投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月20日(月)10時49分3秒
征夷大将軍の問題は重要なので、下村論文に即して改めて検討する予定です。
また、「尊氏を源頼朝になぞらえる」・「頼朝の再来である尊氏」といった発想が生まれた時点についても、後で若干の補足を予定しています。
さて、鈴木著の「序章」に戻ると、鈴木氏は承久の乱についてはごく簡単に次のように述べられているだけですね。(p9以下)
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承久の乱
実朝の死から二年後の承久三年(一二二一)五月、後鳥羽上皇は全国の武士にあて、北条義時を討てという宣旨を出した。承久の乱の勃発である。
後鳥羽の目的は、義時討伐のみで、倒幕の意図はなかったとも言われている(長村 二〇一五)。ただ、この時、義時は事実上の幕府最高権力者であり、彼だけを倒せという命令を出したとしても、実質的には討幕と同義であったと考える。
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ここで紹介されている長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)については、この掲示板でも昨年五月から六月にかけて、少し検討しました。
その内容はブログ「学問空間」では「長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」というカテゴリーに入れておきましたが、内容を概観できるようにまとめてはおかなかったので、ここでプチ整理しておきます。
私が承久の乱を調べようと思ったきっかけは岩田慎平氏の「「我又武士也」小考」(『紫苑』20号、2020)という論文で、岩田氏は比企朝宗女「姫の前」所生の北条義時女が土御門定通と再婚した時期について、「承久の乱の前後いずれであったかは決しがたい」と書かれていました。
しかし、二人の再婚は承久の乱の前であることが明らかです。
土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f
土御門定通は承久の乱に積極的に加担したにもかかわらず処分を免れており、これは義時娘を妻としていたためですね。
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c004b184d9f914b0a64d5510efef6f9
土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c9b2e18e6868f44b698d21898577992e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e091c3125d7f725ea770c2505e7b8c6
そして承久の乱についても、少しきちんと調べてみたいと思って野口実氏編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019)を読んでみたところ、同書はなかなか充実した論文集でした。
「貴族が軍事指揮官・戦闘員として戦場に臨んだ極めて稀な事件」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ae44d1b4f6e8ebbef13119ed27e46d
野口氏の記述について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3628ef7077194bbb7aeba4f13fc1e256
この論文集で、野口実氏の周辺では「後鳥羽の目的は、義時討伐のみで、倒幕の意図はなかった」説が常識化していることを知ったのですが、私には納得しかねる点もありました。
それは、仮に後鳥羽が戦闘に勝利したら一体何をやりたかったのだろう、武士との間にどのような関係を構築しようとしたのだろう、という戦後構想の問題です。
北条義時追討説への若干の疑問
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ec5e9c47c9c9a0994709fd7a2b74bd3
そこで、義時追討説を詳しく論じた坂井孝一氏の『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書、2018)と、討幕説を維持する本郷和人氏の『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書、2019)を読み比べてみました。
すると、近年の研究を丹念にフォローし、史料も丁寧に紹介している坂井著は確かに「読者に迎合しない良質な歴史本」(呉座勇一氏)である一方、本郷著はテレビ番組での解説をそのまま文章化したようなお手軽さで、参考文献も全く載っていない雑な本ではありました。
ただ、本郷氏もこの時期は若き日に相当熱心に研究されているので、ところどころ鋭い指摘がありますし、老獪な古狸となった本郷氏がボソッと呟く人物評などもそれなりに味わいがあります。
他方、誠実一筋の坂井著は、政治的人間への洞察の面で相当に甘さがあるのではないか、と思われました。
坂井孝一『承久の乱』 VS.本郷和人『承久の乱』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b126c431faabcd58416010b5e0224841
「後鳥羽には、幕府や武士の存在そのものを否定する気などなかった」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/760ff0a9c4f366773d7be8bae1414821
「御家人の心を掴むのに十分な院宣といえよう」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66884f8742592d639b1fdc1f5c96d0e9
さて、義時追討説に立つ坂井孝一氏は、後鳥羽の目的を単純に義時を排除することではなく、「義時を排除して幕府をコントロール下に置くこと」とされているのですが、この「コントロール」の内容は明確ではありません。
「コントロール」の具体的な内実を詰めて考えて行くと、坂井理論は討幕説とどこが違うのかも不鮮明になってくるように思われました。
「コントロール」の内実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67d8fa706c0e906d93e4e3f433651dfc
そして野口実氏も「コントロール」という表現を使われるのですが、その内実はやはり明確ではありません。
また、野口氏は北条政子が「義時追討を幕府追討にすり替え」たと言われますが、これは幕府の有力御家人らに事態を正確に認識する能力がなく、彼らは政子の「すり替え」に騙されるほど莫迦だった、と言うに等しい評価です。
果たして彼らは本当にそこまで莫迦だったのか。
「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
