学問空間

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0160 『難太平記』をどこまで信頼できるか。(その1)

2024-09-08 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
兵藤裕己氏は『難太平記』を極めて重視されていて、『難太平記』の記述から演繹的に『太平記』の成立過程等を論じている。
そして清水克行氏(明治大学教授)など多くの歴史研究者が兵藤説の影響を強く受けている。
例えば清水氏は、『難太平記』に尊氏が「降参」したという表現があることから「現存する『太平記』では、穏当な内容に修正が施されているらしい」と推測されている。
そこで、『難太平記』をどこまで信頼できるかを検証するため、本当に今川了俊が見た『太平記』に「降参」の二字があったのかを検討してみた。
結論として、「降参」はあくまで了俊の解釈であって、『太平記』自体には存在しない表現だったろうと私は考える。
『難太平記』は安易に依拠できない史料。

難太平記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98
「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)


史料編纂所蔵の西源院本『太平記』は「きわめて精確な影写本」なのか。〔2020-10-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18df59761a3720db615b4d2a59071683

「『太平記』研究はこの二十年、何を明らかにしたか」(by 小秋元段氏)〔2020-10-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a681d594bf8c5e2e55f353fe5d8833d1

兵藤説の歴史学研究者への影響─清水克行氏の場合(その1)(その2)〔2020-10-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8475150bf339ddf02c057ac1843011ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f125dfcf52d111bbf8171dfb2f7f3cd

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)~(その11)〔2020-10-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e87381cb1d9254070905e3a1d3e5fe82
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3d211b9ad0dff14e28d8486f5c62866
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d431b73290254e3e146776bbfd35042e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da6bf07d6b30f3f011d455d929651d20
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25747ea4cf8c55f09a64bafe1b6d6044
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4dbdce2e2857d750af5d75bfdecb668c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13d2c7d1d9e4c7c5733b2666510a0273
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0159 『太平記』のタイトルと作者、そして最終記事についての一応の私見(その2)

2024-09-07 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第159回配信です。


一、前回配信の補足

「原太平記」の内容について〔2021-07-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4d4177a2983469da3583893b8baa9789

「原太平記」復原の試み、と書いてはみたものの、実際には考え方の方向を示したのみ。
実際の復元は夢のまた夢か。
例えば、直義の治世での一代イベントといえば天龍寺建立だが、現存の『太平記』の内容は山門の主張が強く出すぎていて、直義が見たら怒りそうな話。
私としては、直義に提出した際の「原太平記」は直義の治世を寿ぐ穏当な内容で、直義の失脚・死去後に山門寄りの『太平記』作者が好き勝手に書いて今の内容となったものと考える。
一応の合理的な説明にはなると思うが、では、直義の見た「原太平記」の内容を復元せよ、と言われたら、実際には困難。
天龍寺建立の例で、山門の奏状や禅宗(夢窓疎石)批判など、直義があまり喜びそうもない記述を単純に削除したら殆ど無内容になってしまう。
なお、『太平記』というタイトルは、直義に提出したであろう時点ではそれなりに平穏な時期が続いており、直義の治世を寿ぐ目出度い意味もあって適切であったのではないか。
そのタイトルは、観応の擾乱以降にはいささかアイロニカルな感じになってしまったが、いったん定まってしまった以上、敢えて変えようとはしなかったのではないか。


二、「「原太平記」復原の試み」の続き

「原太平記」復原の試み(その4)(その5)〔2021-07-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2559bbece9b55db620711f220ef1d445
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4d4d304ce5946c806084f89076071a89
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0158 『太平記』のタイトルと作者、そして最終記事についての一応の私見

2024-09-06 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第158回配信です。


2020年10月、兵藤裕己氏の見解に対し、かなり批判的な意見を述べた。
ただ、その時点での私見は、未だ『太平記』の個別論点についてきちんと検討した結果ではなかった。
その後、『難太平記』の信頼性、建武政権期における足利尊氏の役割、尊氏の征夷大将軍就任が遅れた理由、歌人としての足利尊氏、赤橋登子の役割等について検討した上で、2021年7月に一応次のような「原太平記」復元案を考えてみた。
この私見は現時点でも一応維持できるものと考えているが、ここに至るまでの過程を改めて検証し、より議論を深めて行きたい。

