地方公設試験研究職を勤めあげ?、70歳ころまで溶接技能検定にタッチすることができました。間質性肺炎に悩まさる欲張りです。
ゆうゆう職場





迷走台風10号の影響で明日以降は田刈りが困難な状況。残り2マチ・4反5畝ほどの田圃を息子が一日中コンバインと格闘して、刈り上げてくれた。ロートルの私に出番はなく、軽トラで籾運びの軽作業だけ。ただし、以前にも書き込んだとおり、乾燥機容量は3反弱分の籾量しか受け付けない。乾燥機に張り込めない1.5反分はやむをえず小屋に広げておく。蒸れるのが怖いから扇風機を動かして明日午前中まで写真状況で放置する。乾燥中の籾は昼前には仕上がる(水分15%ほどに)から、ホッパーに揚げることができる。空になった乾燥機に、床に広げた籾を張り込む。この張り込み作業は人力頼りだから明日お昼頃は疲れるだろうなぁ~さ、寝ますか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





地蔵盆のために今日は休暇。盆行事は朝の幟建てとお地蔵さんの掃除くらいで、毎年6時→7時に終わる。今時期の休日なら、兼業の稲作刈り、あるいは臼摺。が、台風の影響か時折の雨でコンバイン刈り取りには×な日。臼摺にする。乾燥した籾を張り込んでおく小屋のホッパーが満杯状況(小型だから5反弱で一杯になってしまう)だから、次の刈り入れ乾燥のためにも臼摺をしてホッパーの籾を減容する日とする。
 機械を据え作業準備に昼近くまでかかる。近所にご迷惑をかけないようにと、乾燥機とは別に臼摺にもシャワー式集塵機?を据えたりしているから、臼摺作業にかかるまでが大変。昼飯前に試し摺りをしたが、仕上げ米=玄米 に籾が混じり気味で上手くない。一人ででも作業はできるのだが、動き始めると調整に手間をかけて居れない=考えるのが苦手。農機屋Nさんに電話で助けを求め調整に来ていただく。餅は餅屋、おかげさまで倍近くの速さで籾混入の少ない綺麗な仕上げ米を得ることができる。籾と仕上げ米とを餞別するための揺動板の使い方を理解していなかった と反省。
 写.2枚目では計量(30.5kg)終わった米袋がリフターで抱かえ易い位置まで揚げられている。ともに中古ながらNさんが入れてくれた臼摺り機とこのリフターで作業能率が大幅UP.調子にのれば、暗くなるまで臼摺できたはずだが、白い籾殻袋が足りない=籾殻を田圃で燃やすか、畑へ蒔くかして袋を空にしなければならん。満杯となったところで、37俵ほど刷り上げて作業終了。ところでこの籾殻袋にも不良品らしきものが混じっており、シーム部分がはちきれて籾殻が飛び出るモノあり。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






カレンダーでは出勤日だが、夏季電気休業日のJ社Nビルに間借りの当方も休日。昨日からの田圃コンバイン作業を続ける。妻と息子との三人作業だったのに、今日はお一人作業。軽トラでの籾運びだけだったのが、炎天下でのコンバイン操作もやらねばならん。
台風9号のため今日はてっきり雨=埃抑えにも好い 臼摺作業を予定していたのだが、コンバイン作業がはかどりそうな晴天。まず田面が乾ききっているのでコンバインの扱いが楽。乾燥した稲籾を脱穀でき、つづく籾乾燥機の灯油も少なくすむ・・・と欲にうごく。
 実は今日の雨を予測して(100%降るものと)、昨日の終了際に3反マチの一部を刈り獲っておいた。この部分では稲が倒伏しており雨に浸かると作業が大変で、籾も発酵の恐れがある。前部刈り獲るには我が家の乾燥機、3反マチ分のキャパに少し足りんのです。この残り部分と2枚目の2反マチを仕上げたのが、夕方4時30分頃(写真は12時30頃)。炎天と強風とでバテバテ。籾を張り込み乾燥機周りを整理したらやる気が無くなり、お風呂+ビールで妻の帰宅を待ちました
 3枚目は北方500mほどで進み始めたミニ団地の造成現場遠景。どうやらわが故郷の周りは団地だらけになりそうですわ。ところでYさんとこの里芋の葉っぱの立派なこと、私の畑のと比べると3倍強にみてしまう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






