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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その29)─「数ノ染物巻八丈、夷ガ隠羽、一度モ都ヘ上セズシテ」

2023-04-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(岩波新大系、p329以下)
ここから北条義時の長大な演説となります。

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 義時ハ軍〔いくさ〕ノ僉議ヲ始ラレケリ。海道清見ガ関ヲバ湯山小子郎ニ預ケ玉フ。山道三坂関〔みさかのせき〕ヲバ三坂三郎ニ預ケ玉フ。北陸道塩山・黒坂ヲバ山城大郎ニ預ケ玉フ。「アヤシバフダル者入テ、属降〔ぞくかう〕カクナ、ハ殿原。故大将殿ノ御時、軍ノ先陣ヲバ畠山庄司次郎重忠コソ承シカドモ、其人共ハ今ハナシ。今度ノ先陣、誰ニカ有ベキ。乍去〔さりながら〕、海道ノ先陣ハ相模守時房。此手ニ可付〔つくべき〕人数〔にんじゆ〕ニハ、城入道・森入道・石戸入道・本間左衛門・伊藤左衛門・加持井・丹内・野路八郎・河原五郎・強田左近・大河殿・大見左衛門・宇佐美左衛門・内田五郎・久下三郎・勾当時盛ヲ始トシテ、其勢二万騎ナルベシ。二陣、武蔵守泰時。此手ニ可附人々ニハ、関左衛門・新井田殿・森五郎・小山左衛門・新左衛門・善左衛門・宇津宮入道・中間五郎・藤内左衛門・安藤兵衛・高橋与一・印田右近・同刑部・阿夫刑部・大森弥二郎兄弟・保威左衛門・峰川殿・讃岐右衛門・□五郎・駄手入道・同平次・金子平次・伊佐三郎・固共六郎・丹党・小玉党・井野田党・金子党・棤二郎・有田党・弥二郎兵衛・駿河二郎康村・武蔵太郎時氏ヲ始トシテ、其勢可為二万騎。三陣、足利殿。四陣、佐野左衛門政景・二田四郎。五陣、紀内殿・千葉次郎ヲ始トシテ、海道七万騎ニテ上ルベシ。山道大将軍、武田・小笠原。此手ニ可付人々ニハ、南部太郎・秋山四郎・三坂三郎・二宮殿・智度六郎・武田六郎ヲ始トシテ、五万騎ニテ上ルベシ。北陸道ノ大将軍ハ、式部丞朝時ヲ始トシテ、七万騎ニテ上ルベシ。山道・海道・北陸道、三ノ道ヨリ、十九万騎ニテ上スベシ。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
東海道・東山道・北陸道の軍勢を整理すると、

Ⅰ、東海道 七万騎
(1)先陣 相模守時房
  城入道・森入道・石戸入道・本間左衛門・伊藤左衛門・加持井・丹内・野路八郎・河原五郎・
  強田左近・大河殿・大見左衛門・宇佐美左衛門・内田五郎・久下三郎・勾当時盛以下、
  其勢二万騎
(2)二陣 武蔵守泰時
  関左衛門・新井田殿・森五郎・小山左衛門・新左衛門・善左衛門・宇津宮入道・中間五郎・
  藤内左衛門・安藤兵衛・高橋与一・印田右近・同刑部・阿夫刑部・大森弥二郎兄弟・保威
  左衛門・峰川殿・讃岐右衛門・□五郎・駄手入道・同平次・金子平次・伊佐三郎・固共六郎・
  丹党・小玉党・井野田党・金子党・棤二郎・有田党・弥二郎兵衛・駿河二郎康村・武蔵太郎時氏
  其勢可為二万騎
(3)三陣、足利殿
(4)四陣、佐野左衛門政景・二田四郎
(5)五陣、紀内殿・千葉次郎

Ⅱ、東山道 五万騎
 大将軍、武田・小笠原
  南部太郎・秋山四郎・三坂三郎・二宮殿・智度六郎・武田六郎

Ⅲ、北陸道 七万騎
 大将軍、式部丞朝時

となり、東海道の先陣・第二陣は詳細ですが、三・四・五陣は雑で、東山道・北陸道も雑ですね。
総勢十九万騎は流布本・『吾妻鏡』と同じですが、その内訳が違い、流布本・『吾妻鏡』では東海道が十万、東山道が五万、北陸道が四万であることは前述しました。

流布本も読んでみる。(その15)─「父子兄弟引分上せ留らるゝ謀こそ怖しけれ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84e69bedac1469967b6e592fe90d5076