「原太平記」復原の試み(その1)~(その5)〔2021-07-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29a412937ea675a3ee445828c3442ae7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/398c26c13b7f263e05619a4ad79a7614
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58b7ba2a02a939fe5bb6456342bfbdd9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2559bbece9b55db620711f220ef1d445
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4d4d304ce5946c806084f89076071a89
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0157 『太平記』をめぐる国文学界と歴史学界の交流(その5)

2024-09-05 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第157回配信です。


一、前回配信の補足

「牛頭馬頭」の読み方
https://x.com/uizhackiinmuufb/status/1831476137312309648

23:30あたり「ぎゅうとうばとう」と読んでいるが、正しくは勿論「ごずめず」。
https://www.youtube.com/watch?v=phCk0S0caxE

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その13)〔2020-10-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7928e07a520ead1400b0094a5b3d5d21

結城宗広(1266‐1338)

兵藤裕己校注『太平記(三)』p396以下
-------
結城入道堕地獄の事
 中にも、結城上野入道が乗つたりける船は、悪風に放たれて、渺々たる海上にゆられ漂ふ事、七日七夜なり。すでに海底に沈むか、羅刹国に堕つるかと覚えしが、風少し静まりて、これも伊勢の安濃津へぞ吹き着けける。
 ここにて十余日を経て、なほ奥州へ下らんと、渡海の順風を待ちける処に、道忠、俄かに病を出だして、起居も叶はず、定業極まりぬと見えてければ、知識の聖、枕に寄つて、「この程まではさりともとこそ存じ候ひつるに、御労り日々に随つて重らせ給ひ候へば、今は御臨終の日遠からずと覚へて候ふ。相構へて往生極楽の御望み惰〔おこた〕る事なくして、称名の声の中に、三尊の来迎を御待ち候ふべし。さても、この世には何事をか思し召し置かれ候ふ。御心に思し召されん事候をば、仰せ置かれ候へ。御子息の御方へも申し候はん」と申しければ、この入道、すでに目を塞〔ふさ〕がんとしけるが、かつぱと起きて、からからと打ち笑ひ、わななきたる声にて申しけるは、「われすでに七旬に及んで、栄花身に余りぬれば、今生に於ては一事も思ひ残す事候はず。但し、今度罷〔まか〕り上つて、つひに朝敵を滅ぼし得ずして、空しく黄泉の旅に赴き候ひぬる事、多生広劫の妄念ともなりぬと覚え候ふ。されば、愚息にて候ふ権少輔〔ごんのしょう〕にも、わが後生を弔はんと思はば、供仏施僧の作善を致すべからず。称名読経の追費をもなす事なかれ。ただ朝敵の首を取り、わが墓の前に懸けて見すべしと申し置きける由を、伝へて給はり候へ」と、これを最後の言〔ことば〕にて、刀を抜いて逆手〔さかて〕に持つて、歯喰〔はがみ〕をしてぞ死にける。罪障深重の人多しと云へども、終焉の刻〔きざみ〕、これ程の悪相を現ずる事は、未だ聞かざる所なり。
 げにもこの入道が平生の振る舞ひを聞くに、十悪五逆の大悪人なり。鹿を狩り、鷹を使ふ事は、せめて世俗のする所なれば、いかがせん。咎なき者を打ち縛り、僧尼を害する事、勝計すべからず。常に死人の生頸〔なまくび〕を見ねば、心地の蒙気するにとて、僧俗男女を云はず、日ごとに二三人が頸を切つて、わざと目の前にぞ懸けさせける。されば、かれが暫くも居たるあたりは、死肉満ちて屠所の如く、尸骸〔しがい〕積んで九原の如し。
-------


二、中国故事の引用

亀田俊和氏「『太平記』に見る中国故事の引用」(『古典の未来学』所収)
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-39-5.html

p711以下
-------
一、はじめに

 『太平記』には多数の中国故事が引用され、それに関する研究も豊富である。それらの研究は、中国故事の原典に注目する傾向がある。すなわち、原典と『太平記』の引用との異動や異本・伝承の混入を解明するものや、あるいは作者の中国の歴史や漢籍に関する教養を考察する論考が主流である。
 中でも一九八〇年代後半に黒田彰が、『太平記』の中国故事に幼学書の影響が強く見られ、特に中世日本で独自の和様化を遂げた『史記』理解(「中世史記」)に依拠していることを指摘したことが注目される。これは同記作者の漢籍に関する知識や教養が、従来考えられていたよりも通俗的であったことを明らかにした点で画期的であったと筆者は理解している。
 その後、邱璐が黒田の研究視角を継承し、作者が中国故事のストーリーを同記の世界観に合わせて自由に改変する場合があったことを指摘し、同記を「百科全書」と評価する見解を批判した。邱はまた、『太平記』作者の中国古典受容に限界面もあることを指摘した。このように近年は、作者の教養や学力を限定的に見る見解が有力となっているように見受けられる。最近では、森田貴之も『太平記』作者の宋学理解が実際の宋学とはかなり異なっていたことを指摘している。
-------


