、田圃ではヒツジ刈をして過ごしておる。おまけは、川沿いの1.4反歩に残った多年雑草「ホタルイ」を退治したく、一日近くラウンドアップを動噴散布する。
 そんなこんなで愚図愚図するも、天気予報は今日の雨(見事に外れ気味だが)。慌てての昨日の作業となった次第。遅くなった分を取り返そうとばかりに、ロータリー後部に培土(正しくは畝立て)作業器を付け、畝を作る。畝を立ててることで少しでも土の乾燥を好くしようとした。
 幸い、pm3:30頃に4枚の田圃を起こし、とりあえず帰宅。すぐに作業器を片培土用に替えて再度田圃へ。畔・土手周りの再外周に溝を掘り込み、さらに乾燥を狙う。5時をまわって暗くなっての帰宅。当然、ビールは旨かった。







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投票を済ませた朝、時折の小雨。今は小康、雨量は予報に従い昼過ぎからを期待しよう。降雨を望むのは畑の失敗を取り戻したいがため。雨水で肥料分の化学反応が進むのを待っているのである。
 エンドウやタマネギを作り始めるシーズンとなったので、牛糞マヤ置きからスタートしたのだが、勇みすぎたのかやらかしてしまった。粗耕耘後に、苦土石灰と間違えて化成肥料をたっぷりと散布して再耕耘してしまった。同じ粒状物であるが化成の粒径にバラツキが多いなど、区別しやすい物質である。容器に残っていても、摘まんで口にすれば無味な石灰と塩辛い化成肥料の区別は容易である。それなのに、あろうことか、化成肥料の袋から苦土石灰粒と思い込んで取り出し、2畝にも散布し終わってしまったのである。10日ほど前の事である。
 さすがにエンドウには悪いだろうと、翌日にはマヤ済の別畝を立てなおして苦土石灰を十分に散布した。一昨日には8-8-8化成肥料をパラッ と軽く散布してある。問題なのは広めにとってあるタマネギ畝である。

(ここまで記した今;10:40ころ 薄日が差してきた。娘によると午後から晴れ らしい・・・)

新エンドウ畝と同様、一昨日には10日前の化成肥料に重ねて苦土石灰を散布した。畑作指導書の逆順である。雨水が化成肥料と石灰の反応を促進してくれることを望んで散布した。その後に黒マルチして、エンドウ種とタマネギを植え付けの予定。しかし今朝の小雨では反応が進んでおるか心配。
 いや、正直なところを白状すれば、そもそも、何故に苦土石灰がアルカリ方向に働いてくれるのかができの悪い思い込みだけの理系には分からん。マグネシウム;苦土 を含む炭酸カルシウム主体の苦土石灰が、土中のどんな反応でアルカリ性を発揮できるのかしら・・・炭酸カルシウムって安定そのものに観てしまうのに。といいつつ、畑では苦土石灰を撒いております。 


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野良で甲斐の無い仕事をした。昨秋同様、穫り入れ後の田圃で草刈り機を振り回し、切り株から伸びる”ヒツジ”を刈り払った。10/17の半日くらい、10/24と26日の2hrほど一心不乱に!振り回す。まさに無我である。後退で刈り払うほうが遠心力を利用しやすく作業半径を大きくでき、前進と後退とを適宜繰り返したため所要時間は短かった。が、身体にこたえる。以前、整形外科で貰った貼り薬のお世話にになって床に就く。2枚目、右にM君が新しい大型トラクターで、ディスクローター作業した畝が写る。これならヒツジ草を気にせずドンドン田起こしができるのだろうなぁ~10/25の雨で湿ってしまった田面が乾いたら、私の通常ロータリー作業である。周りの田圃はほとんど秋耕耘が済んでおる。ヤレヤレ


 別の日(10/20ころ)、妻実家の6反余りの畑地をハンマナイフモアを押しながら草刈りする。雑草だけはよく伸びる。夏の頃にもN店レンタルのモア機で刈り取ったのに、一面の草わら・・・・(ただし、よほど気が無いのかなげやりなのか、記事が無い&改めてN店で高価なモア機を購入した記事もない=9月のはず)作物でも作ればよいのだが、とりあえずは草刈りとトラクター耕耘で草を抑えることだけですな。