さて、続きです。

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義時ハ此〔ここ〕ニ居ナガラ、手際〔てのきは〕ノ軍場〔いくさば〕ハ兼テ知タリ。北陸道ハ、礪浪〔となみ〕山・宮崎・塩山・黒坂也。山道ニハ、大井戸・板橋・筵田・杭瀬川。海道ニハ、大御子・一瀬〔いちのせ〕・大豆戸〔まめど〕・食渡〔じきのわたり〕・高桑・洲俣〔すのまた〕コソ、手ノ際〔きは〕ノ軍場ヨ。此等ニテ討勝〔うちかつ〕ホドナラバ、馬ノ腹帯ヲ強クシメテ、敵ハハヤルトモ我ハハヤラズシテ、シラマンニハ手ヲコシテ、手ノ際ノ戦シ給ヘ、殿原。海道ノ殿原ハ、美濃国不破関ヲ打過〔うちすぎ〕、北陸道ノ殿原ハ、越前ノツルガノ津・アラチノ山ヲ打過テ、三ノ手一ツニ成テ、宇治・勢田攻落〔せめおと〕シテ都ニ上リ、五条ヨリ下〔しも〕ニ火ヲ懸テ、謀反ノ衆ヲ責出〔せめいだし〕々々、首ヲ切、十善ノ君ノ見参ニ入〔いれ〕ヨ。武蔵・相模等ノ勢スクハクハ、脚力〔きやくりき〕ヲ以テ示シ玉ヘ。三郎冠者重時ニ一陣打〔うた〕セテ、義時モ十万騎ニテ打テ上リ、手ノ際ノ戦シテ、十善ノ君ノ見参ニ入〔いら〕ン。戦〔たたかひ〕負ヌルモノナラバ、打下リ、足柄・清見ガ関ヲ堀切〔ほりきり〕テ、由比浜ヲ軍場ト誘〔いざなひ〕テ、手際〔てのきは〕戦セン。ソレニ戦負ヌルモノナラバ、昔、衆井太郎ガ、七度マデ宣旨ヲ蒙リ、門司関ヲ打塞〔うちふさぎ〕、筑紫九国〔くこく〕、七年ガ間、掠〔かすめ〕テ有ケン様ニ、義時モ谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上〔やきあげ〕、陸奥ニ落下リ、数ノ染物巻八丈〔まきはちぢやう〕、夷ガ隠羽〔かくしば〕、一度モ都ヘ上セズシテ、一期ガ間知ランニ、サテモ有ナン。和殿原、海道ノ先陣、相模守急〔いそぎ〕玉ヘ。去〔さり〕トモ義時、日取〔ひどり〕セン。五月廿一日<甲辰>開日ゾ、猶々急玉ヘ」。
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義時は自信満々で、自分は鎌倉にいても、「手際ノ軍場」、死力を尽くして戦うべき重要な場所は全て知っていると豪語し、北陸道・東山道・東海道の順に具体的な地名を上げて行きます。
そして、三軍が合流して宇治・勢田を攻め落として都に入ったら、五条より南には火を懸けて、「謀反ノ衆」を攻め出し、片っ端から首を切って、「十善ノ君」後鳥羽院の見参に入れよと厳命します。
軍勢が少ないようだったら、自分も三男重時と共に十万騎で上洛するぞ、という台詞は、流布本にも類似表現がありますが、流布本では義時が「推松」に託した後鳥羽への伝言の中に、「三郎重時・四郎政村、是等を先として、廿万騎を相具して」とあり、珍しく流布本の方が大袈裟な表現になっていますね。
なお、「昔、衆井太郎ガ、七度マデ宣旨ヲ蒙リ、門司関ヲ打塞」云々は何のことかよく分かりませんが、久保田淳氏は「染井太郎」に付した脚注で、

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未詳。あるいは「衆」は「磐」の誤字で、日本書紀・継体二十一年に語られている筑紫国造磐井の叛乱をいうか。
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と書かれています。
まあ、序文の「国王兵乱十二度」の適当な内容からも明らかなように、慈光寺本作者の古代史の知識は出鱈目なので、あれこれ考えること自体が無駄なようにも感じられます。

(その7)─「国王兵乱」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ceb221e963f9e49a0409bcecaf871ebf
(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bbac31be3ad10781b7be02cd58f6e16
(その9)─序文が置かれた理由
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0495e94d944a417e9c8bbe56fd12b047

また、敗北したら陸奥に逃げる云々は慈光寺本独自のストーリーですが、「数ノ染物巻八丈〔まきはちぢやう〕、夷ガ隠羽〔かくしば〕」云々は些か唐突な感じがします。
この点は次の投稿で検討します。

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