崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

壁時計

2009年09月26日 06時33分09秒 | エッセイ
昨日の本欄についてある人から自分の息子の中学生が靴を直した話をメールで送ってきた。息子が針と糸と布を使って自分でうまく修理したので本人も家族もみな喜んだ。母親が服を直しているのを見て、裁縫の技術を習得していたようであるとのことである。息子さんは時計職人になりたいと言っているという。家族生活の原点と思う。
 最近、時計などの修理店はほぼなくなった。電子時計の一般化とか、修理技術が追い付かないことからであろうか。それよりは使い捨て文化の浪費風潮からであろう。私ごとであるが、我が小さい農村の故郷の家では戦後一番早く掛鐘時計が壁にかけられて自慢の飾りでもあった。私はその時計のねじを巻くのが仕事の一つであった。鉛筆で印をつけて壁にまっすぐにして振り子がきちんと振るようにした。私は神秘的に感じその中を下から覗いてみたが歯車の動きが若干見えるだけであった。家にだれもいない時、そっと分解してみた。もとにもどそうとしたが、ねじが外れてしまって壁に掛けたが動かなくなった。ただの飾りか、機能を失って死んだ物になってしまった。問題は両親から叱れることを待つ私の心である。大事なものを壊してしまったこと、元に戻せなかった悔しさ、そしてどう謝ろうか、自分としては中を見たかっただけなのに。しかし意外にも叱られなかった。それは幼い私にとって不思議な謎であった。しかし、今では両親の私への教育の熱心さを考えると十分理解できる。時計よりも子供の教育を大切にしたのである。

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