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「権門体制論」の出生の謎(その1)

2023-02-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

黒田俊雄氏が創始し、上横手雅敬氏によってマイルドに精製された権門体制論が、現在の中堅・若手研究者にどのように受容されているかというと、一例として、岩田慎平氏(神奈川県愛川町郷土資料館主任学芸員、1978生)の『北条義時』(中公新書、2021)には次のような記述があります。(p27以下)

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 平家は、清盛の祖父正盛以来の賊徒追討などによる実績に加え、保元・平治の乱によって他の有力な京武者が一掃されたことで、結果的に、最大の軍事力を持つ京武者として生き残った。さらに貴族社会においても有力な院近臣として一定の地位を確保するに至り、国家的な軍事・警察権を担う最大の軍事貴族となった。
 国家的な軍事・警察権は、諸国守護権とも呼ばれる。軍事貴族である平家にとって、国家的軍事・警察権は一族のアイデンティティともいうべき権限である。これが重盛のもとへ継承され、それが公認されたということは、重盛が清盛の後継者となったことが公認されたわけである。
 この二十数年後、内乱を鎮めた頼朝に、このときの重盛と同様の権限が公認された。それは鎌倉幕府成立の画期とされる(上横手雅敬「建久元年の歴史的意義」)。頼朝の跡を継ぐ頼家も、この権限を朝廷から公認されることで、その後継者であることが示された(八五頁参照)。国家的軍事・警察権(諸国守護権)は、軍事貴族である平家や鎌倉幕府にとって、最も基本的なアイデンティティなのだ。
 院政期においては、専門的な職能を持つ家が国家的な役割を分担し合いながら、国家権力を形成していた。国家的な役割とは天皇への奉仕であり、通常ならば私的な活動も、その目的が天皇への奉仕であれば、それは国家的な役割を担うことを意味した。
 平家の軍事力は私的な武力だが、天皇のための治安維持に用いるならば、それは国家的軍事・警察権の行使ということになる。このように、国家的な役割を分担する家のことを権門と呼び、平家や鎌倉幕府は国家的軍事・警察権を担う軍事権門であった。
 同様に、天皇の政務運営を補佐する家(摂関家をはじめとする貴族の家)や、天皇の安全や世の安寧を祈禱する寺社も、それぞれの役割に即した権門であった。
 これらさまざまな権門が国家的な役割を分担し合う、院政期に特有の国家体制を、「権門体制」と呼ぶ(黒田俊雄「中世の国家と天皇」)。「権門体制」は学校教育で取り上げられる機会が少ないため、一般読者には馴染みが薄いかもしれないが、院政期をはじめとする中世前期の日本社会の仕組みを理解するための概念である。
 「権門体制」においては、院や軍事権門、および寺社勢力などさまざまな権門が、個別の政治過程においては互いに矛盾や対立を抱えながらも、全体としては他を圧倒することなく共存し、相互補完の関係を維持しつつ国家機構を形成している。そしてそれらの権門に国家的な正当性を与えるのは、在位中の天皇であった。
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うーむ。
「国家的な役割を分担する家のことを権門」と定義したのに、鎌倉幕府や「寺社勢力」なども権門とするので、鎌倉幕府や「寺社勢力」は「家」なのか、といった小さな形式的疑問が湧くとともに、頼朝が「重盛と同様の権限」しか持っていないのか、といった実質的な疑問も生じますが、やはり一番気になるのは、桜井英治氏の表現を借用すると、あまりに「予定調和的」な、まったりとした世界観ですね。
まあ、一応、「個別の政治過程においては互いに矛盾や対立を抱えながらも」といった留保はありますが、諸権門が「共存」してみんな「相互補完の関係を維持しつつ国家機構を形成」している、というのは事実の認識なのか、それとも当時の人々の「願望」なのか、あるいは諸権門の関係はかくあるべし、という「理想」ないし道徳的な「説教」なのか。
私のように「一つの国家」が我々の「常識的感覚」にかなうのだ、「天皇を頂点とした統合的な一個の構造が厳として存在する、というところから議論を出発すべきだ」という前提自体に懐疑的な者にとっては何とも落ち着きの悪い世界ですが、別にこれは岩田氏が奇妙な議論を展開されている訳ではなくて、権門体制論の創始者の黒田俊雄氏自身がこんなことを言われている訳ですね。
さて、私にとって権門体制論の一番の謎は、黒田氏はどこからこの「理論」の着想を得たのだろうか、ということでした。
黒田氏は仏教を極めて重視するので、「顕密体制論」を含めた黒田理論をものすごく乱暴に要約すると、「日本は天皇を中心とする仏の国」ということになります。
かつて「日本は天皇を中心とする神の国」だと言って物議を醸した総理大臣がいましたが、黒田理論も何だか日本万歳の右翼理論っぽい感じがしないでもないですね。

「神の国発言」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%9B%BD%E7%99%BA%E8%A8%80

しかし、1926年生まれの黒田氏は、1950年代には「国民的歴史学」運動に熱心だったバリバリの左翼活動家で、今のジジババ中心のまったりした共産党ではなく、真剣に「革命」を目指していた時期の共産党員です。

網野善彦を探して(その12)─「山村工作というのは、たいてい新入りの真面目な連中がやらされた」(by 上田篤)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ca29f11163236917872086981433ca49

そうした黒田氏の思想・経歴と「予定調和的」でまったりとした権門体制論の結びつきが何とも奇妙に思われて、私は何かヒントが得られないかなと思って、2010年の初夏に黒田氏の故郷である富山県砺波市(旧庄下村)の大門(おおかど)地区まで行ったことがありますが、「大門素麺」という名産品があることを知ったくらいで、何の成果もありませんでした。

大門で生まれた権門体制論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ec7182e18f586fe4cb82ca24199fc18
大門素麺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b377fb50b3fa34383aa559e3e4017692
素麺補遺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21c62ddb458dd5194b2f2d69b82fc2a6

しかし、今では権門体制論の出生の謎は佐藤雄基氏(立教大学教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)という論文で解明されています。

新年のご挨拶(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/896f6f1d4184ed0b84f204fe8cddc712
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d78d824db0eff1efeecc14e0195184d2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704

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