洗濯物を干している坊主頭に焼きつく日差し。今朝は風もなく、残暑と言うより夏本番の暑さ。畑で出る元気もなく、PCに向かってしまった。ただ、お盆をはさんで確実に秋が近くなった。8/10の夕刻、田圃状況を見ながらちょいと変わった雲を見る。一昨夜は布団のそばに蟋蟀が迷い込んでいる。昨日の出勤時の、建造中のサオリーナ。吉田さんのリオの夏、お疲れさま。そして今朝、日差しの下で転がっていた蝉。かすかに腹が動いていたので、軒下の陰に入れてやってパチリ。
 さぁ、太宰さんの奥様の失敗園と変わりない私の畑へでかけますか。田刈を始められた家もあるし、コンバイン作業も気になります。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






午後も遅くなって、山へ行く。登りたい と心から向かうのでなく、登れる身体で居るかをチェックしたいが本心。最近、同じNSIP診断をうけられたKさんのブログで、氏は根っからの山屋さんなのだが、山を諦める経緯と転院治療状況が書かれているのを見、こちらの心肺も気になっていたわけ。
 近くの入道ヶ岳に3時前着。ボチボチ登ってみようと、二本松尾根コースとする。暑さは別に、やはりしんどい。近いうちに酸素の助けが必要になるのかなぁ。疲れているのに、快眠できないのも心肺が弱っているのかしら。憂鬱な重い足取りでゆっくり進む。4:30頃頂上。今日は山の日のわけだが、下りの同年輩の男性にあったきりで、頂上ももぬけの殻状態。冠岳と御在所を望んで、とっとと帰る。登りでふぅふぅしたイヌツゲ群落の道も下りは気にならない。5:30には軽トラにたどり着く。娘が結婚式を挙げた椿神社をぬけて、近くの餅屋さんで草餅;ヨモギダンゴですな を求めようとするも、本日は完売 の立て看板が無情。仏さまに上げたかったのに。ところで今日の結論。やはりNSIPはジワジワ進行中ですな。近いうちに諸事踏ん切りが必要ですな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 

 午前、仕事でのR23号線で木造家屋の解体で生じたとおもわれる構造部材(当然木材)を積載したトラックの後ろとなった。暑い夏の空の下、この家(家々?)にどんな歴史があったのだろう。
 夕刻の帰路では金属製品を混載したトラックの後ろにつく。ごちゃごちゃと鬱陶しい。ただ、難治性のNSIPの私の身体もいずれ廃品同様になるのだろう。それが近づいたら、トラック(できれば午前のトラックのような)のようにどこかへ運んでくれる手段があるといいのだが。何処を希望しておるのでしょう。本当に勝手で、許してもらえそうにないが病院で拘束されるのは気が進まない。パワーが無くなりつつある昨今、ふと迷う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




サーベイランス・surveillance とでて、すぐに 監視。見張り。また、監視制度(goo辞典から)と分かる人がどれほど見えるだろう。今の仕事で発行手続きを行う日本**協会の技能免許制度では一年毎のサーベイが求められる。免許証にはその有効期限が記されているが、単に”有効期限”としてあるだけで、3年目前に義務付けられる継続更新の実技試験期限と紛らわしい。もっとも、サーベイを受けた回数は有効期限の日時の後に”1回継続”、”2回継続”戸は記されている。
 技能士本人あるいはご家族から電話がかかってくる。『ほれ、あの、サービス…』『サ、サルベージ?』と発音もままならない。無理もない と思う。なぜ延長審査(期限)と表現しないのだろう といつも継続して思う。強の朝刊に日本語の赤字化がすすんでいる とあった。外来語のカタカナ表現の取り込みが多く(輸入)、日本語が(海外で)用いられることが少ない輸入過多の状況、すなわち貿易赤字らしい。こまったことだ


