ある在日の方が訪ねてきて書店でいわば「嫌韓」類のコーナーが目立つことを心配する話をした。その人が帰った後、日韓親善会の役員が訪ねてきた。今の時期こそ真の「親善」の働きが必要だと談話をした。昨日は「嫌韓」と「親善」が交差する日でもあった。韓国のシャーマニズムの研究を通して私は『恨の人類学』を著したことがある。韓国人の好き、嫌いの感情の文化的な現象を分析したものである。特に韓国社会にある明暗の二面の中で暗い現象を分析した。たとえば悲しくて泣くのは人間の普遍現象ではあるが、声を出して泣く儀礼的な「哭」にまでなっている文化的な現象は日本とは異なっている。(『哭きの文化人類学』勉誠出版)。
韓国人は人から受けた嫌な感情「怨」を持って復讐する人を軽蔑する。私は子供の時から母から耳が痛いほどそんな人になってはいけないと言われた言葉でもある。喧嘩しても怨を胸に持たず和解する人になれと言われてきた。それは嫌な感情を払って、私の用語では「怨」を昇華し「恨」とすることである。韓国人は植民地を通して日本人が正直、勤勉、礼儀正しいと評価しながら、もっとも悪く評価されたのは日本人は「怨の匕首」をもって必ず復讐しようとする卑怯な(?)ことをするというである。基本的には個人と個人の好き嫌いは人間関係の基本である。その対人関係の基礎を教育すべきだと思っている。好き嫌いの感情は非常に個人的なものではあるが、社会生活の基礎であると言われているからである。今大きく報道されている「通り魔事件」は怨の欝憤を晴らすだけのことであろう。日本人の怨、韓国人の恨は日韓文化論の始まりである。
韓国人は人から受けた嫌な感情「怨」を持って復讐する人を軽蔑する。私は子供の時から母から耳が痛いほどそんな人になってはいけないと言われた言葉でもある。喧嘩しても怨を胸に持たず和解する人になれと言われてきた。それは嫌な感情を払って、私の用語では「怨」を昇華し「恨」とすることである。韓国人は植民地を通して日本人が正直、勤勉、礼儀正しいと評価しながら、もっとも悪く評価されたのは日本人は「怨の匕首」をもって必ず復讐しようとする卑怯な(?)ことをするというである。基本的には個人と個人の好き嫌いは人間関係の基本である。その対人関係の基礎を教育すべきだと思っている。好き嫌いの感情は非常に個人的なものではあるが、社会生活の基礎であると言われているからである。今大きく報道されている「通り魔事件」は怨の欝憤を晴らすだけのことであろう。日本人の怨、韓国人の恨は日韓文化論の始まりである。
先生の説明を聞いて、自分が個人的に感じるにはどちらかというと攻撃的な韓国人の方が「怨」であまり攻撃的ではない日本人の方が「恨」と感じます。日本人が「怨」だとすると、 昔の江戸時代のころの日本人は親の仇打ちで一生、復讐の旅をする武士なんかがいましたが、、、