崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「満映」を訪ねて

2009年09月17日 06時36分32秒 | エッセイ
 事前に東北映画製作所長宛に私は協力を求める願書を送ってokということで、約束通りに9時に満映の正門に着いたが。一般に公開はされておらず、資料などは新しい機関に移したので内部から誰かが迎えに来ないと入れないという。1時間ほど待っていたが退屈であり、失望感があり、責任もあり、ただ戸惑って立っていた。戦前の電車は私たちの前を頻繁に往来し、戦前の郵便ポストなどの写真を撮っていた。その時『満映―国策映画の諸相』の著者の胡昶氏(77歳)が現れた。曽根崎氏が彼から同著をもらったコピーを見せながら夫の名前を書き、互いに確認した。彼の案内で中国建国60周年記念看板の正門を抜け、旧本館に入った。
 二階に上がり甘粕理事長の事務室、彼が1945年8月20に飲毒自殺したところに入った。正門から真正面の二階にあたる所である。現在はコンピューターを4,5台置いて事務をしている。さらに進んで二階に曽根崎氏が当時事務をした事務室を探したが入ることはできなかった。その近くにはエレベーターが設置されている。主にフィルムなど機材を運搬したという。今では古い物になっており、その横にはフィルムケースを灰皿として置かれている。その横の階段を降りたら一台の車が通っていた。室内撮影所があり、看板を製作する人が2,3人いる。昔は中国の演劇などを撮影し、時々全職員が集まるところでもあり、甘粕氏が全職員に敗戦を告げたところでもあるという。四角形の建物の配置の中の庭に出た。建物に沿って松が聳えている。日本の飛行機や鉄砲などが展示されている。編集作業をしている女性の横にはフィルムケースが一杯積んである。これを見ようとしたがからっぽだという。その言葉を信用せずさらに話すと資料は新しくフィルムセンターを西安に作ったのでここにはないと言う。胡昶氏の話の続きをまた聞くことにして大スタジオの前を通って出た。康徳2年(1935)に建てた国務院(現吉林大学)なども調べた。同行者一行は疲れたが満足であったようである。写真の中央は胡氏、その右が曽根崎氏。