投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月22日(水)12時26分54秒
『中世公武関係と承久の乱』の「あとがき」によれば、「本書の刊行は、本書第二章の原論文が二〇一一年七月に第十二回日本歴史学会賞を受賞したことを契機」(p318)とするのだそうで、「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」は長村著の最重要論文ですね。
この論文の前半では、「官宣旨」とは別に慈光寺本『承久記』が記す院宣が実際に発給されたであろうことを丁寧に論証しており、その手順は堅実で説得的です。
「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1
ただ、長村氏が「後鳥羽の計画は、院宣によって彼ら有力御家人に義時の幕政「奉行」停止の説得と(その不成立を見越して)殺害を命ずるとともに」と解釈される点は不自然ですね。
「奉行」の意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23b3b482aed57e638ffd83f7f1e88171
長村著には西田知広(『日本史研究』651号、2016)、白根靖大(『歴史評論』813号、2018)、近藤成一(『日本歴史』837号、2018)、下村周太郎(『歴史学研究』994号、2020)の諸氏が書評を書かれていますが、下村氏の義時追討説に関する指摘は私も概ね賛同できました。
下村周太郎氏「書評 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a8bba53adef094aa67272b0fb01167c3
また、私は承久の乱後の処分に関し、後深草院二条の祖父・久我通光の処遇が弟の土御門定通に較べてずいぶん厳しいように感じていたのですが、長村論文によって通光が「官宣旨」の発給に上卿として関与したことを知り、処罰を免れることは無理だったのだろうなと思いました。
「書出を「右弁官下」とする官宣旨が追討等の「凶事」に用いられることは周知の通りであろう」(by 長村祥知氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e729067bee8a32cc39835bbc43e817a6
ま、些細な点は除き、長村論文の前半は良かったのですが、後半の葉室光親が死罪となった理由の論証となると、どうにも奇妙な論理のように思われました。
長村氏は文治元年の源頼朝追討宣旨に関与した人々への処分との比較で、承久の乱後の葉室光親の死罪という処分が極めて重いと主張されるのですが、そもそも義経に武力で威嚇されて嫌々ながら宣旨を出した文治元年の事例が比較の対象として適切なのか。
葉室光親が死罪となった理由(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d0e03db763715c4e02a5af35eaa8aff
文治元年のケースでは、朝廷としては頼朝・義経兄弟間の争いに巻き込まれるのは迷惑千万で、頼朝追討の宣旨など全然出したくなかったのですが、土佐坊昌俊に襲撃された直後、頭に血が上った義経から宣旨を出せと迫られたので仕方なく出した訳です。
この状況は、朝廷側が自発的に北条義時追討「官宣旨」を出した承久三年五月十五日とは全く異なります。
葉室光親が死罪となった理由(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/324ab0b5154b1db54f911cf3cae41462
また、頼朝は追討宣旨には慣れていて、別に怒ってはおらず、朝廷側の失策につけ込んで揺さぶりをかけ、新たな権益を確保しようとしただけですが、承久の乱では義時以下、実際に殺されそうになったのだから本気で激怒しています。
葉室光親が死罪となった理由(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e50927d87c2f438ad99af3935b577ac
結局、葉室光親の死罪は宣旨または院宣という紙切れの形式的記載だけで判断された訳ではなくて、後鳥羽による戦争計画の立案と遂行に果たした実質的役割が追及され、「合戦張本」の一人と誤解された結果であることは『吾妻鏡』を読めば明らかです。
そんなことは明々白々だったので、従来の研究者も、光親の処分が文治元年の高階泰経に比べて厳罰すぎる、などといった頓珍漢な議論はしなかった訳ですね。
長村氏は文書の些末な文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感です。
基本的な発想が事務方の小役人レベルで、長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。
葉室光親が死罪となった理由(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1055641c3aa05a0defdabe2a3b8ba23
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32c07bc4c7c6a769979bbe38c9e1ba04
