문필가 문명자씨가 어제 나의 꽃꽂이를 상찬하여 주어서 다시 여기에 언급한다. 과거를 돌아 보면 나는 꽃꽂이을 애써 배우고 닦은 것이 아니다. 꽃꽂이는 내가 일본에 유학하기 전 1960년대 말 나의 사무실 앞에 새로 생긴 꽃꽂이점을 엿본 기분으로 관심을 가지게 되었다. 그리고 무당 굿에서 지화, 그리고 장례용 지화장을 조사한 적이 있다. 그때 전라도 조사에 동행한 김태연교수는 일약 전문가로 유명하다.
그후 나는 일본에 와서 연구회 모임 합숙 때 산길에서 잡화를 꺾어 식탁에 꽂아 박수를 받은 것이 나의 취미의 시작이라 할 수 있다. 선생도 교과서도 없이 그냥 즐기게 되었다. 1999년 사할린 조선인들이 꽃장사로 부자가 되었다는 현장을 보고 조사를 하였다. 그 무렵 한국 화훼디자인학회 초청강연을 맡게 되었다. 그것을 주선한 사람은 바로 김태연교수었다. 나는 일본의 집구조에서 도코노마라는 꽃꽂이 공간이 있다는 것과 전국적인 모임 등을 소개하였다. 그런데 나의 특별강연에 그 학회 원로라는 여성이 불쾌하게 <한국을 모른다>고 꾸짖고 <공부를 더하라>는 모욕적인 평을 하였다. 그것이 반일이었다라는 것을 나중에 알게 되었다. 아내 동료 제자들이 함께 듣고 크게 망신당한 것을 잊을 수 없다. 그러나 나는 여전히 꽃을 즐기고 있다.
「私の生け花」東洋経済日報2014.6.13寄稿文
2014年06月17日 04時38分20秒 | 旅行
私は子供の時から遊戯が下手で外へ出ないで家にこもりがちで親などは心配し、女の子のようだといわれ恥辱(?)を感じたことも多かった。ソウルに転学してからは部屋で読書などをする時間がより多くなった。そんな私には趣味がないと思っていた。いわば男性の趣味といえばゴルフとか登山とかスポーツ系のものや、将棋、囲碁などであり、よく話題になるものである。私の趣味は生け花である。
韓国では男性は生け花などには手をつけるものではないという固い社会慣習がある。それでも私は生け花に関心を持つようになっていた。1960年代末、私が務めた事務室の前にあった「金貞順生け花教室」を覗いてみることがあって、しばしば自習して趣味とした。このことが女性文化への侵入か、男女別のある枠を犯しているかのようにも感じないこともなかったがやはり好きだった。
留学してから日本で生け花が盛んであることを知った。ある日韓国からの留学生たちの研究会が山奥の施設で行われ、私も参加し、朝の散歩道で草花を切って朝の食堂のテーブルを飾って拍手を受けた時、私の趣味は生け花だと宣言してしまった。生け花の美しさや楽しさを女性だけの世界にしておくのは、男性にとって「もったいない」感がする。それは幸せに関するものであるからである。男性も花を生け、生け花を鑑賞しながら幸せを積極的に共有すべきであると思う。
人間には花を美しく感じてきた長い歴史がある。屏風には花鳥が描かれたものが多い。花を描き、歌い、詩を吟味するなどの歴史を踏まえているから花が美の対象として視野に入る。しかし花はただの「屏風の中の花」ではない。その中身は食べた味や香りなどが含まれた懐かしさもある。今私が懐かしく思うアカシアの花は韓国では日本植民地の「悪カシア」といわれたが、私にとってはあくまでも「花は花である」。
ロシアの花屋を思い出す。そこでは24時間開店している。零下30度の冬でも花屋では深夜でも売っている。深夜でも恋人と会い、訪ねる時花は必須のものであるからである。日本でも都会では花売り自動販売機もあるが、我が家の周りでは急に花が必要になっても時間帯によっては入手が難しい。以前、前日に花を購入できず、教会の庭に咲いている赤いバラと名前も知らない薄茶色の葉、そしてソテツの葉、金柑の枝を切ってきて生け、意外に満足、評判を得た。
朝の散歩に剪定鋏を持って行き、枝や雑草を観察し、切って持ってきて生けるのは楽しい。私には生け花の免許はない我流である。日本の花流でいえば池の坊に近い。称賛されなくともよい。我が家には年中一本も花がないという時はないと言える。お客さんからは家内の技といわれることがあるが、私が生けたと言うと意外な表情をする。大学の学長から時々大学の行事に演壇を飾る生け花を依頼されることがある。喜んで主にキャンパスに咲いている花を使って季節感を出すようにしている。
그후 나는 일본에 와서 연구회 모임 합숙 때 산길에서 잡화를 꺾어 식탁에 꽂아 박수를 받은 것이 나의 취미의 시작이라 할 수 있다. 선생도 교과서도 없이 그냥 즐기게 되었다. 1999년 사할린 조선인들이 꽃장사로 부자가 되었다는 현장을 보고 조사를 하였다. 그 무렵 한국 화훼디자인학회 초청강연을 맡게 되었다. 그것을 주선한 사람은 바로 김태연교수었다. 나는 일본의 집구조에서 도코노마라는 꽃꽂이 공간이 있다는 것과 전국적인 모임 등을 소개하였다. 그런데 나의 특별강연에 그 학회 원로라는 여성이 불쾌하게 <한국을 모른다>고 꾸짖고 <공부를 더하라>는 모욕적인 평을 하였다. 그것이 반일이었다라는 것을 나중에 알게 되었다. 아내 동료 제자들이 함께 듣고 크게 망신당한 것을 잊을 수 없다. 그러나 나는 여전히 꽃을 즐기고 있다.
「私の生け花」東洋経済日報2014.6.13寄稿文
2014年06月17日 04時38分20秒 | 旅行
私は子供の時から遊戯が下手で外へ出ないで家にこもりがちで親などは心配し、女の子のようだといわれ恥辱(?)を感じたことも多かった。ソウルに転学してからは部屋で読書などをする時間がより多くなった。そんな私には趣味がないと思っていた。いわば男性の趣味といえばゴルフとか登山とかスポーツ系のものや、将棋、囲碁などであり、よく話題になるものである。私の趣味は生け花である。
韓国では男性は生け花などには手をつけるものではないという固い社会慣習がある。それでも私は生け花に関心を持つようになっていた。1960年代末、私が務めた事務室の前にあった「金貞順生け花教室」を覗いてみることがあって、しばしば自習して趣味とした。このことが女性文化への侵入か、男女別のある枠を犯しているかのようにも感じないこともなかったがやはり好きだった。
留学してから日本で生け花が盛んであることを知った。ある日韓国からの留学生たちの研究会が山奥の施設で行われ、私も参加し、朝の散歩道で草花を切って朝の食堂のテーブルを飾って拍手を受けた時、私の趣味は生け花だと宣言してしまった。生け花の美しさや楽しさを女性だけの世界にしておくのは、男性にとって「もったいない」感がする。それは幸せに関するものであるからである。男性も花を生け、生け花を鑑賞しながら幸せを積極的に共有すべきであると思う。
人間には花を美しく感じてきた長い歴史がある。屏風には花鳥が描かれたものが多い。花を描き、歌い、詩を吟味するなどの歴史を踏まえているから花が美の対象として視野に入る。しかし花はただの「屏風の中の花」ではない。その中身は食べた味や香りなどが含まれた懐かしさもある。今私が懐かしく思うアカシアの花は韓国では日本植民地の「悪カシア」といわれたが、私にとってはあくまでも「花は花である」。
ロシアの花屋を思い出す。そこでは24時間開店している。零下30度の冬でも花屋では深夜でも売っている。深夜でも恋人と会い、訪ねる時花は必須のものであるからである。日本でも都会では花売り自動販売機もあるが、我が家の周りでは急に花が必要になっても時間帯によっては入手が難しい。以前、前日に花を購入できず、教会の庭に咲いている赤いバラと名前も知らない薄茶色の葉、そしてソテツの葉、金柑の枝を切ってきて生け、意外に満足、評判を得た。
朝の散歩に剪定鋏を持って行き、枝や雑草を観察し、切って持ってきて生けるのは楽しい。私には生け花の免許はない我流である。日本の花流でいえば池の坊に近い。称賛されなくともよい。我が家には年中一本も花がないという時はないと言える。お客さんからは家内の技といわれることがあるが、私が生けたと言うと意外な表情をする。大学の学長から時々大学の行事に演壇を飾る生け花を依頼されることがある。喜んで主にキャンパスに咲いている花を使って季節感を出すようにしている。