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宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その2)

2023-05-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

野口実氏は「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』所収、戎光祥出版、2019)において、

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【前略】しかし、『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない。承久の乱後の政治体制の肯定を前提に後鳥羽院を不徳の帝王と評価したり、従軍した武士の役割などについて乱後の政治変動を背景に改変が加えられている部分が指摘できるからである。
 そうした中、最近その史料価値において注目されているのが、『承久記』諸本のうち最古態本とされる慈光寺本『承久記』である。本書は、乱中にもたらされた生の情報を材料にして、乱の直後にまとめられたものと考えられる。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

と言われますが、承久の乱に限ってみれば、やはり一番信頼できるのは『吾妻鏡』ではないかと思われます。
軍記物語の作者と異なり、承久の乱後の幕府は恩賞の付与という重大な課題を抱えており、適正な恩賞配分を行わなければ大変なトラブルになりますから、『吾妻鏡』六月十八日条の膨大な人名リストからも伺えるように、幕府は何時、何処で、誰が、どのように戦い、どのような戦功を挙げ、あるいは負傷ないし死亡したかについて詳細に調査していたことは間違いありません。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

そのため、『吾妻鏡』編纂時にも当時の記録は相当に残っていたはずです。
ただ、京都側の事情は幕府には分かりませんから、『吾妻鏡』の編者は、基本的には幕府に残っていたであろう記録で承久の乱の経過を追い、京都側の事情を他の史料で補ったのだろうと私は想像します。
『吾妻鏡』に比べると、日時だけでも慈光寺本は本当に無頓着で、下巻に入って以降、最初に明確な日付が記されるのは「承久三年六月八日ノ暁」、糟屋久季と「筑後太郎左衛門有仲」(五条有長)が後鳥羽院に尾張河合戦の結果を報告した場面です。

(その50)─「洲俣河原ニシテ纔ニ戦フトイヘドモ、皆落ヌル」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/abfe3f518960f8febf8b0841fc347508

そして二番目は「六月十四日ノ夜半計ニ」、渡辺翔・山田「重貞」(正しくは「重忠」)・三浦胤義の三人が全面的敗北を後鳥羽院に報告した場面です。

(その53)─「カゝリケル君ニカタラハレマイラセテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f263e58f5c29509706d6166498b7e1f6

慈光寺本に比べれば流布本での日時の記録は遥かに多いものの、それでも『吾妻鏡』と照合して、この出来事はこの日で間違いなさそうだ、と判断せざるを得ない箇所も多いですね。
さて、事実としては六月六日に起きたであろうことは確実な山田重忠の杭瀬川合戦は、慈光寺本で六月八日と十四日の日付が記される二つの記事の間に置かれています。

(その51)─「杭瀬河コソ山道・海道ノタバネナレバ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a
(その52)─「小玉党三千騎ニテ寄タリケリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/707b870911ddacde83650b8458368cb6

この記事で山田勢と「小玉党」の人数が相当に水増しされているであろうことは既に検討済みですが、それ以外でも、この記事は本当に変なものです。
例えば、「山田殿」の配下が一番から十番まで仰々しく列挙されているものの、これらの人々は全て「未詳」(久保田淳氏)であり、「小玉与一」も「未詳」(同)です。
また、「小玉党ガ申〔まうす〕ヤウ」と、主語が具体的な人名ではなく「小玉党」となっているのは極めて奇妙です。
更に、単に量的に水増ししているだけでなく、特に重要人物でもない連中を一番から十番まで列挙するのは、「国王兵乱十二度」等に伺われる慈光寺本作者の「数字マニア」的な性格の現われと思われます。
そして、私が特に注目したいのは「一番ニハ諸輪左近将監」と筆頭に挙げられる人物です。
この人物は山田から「諸輪左近将監、懸〔かけ〕ヨ」と言われて、「懸様ニテ小金山ヘゾ落ニケル」、即ち山田の指示通りに「小玉与一」に向って行くように見せかけながら、実際には逃亡しています。
こうした人物類型は、早稲田大学教授の大津雄一氏が大好きな「したたかな人々」の典型ですね。
まあ、「したたか」というよりは、思想や理念に従うのではなく、単純な欲望に忠実な単純な人々と考える方が適切でしょうが、とにかくこうした人物を好んで描くのは慈光寺本作者の重要な特徴の一つではあります。

「武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである」(by 大津雄一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2

とすると、本来は宇治川合戦を置くべき位置に、史実としては六月六日に起きたことが明らかな杭瀬川合戦の記事を「埋め草」として置いたのは慈光寺本の作者自身で間違いないように思われます。
作者がどのような意図でこうした「埋め草」記事を置いたのかはともかく、これを置いたのが作者自身であれば、客観的には慈光寺本が宇治川合戦という中核的な要素を欠く「未完成品」であっても、作者の主観では一応の「完成品」となりそうです。
また、作者自身の「埋め草」が存在する以上、作品が成立した後、第三者による故意や過失で後発的に「欠落」が生じたと考えることも無理となります。

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