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詩人・村松武司の現代的意義




「とうさんのアグラのなかに/はいって、みるテレビ//よっつの目をもつ/いっぴきの動物
//ぼくの呼吸にあわせて/とうさんも呼吸する/不規則に。」
 これは、詩人、村松武司(1924-93)の「九月四日」 と題された詩である。村松は、日本の戦後詩の出発点となった詩誌「純粋詩」の編集に携わり、後に「荒地」とともに、今も、現代詩に影響与え続けている「列島」の創刊同人となった。
 村松は、京城(現ソウル)に3代目の植民者として生まれ、京城中学を経て、仁川郊外の電波兵器士官学校で敗戦を迎えた。京城という地名も、植民者というカテゴリーも、今ではほとんど聞かれなくなった。詩人村松武司の名も、その現代性に比して不当なほど忘れ去られている。村松は、植民者という出自に生涯こだわった。このことで、同時代の戦後詩人たちが、不思議なほど見落としていた視座を獲得するのである。それは「現在も植民地主義は続いている」という認識である。村松が生涯戦った植民地主義とは何なのか。
「履歴書に残す帝国酸素かな」
 この摂津幸彦の俳句は一読複雑な味わいを残す。その複雑さは、「帝国酸素」に由来する。大岡昇平も在籍したこの神戸の会社は、その名のとおり、大日本帝国の時代に設立された。この句を在日朝鮮人が読んだらどうだろうか。この句のアイロニーは一転して日本人の帝国への郷愁とその正当化へと転化してしまうだろう。ここに今も続く植民地主義の現実がある。
 村松はそれを端的にこう表現している。「朝鮮を懐かしがってはならない」。植民者の自分に課した倫理である。村松は、従軍慰安婦について、次のように述べている。「私は―人によって見解は違うかもしれないが―売買春にあっては、売る権利はあっても買う権利の主張はできないと考える。これに反して、売る権利を持たぬものに対して、買う権利のみがある場合、性は成立しない。成立しないはずの性が、しかし今日横行しているが従軍慰安婦たちは、この後者の地位に遂にやられた。しかも『大義』という公認の名で」(「海のタリョン」) 現在の従軍慰安婦問題を考える上で、1つの視点を提示していると言えるだろう。
 村松は植民地主義との関わりでハンセン病の問題にも終生関わった。「ライはアジア・アフリカだ」(村松の師・大江満雄の言葉)という考え方にその思想は集約されている。ハンセン病者は、植民地体制の最底辺に組み込まれ、ハンセン病の存在するその場所が植民地主義の空間化なのである。
 西欧に範を求める多くの現代詩とは異質な、それでいて現代的な問題意識に貫かれた村松の世界。今だからこそ、多くの人に読まれるべきではなかろうか。
 「おれは『詩』を書かぬ。『現代詩』を書かぬ。ならば何を書くべきというのだろう。わたしの背後の大陸、血みどろの朝鮮、くらいアジアが重たくのしかかり、わたしがその重圧に耐える。一言で言えば、それを、詩に書く」(「同書」)

初出「埼玉新聞」2013年8月13日

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