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田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その8)

2023-04-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で『尊卑分脈 第二篇』(吉川弘文館、1972)での秀能の項がやたら詳しいと書きましたが、参考までに全文引用してみると、秀能の名前の右に「哥人」、左に「母同秀康」とあり、少し離れて下の方に、

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元土御門内大臣通親公家祗候十六歳時被召後鳥羽院北面西面〔西面わまか无〕被聴堂上新古今集撰定之時加和歌所寄人武者所有官 滝口 左兵衛尉 左衛門尉 主馬首 従五上 河内守 獄執行官人 防鴨河判官 使大夫尉 兼出羽守 承元四年十二月廿ニ日任廷尉 同廿三日後朝 同五年正月七日畏日自三条坊門烏丸出立─ 建暦二年五月為院宣御使下向鎮西 九月上洛 建保四年三月六日兼任出羽守東寺仏舎利盗人依搦取之追捕賞云々 以此賞舎兄秀康兼右馬助加造法勝寺九重塔行事<永保二人例依有之也> 建保五年十二月依松尾北野行幸賞従五位上 承久三年兵乱之時追手大将也 乱之後於熊野山出家法名如願為秀康子家文元者輪違<中ニ菱無之>也而自後鳥羽院下給梶葉可為家文之旨依 勅定為当家文 仁治元年五月廿一日卒<五十七>
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とあります。(p408)
「わまか」云々は諸本による異同を示すものです。
ここに確かに「承久三年兵乱之時追手大将也」と書いてありますね。
ついでに右隣りの秀康も見ると、名前の右に「従四下」、左に「母伊賀守源光基女」とあり、少し離れて右に、

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鴨幷賀茂両社台飯此時初置之次下上社間河堤以一日中築進之大内紫宸殿已下造進 次鳥羽殿十二間御厩令造進之後鳥羽院御厩奉行并御牛飼以下奉行同院〔わまか无〕北面西面又備中備後美作越後若狭等〔わまか守〕国一度給之滝口左兵衛尉有官兼任主馬首 左衛門尉 下野守 武者所 上総介 若狭守 伊賀守 河内守 備前守 淡路守 使大夫尉 右馬助 乃登守 承久三年兵乱時院御方総大将初度向美乃国豆戸追手大将軍也合戦之後於河内国佐良々自害了
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とあります。
ただ、冒頭の「鴨幷賀茂両社台飯此時初置之」は何だか唐突な記述で、「此時」とはいったい何時なのか。
どうも、ここには何らかの理由による欠落があるように感じられます。
ここ以外にも『尊卑分脈』には変な記述があって、秀能の猶子・能茂に関する記述は特に変です。
即ち、一番最後に「文永五年七月十六日卒 歳六十四」とありますが、文永五年(1268)に六十四歳では元久二年(1205)生まれとなり、あまりに若すぎて能茂の経歴と適合しません。
この点、田渕氏は左横の秀茂の記述との混同があるのだろうとされています。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ca6d33e117a14d9dd7df1b14b26ef

また、秀康・秀能の弟の秀澄の記述も少し変で、「後鳥羽院北面西面承久乱時墨俣大将搦手也件合戦打死了」ですから、これでは墨俣の戦いで討死したとしか読めませんが、実際には秀澄は秀康と一緒に大和国から河内国讃良に逃れ、そこで殺されます(『吾妻鏡』承久三年十月十六日条他)。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-10a.htm

このように秀能一族に関する『尊卑分脈』の記述は、妙に詳しい反面、誤りも多く、これは秀能に関する「承久三年兵乱之時追手大将也」の記述の信頼性に影響を与えるものと私は考えます。
さて、今まで私は田渕氏の見解にほぼ全面的に賛同できたのですが、「三 北条氏との関係」に入ると、間違いではないとしても、秀能が承久の乱に参戦しなかった理由として挙げるのは、ちょっと弱いように感じられます。
田渕氏は「以上のような諸点から、秀能は承久の乱には直接─少なくとも将軍としては─参戦しなかったと考えるのが妥当ではないかと思われる。その経緯はまったくわからない」(p62)と書かれていますが、私は田渕氏が集めた資料と田渕氏の分析に照らせば、秀能が参戦しなかった理由は自明ではないかと思います。
それは、秀能が京方の敗北を確信していたからですね。
藤原秀郷流の秀康・秀能一族はもともと東国の出身であり、東国の有力御家人の多数と、遠近はともかく親族関係にあります。
そして、田渕氏が書かれているように、承久の乱以前から秀能は北条氏との相当の交友関係があり、幕府の実情について詳しい知識を得ていたはずです。
とすれば、同母兄の秀康を始め、後鳥羽院の周辺が義時追討に熱を上げているのを見て、秀能はその見通しの余りの甘さに大変な不安感を抱いていたのではないかと私は想像します。
逆に後鳥羽院の側から見れば、下北面程度がせいぜいの秀能に、兄・秀康とともに大変な恩顧をかけてやったのだから秀能が自分の味方をするのは当然だと思っていて、秀能が反対意見を述べるのに驚愕し、兄・秀康などに説得を命じたものの、秀能が断固として応じないのを見て怒り狂ったのではないかと思います。
秀能にしてみれば、自分以外はみんな狂ってしまったのではないかと思われて、大変な孤独を感じたでしょうね。
田渕氏は「将軍でなく一兵卒として出陣した可能性もないとは断定できない」(p61)と言われますが、「総大将」の秀能の同母弟で、武士としても極めて有能だった秀能が「一兵卒として出陣した可能性」は皆無と断定してよいと私は考えます。
ただ、別に秀能は西園寺公経・実氏父子のように鎌倉側に通じている立場ではないので、最終的に説得をあきらめた後鳥羽院は「勝手にしろ」と放置したのだと私は想像します。
いずれにせよ、武将として極めて有能な秀能が参加しなかったことは京方にとって大変な痛手であり、後鳥羽院は戦後も決して秀能を許しはしなかったと思います。
戦後の二人の微妙な関係は、後鳥羽院が鎌倉側との関係が良好だった秀能(如願法師)を自身の還京に利用したいという思惑をもって接していたと考えることで一番素直に説明できると思いますが、この点は後で論じます。

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