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往還日誌(49)

(写真)御茶の水駅にて





■毎日多忙で、ライフワークの一つにしているジェルジ・ルカーチの『社会的存在の存在論』の翻訳原稿が、今回はできなかった。残念である。次回はリベンジしたい。

もう一つのライフワークである詩の方は、進展している。実質的な第2詩集(通算で第4詩集になるが前2作は習作)の編集を終え、あとは、出版社に原稿を送る段階となった。タイトルで難航したが、気取らず、そのままのものとした。詩人は、ひとりだけで詩を書いているというイメージは根本的に間違っており、他者や事物、トポス、自然との深い出会いが詩を書かせていると言える。

土曜日は、『ルカーチの存在論』31周年のキックオフ集会。京都とZOOMで結んで、国際金融論のT教授にご講演をお願いした。Tさんは、マイケル・ハドソンのように、マルクス主義者でありつつ、現実の国際金融理論に精通しているので、非常に有意義な時間となった。経済学の強力さを改めて実感している。とりわけ、米国の国際政治力の源泉の一つ、ドル基軸通貨制度に代わる提案を、ケインズから、ロバート・トリフィンまで、指摘されたことは、興味深く、必ずしも、この提案はすべて実現されていないものの、逆に、この実現を阻んできた諸力が何のか(米国に決まっているが。イラク戦争の原因はドルからユーロに石油の決済通貨を替えたことだという指摘さえある)、また、どのように、それを阻んできたのか、興味を持った。

ケインズの系譜は、新自由主義とイコールのニュー・ケインジアン・エコノミクスではなく、ポスト・ケインジアン・エコノミクスに、注目してみたい。ただ、ポスト・ケインジアンの中には、たとえば、『ゆたかな社会』で有名なJohn Kenneth Galbraithの子息の、James K. Garbraithのように、詐欺の一種であるMMTを高く評価する人もいるので、慎重な吟味が必要だろう。

ケインズは、知識社会学的に見ても、興味深い人物で、社会科学的知識の実践性を、その学問的営為の特徴として持っている。しかも、その知識は、すでに制度化され自明化されているがゆえに、その実践性が不可視化されているという特徴がある。この点は、ニコ・シュテール教授が常々強調している点である。

このところ、元気が出ないときには、ローザ・ルクセンブルクの『獄中からの手紙』の一節を味読している。

「あなたもご存じのように、わたしはこの身がどのように成り行こうと、そのたびに自分はどうしてもこうならずにはいられなかったのだというふうに、きわめて明るい気持ちであっさりと受け流すことができるのです」(『同書』p.69)

あやかりたいものである。



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