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 

いい加減な借り方だから、市立図書館の本を読んでも今一つ気分が乗らない。堅い頭だから仕方がない。ただ先週借りたインタビュー集「あなたを選んでくれるもの」は久しぶりに好かった。著者は2005年カンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を受賞した1974年生まれの米国ミランダ・ジュライさん。返本しながら帰りがけの図書館で別の好い1冊を探したい。としながら今、職場でググったら著者メッセージ動画と出会え、返本をどうしようかとしておる。
 発展性に乏しい私は何年(何十年かな)もまえに気に入ってしまった=考えなくとも好い 本を枕元に置いて愉しむ。一時期は「街道をゆく」司馬遼太郎だったが、突然嫌になった。ここ数年は何度も読む「津軽」その横に「西郷隆盛の道」、そして娘が持って行ってしまっている=返せと催促せねば の「日本縦断旅日記」&「白川郷へ」。全部作者はアラン・ブースさん;1946年英国生まれ、1992年に永住権取得にもかかわらず翌年46歳で癌にて逝去。惜しい。柴田京子さんの訳とのマッチングが絶妙に思うのだが、もともとアランさんの日本語表現が好かったのかな・・・おかげさまで日本と日本人とを見直しております。以下に気に入った文章を。コピペでは失礼なので(今、職場でこっそり)「津軽」を読みながらテキスト手入力している。
なお、一緒にある本はもう一冊の夜のお伴。学生時代に無理して求めた、ガモフ(ウクライナ生まれの米国理論物理学者1904~1968年)全集のたった一冊No.6「1,2,3・・・無限大」。頭もないのに読んだつもりでも何にも糧になっていない。読み直せるかなぁ?もう一つ写ってあるのは賢妻のお勉強読本。

太宰の「津軽」をリュックの友として津軽を歩くアラン氏が暮れの雪の村落に居る。
テレビのクルーがナマハゲの密着取材を村民に申し込むものの、相手にされずに丁重にお引き取りを願わされたのに対して、アラン・ブース氏は『その顔、そのものが鬼じゃないか』との村民の賛意でナマハゲの一員に加えてもらう。さて・・・・(以下テキストママ入力)

~~ところがこの僕は、七軒の家の玄関に押し入り、七軒の家の七つの炉辺に腰を落ち着け、およそ百杯ものただ酒を飲ませてもらったのだ。その上に、正月が明けると村人たちを先導して、彼らの神霊に新年のあいさつをした。この話を聞いたら、おおかたの日本人はいうだろう。日本では外国人にかような親切と思いやりをもって接するのであり、自国の「文化」を部外者にわかってもらいたがっていることの好例であると。ぼくは、自分が外国人―部外者の骨頂―であることを疑わない。鬼どもだって部外者である。彼らは、湖をわたり、不毛の山からやってくるのだ。彼らは奇怪であり残虐非道だ。ひとを脅しものをぶち壊す。そしてぼくが受けたもてなしは、彼らに対するもてなしとまさしく同質だった。彼らは、一年三百六十五日のうちのたった一晩、この夜に限り、招じ入れられ、ちやほやされ―しょうがないとがまんしてもらえる。残りの三百六十四日は、近づかずにいてやるよ、と約束するわけだ。
 ぼくはビールを飲み終えた。太陽が顔を出していた。ぼくは、ぼくなりの訪問儀礼をおこなうために弘前(アラン氏によれば;ずいぶんと前にヒロセキィ~ との駅アナウンスに惹かれて下車し、その後の色々を経て、日本の中で一番気に入っている と)のほうがくへと、どかどか歩いて行った~~
 この書式で、すっきりと切り取ってくれてうれしい。また他に気に入った文を紹介します。あ、たしか「津軽」の中で恐山のイタコから『おまえは以前津軽で生まれたのじゃ』など言われ、書の終わりの方では『む すずむうぅん~ん が いぃ~』と氏には聞こえた(と記憶する)蜆貝売りの声が掲載されていて、好い余韻**帰宅後、「津軽」表紙をアップしよう


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )