崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

東洋経済日報に寄稿文

2018年10月16日 05時50分23秒 | 旅行

 東洋経済日報 固定コラム 連載 2018.10.12 「私の戸籍について」

崔吉城
 留学時代に民団で事務をした時の思い出がある。在日の戸籍を多く見たが明確ではないことを知った。私は巫人たちの婚姻関係などを調査した時も多くの誤記を見つけたことがあり、在日の戸籍に別に異様な感じはなかった。ただ朝鮮戦争の記憶で自分の記憶と関連して私自身の正確な年を知るために戸籍を探してみて、新しく考え直した。それに関しては新著『米軍慰安婦の真実』(ハート出版、二〇一八)に詳しく書いた。
私は戦前に生まれた。生年月日は確かではない。私は何歳か、自問してみる。私の名前と誕生日が正確ではない。旧戸籍には名前が「乙成」、五男となって国民学校では乙成で呼ばれた覚えがある。学校では戸籍によって登録されたので乙成で四年生まで通用した。名前や誕生日は誤記されたまま通用したのである。
その戸籍は戦災で焼失した。戸籍に私の父は一八九九年、母は檀紀四弐九(一八九八年)生まれ、父は母より一歳下、一〇歳で結婚した。父は三人兄弟の次男で兄弟が子供たちを残して死亡したので父は兄の三人の男の子と弟の子供男女二人を養育し、戸籍上、従兄養子となっていて、その理由は記されず実子になっている。生存者の姉は死亡届け、他の亡くなった姉の婚姻届けが記され、母の死亡届は届いていない。
私の母は名前がない。名前を呼ばれることはなかった。その世代では珍しくはない。日常生活では名前がなくても不便ではなかった。死後に位牌を書く時に初めて死亡届けを出すために戸籍謄本を見た。「黄氏」とだけ書いてあった。普通は本貫というものがあるはずなのにそれもない。母親は四〇才を越え、私を生んだ。一一人の末息子として生まれたのに戸籍上では五男になっていた。檀紀四二七一年(一九三八年)八月一〇日(旧暦)に生まれたと記されている。
 戦争中ソウルに転学する時、家で呼ばれた自己申告で「吉成」として届けた。中学校へ進学も出来た。中学校二、三年の時だと思うが、面事務所から本籍の戸籍が戦争で焼けてしまったので新しく作るので申告せよという公文が来た。私は良い機会だと思って一新して名前を作ることを決心した。乙成は実名ではなかったし、吉成を生かして「成」を「城」の字にした。なかなかしゃれた名前だと思って、一人で決めて届けた。しかしその後、門中と親族から「成」の字は親族の「行列」であり、「城」は親族関係世代を表すものではないと言われた。さらに母親が占い師に名前を占って見てもらったら死ぬ悪運だと言い、変えるように強く言われた。しかし私は固守した。母には人は皆死ぬ運であるか ら大丈夫であると説得した。
 戸籍上からみて私は名前と生年月日が不正確である。私の時代ではそれほど異様なことではない。私が調査した村では高齢者の女性が大統領から記念品を貰っていた。私がインタビューして彼女はある人の後妻であるが、戸籍上本妻の名前で生きていることを知った。世界的に見ると驚くことでもない。