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「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)

2023-02-01 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

一昨日、小山靖憲氏の「椋橋荘と承久の乱」(『市史研究とよなか』第1号、1991)を入手して読んでみましたが、「長江荘は関係史料がなくて所在地も未詳とのことですから義時が地頭だったことを示す客観的な証拠はありそうもなく、小山説も結局は慈光寺本に依拠しているようですね」という一ヵ月前の予想は当たっていました。

歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?(2022.12.29)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbce4ae481988ee4658a379aba137edb

それにしても、長江荘についての史料が本当に僅少であることは驚きで、私としては、『吾妻鏡』に名前が出てくるのだから長江荘の実在は確かで、しかし、その広さが三百町というのは疑わしいだろう、などと思っていたところ、実際には、その実在が疑わしく思われるほどの史料の残存状況なのですね。
この程度の史料を基礎にして、長江荘の地頭が北条義時だったという「学説」が、今や通説になろうとしている現状は本当に驚きです。
そこで、渡邉裕美子論文からまたまた離れてしまいますが、小山論文の方を先に検討してみたいと思います。
この論文の構成は、

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 はじめに
一 椋橋荘の領有関係
二 承久の乱前後の椋橋荘
 おわりに
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というシンプルなものですが、まずは小山氏の問題意識を確認するため、「はじめに」を見ておきます。(p56以下)

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 豊中市の西南部に位置する庄本は、中世の椋橋荘に由来する地名で、現に庄本町一丁目には椋橋神社が鎮座する。ただし、近世の庄本村は現在の庄本町よりも広く、二葉町・庄内宝町および庄内栄町・庄内幸町の南部に及んでいた。この近世の庄本村と中世の椋橋荘の関係は必ずしも詳らかではないが、椋橋荘の中心がこの付近にあったことは疑いない。したがって、椋橋荘は猪名川と神崎川(三国川)が合流する地域、すなわち河尻と呼ばれた水上交通の要地に位置していた。
 ところで、椋橋荘は同じく摂津国にあった長江荘とともに、後鳥羽上皇によって承久の乱が引き起される直接の原因となった荘園として著名である。すなわち、長江・椋橋両荘は後鳥羽院の寵姫亀菊の所領であったが、地頭職の改補を鎌倉幕府に要求したところ、執権北条義時がこれを拒否したために、上皇の逆鱗にふれ、義時追討の宣旨が発せられたというのである。
 もちろん、これは後鳥羽院が鎌倉幕府と敵対するにいたった一つの原因に過ぎないが、幕府の正史『吾妻鏡』がこの事件を特筆しているために、承久の乱を論じた書物・論文でこれにふれないものはない。そのため、荘名だけは人口に膾炙しているが、不思議なことに長江・椋橋両荘そのものに関する研究はほとんど見あたらないのが現状である。
 ただし、関係史料が皆無に近い長江荘はともかくとして、椋橋荘については、荘域の西半分が現尼崎市にふくまれ、伊丹市にも隣接するため、『尼崎市史』や『伊丹市史』には一定の記述があり、教えられる点が少なくない。また、近年の『大阪府史』が慈光寺本『承久記』の記述を論拠として、改補を要求された両荘の地頭は、他ならぬ北条義時自身であったという注目すべき見解を提示している。さらに、あいついで刊行された『角川日本地名大辞典27 大阪府』および平凡社の『大阪府の地名』には、関係史料をほぼ網羅した詳細な解説がある。
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いったん、ここで切ります。
「近年の『大阪府史』が慈光寺本『承久記』の記述を論拠として、改補を要求された両荘の地頭は、他ならぬ北条義時自身であったという注目すべき見解を提示している」に付された注を見ると、これは『大阪府史』第三巻(中世1)の丹生谷哲一氏の執筆部分ですね。
慈光寺本を根拠に北条義時地頭説を唱えたのは丹生谷哲一氏が最初のようです。
さて、続きです。(p57)

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 しかしながら、椋橋荘の個別研究を進めるために、さしあたり次のような問題点を指摘せざるをえない。まず第一に、改補を要求された長江・椋橋両荘の地頭が北条義時であったという『大阪府史』の指摘は興味深いが、慈光寺本『承久記』では長井荘の地頭職のみが問題となっており、椋橋荘の名はみえないのである。したがって、長江・椋橋両荘だとする『吾妻鏡』の記事は改めて検討してみる必要がある。第二に、椋橋荘に関する記述が最も詳しいのは『大阪府の地名』で、摂関家領・後鳥羽院領・東大寺領・頭陀寺領・春日社領など、領家を異にするいくつもの椋橋荘が入り組んで存在したという。はたしてこのような複雑な領有関係を想定しなければ理解できないのか、この点についても再検討する必要がある。さらに、長江荘については史料が乏しく、所在地すら明らかでないが、可能な限りの推定を試み、椋橋荘とどのような関係があるのかについても考察すべきであろう。
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以上で「はじめに」は終わりです。
「一 椋橋荘の領有関係」に入ると、

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 椋橋荘の初見史料は、永承三年(一〇四八)一〇月の『宇治関白高野山御参詣記』であって、関白藤原頼通が高野山に参詣した際、淀津から淀川河口までの川くだりに、椋橋荘と大江御厨が各々三〇人の人夫を出して水手をつとめている。したがって、この時までに摂関家領となっていたことが明らかである。その後嘉保三年(一〇九六)、倉橋荘と垂水牧の寄人が公田を請作しながら、摂関家の威を募り、役夫工代物を弁済しないと、国司が訴えているが、その際倉橋荘には「小屋五家有」と注記されている。五家は公田を請作している寄人の家数と考えられるが、このころの椋橋荘は猪名川河口付近の形成途上の三角洲にあって、農業を専業とする荘民は少なく、摂関家から水手役を課されているように、交通運輸や漁業に従事する荘民が多かったものと思われる。
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という具合いに(p58)、古文書・古記録を丁寧に拾って、緻密な論証が展開されています。
全文は引用しませんが、豊富な史料の残存状況からいって、椋橋荘の実在は明らかです。

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