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昨日の散策の疲れが気分良く、おまけに晴天の今日の昼前、3kmほど西方にある畜産団地へ牛糞堆肥を貰いに軽トラ出動する。ローダーで鋤いてくれるのは生っぽい牛糞マヤで、時節外れの土旁などで多量に必要な時にいただいておる。軽トラ荷台にコンパネをたてローダーバケット2杯分をたっぷりと載せていただく。今日ほしいのは牛糞マヤが熟れて堆肥化したもので、悪臭もない。醗酵臭にややアンモニアの匂いが混じったもので、畑に急いで施すことができる。しかも無料である。ただ、スコップで積まねばならない。ちょいと辛い作業だが、欲がドライブしてくれる。おかげで、植え付けと種まきが近くなったタマネギとエンドウの畝にたっぷりと堆肥を施すことができた。ヤレヤレ。



今日になったが、総代でバタバタした10/9神社祭礼の事もメモっておく。としたが、面倒なので写真だけを挙げる程度にする。ただ、本殿修理の棟板の裏には「担当総代 〇〇〇〇」と名前を入れていただいた。もったいなや・・・




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昨日の昼下がり、「この付近で行為をするには知事の許可が必要です」と土木事務所のちょいと立ち枯れた看板を目にした。思わずニッコリしてしまった。行為という文字はすぐに秘めやかな性行為に連結する我が脳。注意しましょう。
 近場の名所・石水渓の滋賀県へ通じる林道・安楽越え の散策をスタートして直後のことである。これまで何度も歩いた道なのに初めて見つけた。林道ごときの斜度にも安楽でない呼吸器の所為で、ゆっくりゆっくりと歩まざるを得ないゆえに、傾いた看板でも目に入ってきたのだろう。そう考えれば、これからはもっともっと愉しいような、ビックリするような物事を目にできるかも と気を取り直しておく。なお、一年以上も前なら引き返しに要した40分ほどで安楽峠にたどり着けたはずが1hrも要するような身になったのは、やはり、寂しい とするしかない。


 


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シカゴではありません。
ノーベル物理学賞を受賞された真鍋さま、喜ばしいことです。

が、マスコミ連が”日本人の受賞”、わけても居住地域の東海の>愛知の>名古屋の>名大招聘教授の・・・(と、啄木風に縮めてゆく)式に採り上げてゆくのが寂しい。名古屋大学あたりから北上して、岐阜山中の神岡グランデ、そして生家が富山の島津製作所フェローの田中氏に結び付けてゆく”ノーベル賞の道”もあったような?記憶。余計なことですが、ドクターでもなかった(と、記憶)田中氏の業績が嬉しいです。
 さて、私は素直になれない。氏が日本人であるのは間違いないとしても、ノーベル賞級のお仕事をなさったのは1958年に日本から米国に研究移住されてからのこと・1967年発表の論文が受賞対象と報道されている と思う。なるほど、氏の頭脳の中にオリジナルなモデルが構築されていたのだろうが、そのモデルをシェープアップして具現化するには当時の米国の科学技術が必要だったと思う。
 氏は日本でお生まれになり青年まで国内で過ごされたであろうが、ノーベル賞に結びついたお仕事は米国でなさった とすべきであろう。しかし、ノーベル財団の眼の付け所の好さに感服。物理学賞といえば遠い宇宙の最果ての出来事か、ひるがえって超微細空間での超微粒子のふるまいの解明が対象と思い込んでいたのを、あっさり覆してくだすったようで感心です。ボブ・ディラン以来ですね。

 


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10/3pmに和歌山市の紀の川にかかる水道橋(水管橋 というらしい)が落橋し、応急架橋工事を急いでも9日あたりまで市の北部6万戸の断水が続くと報道されている。復旧を急ぐとともに、原因の正しい究明を求めたい(理系として)。
 さてこの事故が記憶を揺する。紀の川(吉野川)での別の落橋を懐かしく思い出させる。50年と少し前に、大学生時代の友人・奈良県五條市のY君 のお宅に長期滞在中に吉野川に架かる橋が落橋した。ただ、万博や安保などなど騒がしい1970年頃のこと、まして青春真っただ中のこと、落橋自体を大きなことと記憶していない。どのように(自転車で)渡河したのか 定かでない。ただ、今回の事故と併せると、吉野川には落橋がつきものにみえてしまう。
 大阪万博の頃、工事中の中国縦貫道路に沿って万博会場のスイス館の緑色したイルミネーションが見通せた頃、大学紛争にも飽きて・負けて やけな生活を送ったころ、Y君が誘ってくれた。貧相な我が実家と異なり、ご両親が教員のご家庭・昔の地主階級のお宅故に、勝手気ままな滞在を許していただけた。あれやこれやは言うまい。赤面だらけの20代前半のこと。紀ノ川が思い出させてくれた。

年賀状もやめよう と言ってくれたY、元気だろうか


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