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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(9)


■旧暦5月5日、日曜日、

(写真)杖

日曜日の夕方、季節もいいので、鳥孝で唐揚にビールが定番になって来た。テーブルのお向かいを何気なく見ると、50代後半の男性が泣いている。「オレはもう駄目だ」と泣いているのである。目立たぬように、眼鏡を取って、涙を拭っているのである。しばらく、泣くと、アジフライと蒲焼をみやげに店を出て行った。生きていくのは、いづれにしても、辛い。幸福なのは、せいぜい、小学生くらいまでか。「オレはもう駄目だ」 そう思ったことは、オレも何回もあるなぁ。それでも生き延びた。なんとかなるさ。そして、人は、いづれは、死ぬ。せいぜい、できるのは、後悔のない生き方のみかもしれない。



romieとのコラボレーションが、二つほど、進展した。議論し合いながら、手さぐりで進めているが、そのプロセスがまた楽しい。俳諧や、連詩、英語連詩などについて、ぼちぼち、勉強していきたいと思っている。

collaboration Fukushima (9)

collaboration Fukushima (10)



フェイスブックで、チャールズ・シミックというセルビア系アメリカ詩人を知って、なかなか、面白いので、少しづつ読んでいる。ここから>>> 更新したら、ここで、告知します。

また、シオランのヘーゲル論は、読み終わり、今度は、北斎論へ入る予定。ここから>>>  ご興味のある方はどうぞ。



何事も無言の内はしづかなり   去来

里見え初て午の貝ふく   芭蕉

■俳諧で凄いなと思うのは、展開の内的飛躍だ。前の句から連想するだが、連想するときの「見定め方」が見事で、新しい世界が開かれてゆく。連詩をやっていると、前の句の「世界」を見定めるのではなく、前の句の中の言葉から、別の言葉を連想して、世界を作ってしまうことが多い。そのため、似かよった世界が立ちあがってしまう。芭蕉の去来の世界の見定めは、「山伏の行」である。そういう認識枠組みで、新しい世界を構築している。しかし、山伏の世界から、この動きのある世界の構築までは、だれでもできるものじゃないと思う。ちなみに、「午の貝ふく」とは「正午」を知らせる法螺貝を山伏が吹くこと。








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