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往還日誌(47)





■7時起床。8時から六本木の仕事に入る。11時半に終了させて午後に帰山。

のぞみ20号の中で、『思想』22年11月号の斎藤幸平「ルカーチの物質代謝論と人新世の一元論批判」を集中的に読む。すんなり納得できる。ルカーチの『社会的存在の存在論』の翻訳をしているのだから、当然なのだが、ルカーチの議論の見晴らしのいい道を一本描いてもらったように感じている。

ルカーチの正しい解釈とそのアクチュアリティの理解が、重要であることは論を俟たないが、問題はその先で、自分の社会哲学にどう活かすかが問われる。私の印象では、知識社会学の形態を取るのが、自然な気はする。マルクスは近代の典型的な思考として経済学を取り上げて、これを、ある意味で、知識社会学的に分析したとも言える。斎藤さんの議論からわかるのは、数学や物理学などの自然を対象にした自然科学も、自然との物質代謝によって条件づけられると同時に、社会関係によっても条件づけられている。「同一性と非同一性の同一性」という文脈で分析しないと、数学や物理学のこの二重性が浮かび上がらず、その「歴史性」が秘匿されたままとなる。これは、自然科学批判として重要な仕事になるし、それは、自然科学と社会科学という「非連続性の連続性」を組み込んだ新しい学への道を拓くだろう。

斎藤さんの問題意識が自然的存在と社会的存在の「同一性と非同一性の同一性」にあるから、話は自然認識を担う自然科学的認識に向かうのはよく理解できる。私が思うに、ポストモダンの思考の代表例である、社会学こそ、マルクスやルカーチの言う意味での、「知識社会学的な分析」にかける意義が今あるのではないか、ということである。これによって、我々が生きているポストモダン社会を根底から批判的に理解できるはずだからだ。

帰りの電車というのは、なかなか、読書に最適で、大宮までの高崎線で三橋敏雄の句を読む。敏雄の句として、ほとんど話題にならないが、「高ぞらの誰もさはらぬ春の枝」(『畳の上』)は名句だと思う。

「高ぞら」という措辞はなかなか出てこない措辞であり、「春の枝」の周囲の色彩がかった空気感とよく響き合っている。そして「誰もさはらぬ」が、この「春の枝」を特別なものへと昇華している。

5月の往還は、たいへん、大きな意味があった。京都のバプテスト眼科クリニックで徹底的に検査して、気持ちの整理がついた。そもそも、検査というのは、人間が関与する以上、いい加減な部分を含むものであり、それであるから、多角的に一つの問題を検査するのが、まっとうな医院である。医院を替えてみるというのは、このいい加減さを縮減することにつながる。この検査で新しい知見を得ることができた。

レシートを調べてみると、肉の「岡田商会」に3回も行っている。ミンチかつとコロッケを買うためである。3回食べて、やはり揚げたてが一番旨いことを確認した。

大阪の阪急三番街B2Fの「しのぶ庵」のにしん蕎麦が大変美味だった。にしん蕎麦は京都が本場や、と友人たちに言われながらも、こういうことはよくあることを経験的に知っていたので、頼んでみたのである。つまり、「周辺に本質が残る」ということが、である。阪急は京都から見れば周辺部、ボーダーであるが、見事に、にしん蕎麦の本質を残していた(ちょっと誉めすぎか)。蕎麦は福井県産。

今、京都の食は、にしん蕎麦のような伝統食から「肉」へと大きく切り替わってきている。肉の消費量が京都は日本一となっている。とくに牛肉の人気が高い。もともと、すき焼きなどの発祥地であり、牛の人気が根強い土地でもある。

無駄な食品は京都では買わない、との方針から、お菓子の類を一切買っていなかった。そうすると、息が詰まってくる。お菓子というのは、馬鹿にできず、一種の「遊び」なので、これが手元にあるだけで、心が遊ぶのである。出町の「よしや」で「切り出しカステラ」(203円)が店頭にあったので、何気なく買って食べてみて、驚いた。非常に美味だった。当地で食べる切り出しカステラとは質が違う。たしか、滋賀県のメーカーだった。お米もそうだが、滋賀は、食のレベルが高いのではないかと、ひそかに思っている。




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一日一句(2969)







あかあかと乱世となりぬ夏の月






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