征夷大将軍の問題は重要なので、下村論文に即して改めて検討する予定です。
また、「尊氏を源頼朝になぞらえる」・「頼朝の再来である尊氏」といった発想が生まれた時点についても、後で若干の補足を予定しています。
さて、鈴木著の「序章」に戻ると、鈴木氏は承久の乱についてはごく簡単に次のように述べられているだけですね。(p9以下)
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承久の乱
実朝の死から二年後の承久三年(一二二一)五月、後鳥羽上皇は全国の武士にあて、北条義時を討てという宣旨を出した。承久の乱の勃発である。
後鳥羽の目的は、義時討伐のみで、倒幕の意図はなかったとも言われている(長村 二〇一五)。ただ、この時、義時は事実上の幕府最高権力者であり、彼だけを倒せという命令を出したとしても、実質的には討幕と同義であったと考える。
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ここで紹介されている長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)については、この掲示板でも昨年五月から六月にかけて、少し検討しました。
その内容はブログ「学問空間」では「長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」というカテゴリーに入れておきましたが、内容を概観できるようにまとめてはおかなかったので、ここでプチ整理しておきます。
私が承久の乱を調べようと思ったきっかけは岩田慎平氏の「「我又武士也」小考」(『紫苑』20号、2020)という論文で、岩田氏は比企朝宗女「姫の前」所生の北条義時女が土御門定通と再婚した時期について、「承久の乱の前後いずれであったかは決しがたい」と書かれていました。
しかし、二人の再婚は承久の乱の前であることが明らかです。
土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f
土御門定通は承久の乱に積極的に加担したにもかかわらず処分を免れており、これは義時娘を妻としていたためですね。
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c004b184d9f914b0a64d5510efef6f9
土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c9b2e18e6868f44b698d21898577992e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e091c3125d7f725ea770c2505e7b8c6
そして承久の乱についても、少しきちんと調べてみたいと思って野口実氏編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019)を読んでみたところ、同書はなかなか充実した論文集でした。
「貴族が軍事指揮官・戦闘員として戦場に臨んだ極めて稀な事件」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ae44d1b4f6e8ebbef13119ed27e46d
野口氏の記述について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3628ef7077194bbb7aeba4f13fc1e256
この論文集で、野口実氏の周辺では「後鳥羽の目的は、義時討伐のみで、倒幕の意図はなかった」説が常識化していることを知ったのですが、私には納得しかねる点もありました。
それは、仮に後鳥羽が戦闘に勝利したら一体何をやりたかったのだろう、武士との間にどのような関係を構築しようとしたのだろう、という戦後構想の問題です。
北条義時追討説への若干の疑問
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ec5e9c47c9c9a0994709fd7a2b74bd3
そこで、義時追討説を詳しく論じた坂井孝一氏の『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書、2018)と、討幕説を維持する本郷和人氏の『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書、2019)を読み比べてみました。
すると、近年の研究を丹念にフォローし、史料も丁寧に紹介している坂井著は確かに「読者に迎合しない良質な歴史本」(呉座勇一氏)である一方、本郷著はテレビ番組での解説をそのまま文章化したようなお手軽さで、参考文献も全く載っていない雑な本ではありました。
ただ、本郷氏もこの時期は若き日に相当熱心に研究されているので、ところどころ鋭い指摘がありますし、老獪な古狸となった本郷氏がボソッと呟く人物評などもそれなりに味わいがあります。
他方、誠実一筋の坂井著は、政治的人間への洞察の面で相当に甘さがあるのではないか、と思われました。
坂井孝一『承久の乱』 VS.本郷和人『承久の乱』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b126c431faabcd58416010b5e0224841
「後鳥羽には、幕府や武士の存在そのものを否定する気などなかった」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/760ff0a9c4f366773d7be8bae1414821
「御家人の心を掴むのに十分な院宣といえよう」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66884f8742592d639b1fdc1f5c96d0e9
さて、義時追討説に立つ坂井孝一氏は、後鳥羽の目的を単純に義時を排除することではなく、「義時を排除して幕府をコントロール下に置くこと」とされているのですが、この「コントロール」の内容は明確ではありません。
「コントロール」の具体的な内実を詰めて考えて行くと、坂井理論は討幕説とどこが違うのかも不鮮明になってくるように思われました。
「コントロール」の内実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67d8fa706c0e906d93e4e3f433651dfc
そして野口実氏も「コントロール」という表現を使われるのですが、その内実はやはり明確ではありません。
また、野口氏は北条政子が「義時追討を幕府追討にすり替え」たと言われますが、これは幕府の有力御家人らに事態を正確に認識する能力がなく、彼らは政子の「すり替え」に騙されるほど莫迦だった、と言うに等しい評価です。
果たして彼らは本当にそこまで莫迦だったのか。
「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
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