先日本欄で触れた田倉7山尾信也氏(77)宅で「楽しい韓国文化論」の受講生8人が集まって昼食会を兼ねてタケノコを掘った。受講生たちの懐かしい笑顔、山尾氏の奥さんの心ずくしのおもてなし、5歳上のお兄さんの勇三氏も参加して楽しく、心温まる集いだった。彼のお兄さんは九州大学日本史学科を卒業して長い間高等学校の教員として真摯な教育者の雰囲気の人である。リタイアしてから寺史、大乗寺を5年かけて編集し、出版したものをいただいた。先祖代々の宅地であって、今はガーデンパーティ用の広場、そこのテーブルを囲んで彼の教育談を聞いた。手作りの焼きそばとタケノコ料理を始めメニュも多様、なにより多量であり豊富感、満腹した。日差しが強く、パラソルが立てられて場所を移しながら歓談が続き、終わりの挨拶をしようとする時ホスト達はビッグイベントが残っているという。古い井戸の中に冷やしてあるスイカ、超満腹の萬福で、数回重なる別れの挨拶は姿が見えないところまで、人情の極まりであった。
遠くから観る竹林は後山を背負っているように映っていた。真っ直ぐの竹たちの中には数本曲がったものが私の視線を引いた。竹も曲がるものか、何か暗示しているようであった。古くから植物の中の「四君子」といわれる「梅蘭菊竹」、その中で竹は「直」の美であるが、曲がった曲竹は別美と感じた。「直竹」は素直、ナイブな感、「曲竹」からは苦労と経験豊かさを感ずる。私は教育者、研究者一本の「直」であったようであるが、実は数多くの曲がったものではないか。竹には節目が多くあり、曲がることもある。人を直線で見て非難するより、曲線で「和」を作るべきであろう。
遠くから観る竹林は後山を背負っているように映っていた。真っ直ぐの竹たちの中には数本曲がったものが私の視線を引いた。竹も曲がるものか、何か暗示しているようであった。古くから植物の中の「四君子」といわれる「梅蘭菊竹」、その中で竹は「直」の美であるが、曲がった曲竹は別美と感じた。「直竹」は素直、ナイブな感、「曲竹」からは苦労と経験豊かさを感ずる。私は教育者、研究者一本の「直」であったようであるが、実は数多くの曲がったものではないか。竹には節目が多くあり、曲がることもある。人を直線で見て非難するより、曲線で「和」を作るべきであろう。
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