崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

最終校正を終えて

2006年02月07日 18時59分38秒 | エッセイ
 ソウル大学名誉教授の李光奎氏と共著の『差別を生きる在日朝鮮人』、3月に発売予定の本の最終校正を終えてほっとしている。この本では被差別という惨めな点ばかりではなく、むしろ差別を利用したりそれを壁に使ったり、それを超えて生きる人々の姿を描いた。本書では在日の差別を扱ったのであるが、次は日本人のものを書きたい。
 日本の社会には意識的、また無意識的に差別やいじめがある。それが表現の様式の一つになっているのかもしれないが、韓国人の表現様式からは褒め殺し、噂殺しをしている卑怯な感じがする。それが差別と繋がるものも多い。

日朝国交正常化

2006年02月06日 06時19分59秒 | エッセイ
 北京で日朝正常化のための政府間協議が行われている。国家間には問題はいくらでも常にあるはずである。それを解決しなければ正常化しないといえるものはいかがなものか。正常化してから互いに問題を協議することが望ましい。国交正常化してアジア向け日本が広がること、特に裏日本が活性化してバランスが取れた国際化が早く実現できることを私は強くを望んでいる。

シベリア流刑

2006年02月03日 22時44分25秒 | エッセイ
 一昨年韓国語で『サハリン:流刑と棄民』という本を出した。多くの人が流刑によって罰されたが、それによって多くの人が悟ったのだ。寒い時にシベリア流刑を想像する。
 文淳太氏は小説『流配』で茶山が17年間の流刑を通して学問に大成功することが出来たと書いた。韓国では民主化運動をして服役をした人が大統領にもなるという伝統のようなものがある。正しいことを主張して刑を受けることは人をより成長させるのかもしれない。私はそのような勇気は無い。しかし今東京からもソウルからも遠い下関にて流刑の心でいろいろ悟とりたいと思っている。

右寄りとは

2006年02月02日 07時34分32秒 | エッセイ
 日本の新聞や雑誌には右と左があるという。ある雑誌は「右寄り」だとかある新聞は「左寄り」だとかいうことに私は違和感を感ずる。ある雑誌に載ったものは結論が決まっいるように思われるからだ。分野によって内容が異なることはあっても、価値判断の基準が左と右の思想として決まっているようなことは可笑しい。
 前原氏のような政治家は野党が与党に対して反対ばかりではない姿勢を見せている。しかしマスコミが右か左ということでは信頼性は損なうはずである。学問の世界は客観性が命であり、場合によっては自分で間違ったことを修正したりする人もいる。そして成果を失うことがあっても信頼性は保つのである。
 姉歯偽装やソウル大の嘘の研究報告などは嘘の極まりである。それは「砂上楼閣」である。

コリント人々への手紙:愛

2006年02月01日 08時11分47秒 | エッセイ
 「愛」は教えなくてもするものと思われた。しかし教えるべきだというのが新約聖書コリント人々への手紙13章パウロの手紙である。それは「我慢すべき」とか副次的なことばかり言っているようであるが、実は愛すると自然になるものを書いてある。ただ本当に「愛」するかが問題である。自分の子供や恋人は自然に愛するようで実は自分を愛するかもしれない。ある夫婦の喧嘩を見ながら愛が欠けていることを感じた。この聖書の箇所を一読する必要がある。