『中世公武関係と承久の乱』の「あとがき」によれば、「本書の刊行は、本書第二章の原論文が二〇一一年七月に第十二回日本歴史学会賞を受賞したことを契機」(p318)とするのだそうで、「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」は長村著の最重要論文ですね。
この論文の前半では、「官宣旨」とは別に慈光寺本『承久記』が記す院宣が実際に発給されたであろうことを丁寧に論証しており、その手順は堅実で説得的です。
「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1
ただ、長村氏が「後鳥羽の計画は、院宣によって彼ら有力御家人に義時の幕政「奉行」停止の説得と(その不成立を見越して)殺害を命ずるとともに」と解釈される点は不自然ですね。
「奉行」の意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23b3b482aed57e638ffd83f7f1e88171
長村著には西田知広(『日本史研究』651号、2016)、白根靖大(『歴史評論』813号、2018)、近藤成一(『日本歴史』837号、2018)、下村周太郎(『歴史学研究』994号、2020)の諸氏が書評を書かれていますが、下村氏の義時追討説に関する指摘は私も概ね賛同できました。
下村周太郎氏「書評 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a8bba53adef094aa67272b0fb01167c3
また、私は承久の乱後の処分に関し、後深草院二条の祖父・久我通光の処遇が弟の土御門定通に較べてずいぶん厳しいように感じていたのですが、長村論文によって通光が「官宣旨」の発給に上卿として関与したことを知り、処罰を免れることは無理だったのだろうなと思いました。
「書出を「右弁官下」とする官宣旨が追討等の「凶事」に用いられることは周知の通りであろう」(by 長村祥知氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e729067bee8a32cc39835bbc43e817a6
ま、些細な点は除き、長村論文の前半は良かったのですが、後半の葉室光親が死罪となった理由の論証となると、どうにも奇妙な論理のように思われました。
長村氏は文治元年の源頼朝追討宣旨に関与した人々への処分との比較で、承久の乱後の葉室光親の死罪という処分が極めて重いと主張されるのですが、そもそも義経に武力で威嚇されて嫌々ながら宣旨を出した文治元年の事例が比較の対象として適切なのか。
葉室光親が死罪となった理由(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d0e03db763715c4e02a5af35eaa8aff
文治元年のケースでは、朝廷としては頼朝・義経兄弟間の争いに巻き込まれるのは迷惑千万で、頼朝追討の宣旨など全然出したくなかったのですが、土佐坊昌俊に襲撃された直後、頭に血が上った義経から宣旨を出せと迫られたので仕方なく出した訳です。
この状況は、朝廷側が自発的に北条義時追討「官宣旨」を出した承久三年五月十五日とは全く異なります。
葉室光親が死罪となった理由(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/324ab0b5154b1db54f911cf3cae41462
また、頼朝は追討宣旨には慣れていて、別に怒ってはおらず、朝廷側の失策につけ込んで揺さぶりをかけ、新たな権益を確保しようとしただけですが、承久の乱では義時以下、実際に殺されそうになったのだから本気で激怒しています。
葉室光親が死罪となった理由(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e50927d87c2f438ad99af3935b577ac
結局、葉室光親の死罪は宣旨または院宣という紙切れの形式的記載だけで判断された訳ではなくて、後鳥羽による戦争計画の立案と遂行に果たした実質的役割が追及され、「合戦張本」の一人と誤解された結果であることは『吾妻鏡』を読めば明らかです。
そんなことは明々白々だったので、従来の研究者も、光親の処分が文治元年の高階泰経に比べて厳罰すぎる、などといった頓珍漢な議論はしなかった訳ですね。
長村氏は文書の些末な文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感です。
基本的な発想が事務方の小役人レベルで、長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。
葉室光親が死罪となった理由(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1055641c3aa05a0defdabe2a3b8ba23
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32c07bc4c7c6a769979bbe38c9e1ba04
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