三、兵藤・呉座対談の続き

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その16)(その17)〔2020-10-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/103e93a6e450f73e5693a88e8226c963
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c6970ab230a337886d62cb29cb1729b
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0156 『太平記』をめぐる国文学界と歴史学界の交流(その4)

2024-09-04 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第156回配信です。


一、前回配信の補足

「太史の官」エピソードについて、亀田俊和氏より、これはそもそも創作で、漢籍にはない話とのご教示あり。
斉の話を唐の出来事に改変したことが江戸時代の『太平記鈔』で考証されていて、兵藤氏もその旨を岩波文庫に注記されているとのこと。
また、玄宗は兄ではなく息子の后を自分のものとしている。
従って、『太平記』の作者には、事実をありのままに正確に書き残そう、といった高尚な目的は全くなかったのではないか、とのこと。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その11)〔2020-10-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f

兵藤裕己校注『太平記(五)』p381以下
-------
 また、忠臣の君を諫め、世を扶〔たす〕けんとする振る舞ひを聞くに、皆〔みな〕今の朝廷の臣に似ず。唐の玄宗皇帝に、兄弟二人おはしましけり。兄の宮をば、寧王と申し、御弟をば、玄宗と申しける。玄宗、位に即かせ給ひて、色を好む御意〔おんこころ〕深かりければ、天下に勅〔みことのり〕を下して、容色の妙なる美人を求め給ひしに、後宮三千の顔色、われもわれもと金翠〔きんすい〕を飾りしかども、天子、二度と御眸〔まなじり〕を廻らされず。ここに、弘農の楊玄琰〔ようげんえん〕が娘に、楊妃と云ふ美人あり。養はれて深宮にあれば、人未だこれを知らず。天の生〔な〕せる麗しき貌〔かたち〕なれば、更に人の類ひとは見えざりけり。或る人これを媒〔なかだち〕して、寧王の宮へ参らせけるを、玄宗、聞こし召して、高力士と云ひける将軍を差し遣はして、道より奪ひ取つて、後宮へぞ冊〔かしず〕き入れ奉りける。
 寧王、限りなく本意〔ほい〕なき事に思し召されけれども、御弟ながら、時の天子とて振る舞はせ給ふ事なれば、力及ばせ給はず。【中略】
 それ天子の傍らには、太史の官(255)とて、八人の臣下、長時に伺候して、君の御振る舞ひを善悪に就けて註〔しる〕し留め、官庫に収むる慣ひなり。この記録をば、天子も御覧ぜられず、傍〔かた〕への人にも見せず、ただ史書に書き置て、先王の是非を後王の誡めに備ふる者なり。玄宗皇帝、今寧王の夫人を奪ひ取り給へる事、いかさま史書に註されぬと思し召されければ、ひそかに官庫を開かせて、太史の官が註す処を御覧ずるに、はたしてこの事ありのままに註し付けたり。玄宗、大きに逆鱗あつて、この記を引き破つて棄てられ、史官を召し出だして、首をぞ刎〔は〕ねられける。【後略】
-------

-------
255 史官(記録を司る官)の長。以下の唐の太史の話は、斉の太史の話をもとにするという(太平記鈔)。斉の棠公の未亡人を手に入れた崔杼が、未亡人と通じた荘公を殺した。斉の太史がそれを記録すると、崔杼は太史を殺し、次にその弟が記録すると弟も殺した。さらにその弟が同様に記録したとき、崔杼はこれを許した(史記・斉太公世家)。
ーーーーーーー

崔杼(?‐紀元前546)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%94%E6%9D%BC
楊貴妃(719‐756)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%B2%B4%E5%A6%83


二、兵藤・呉座対談の続き

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その13)~(その17)〔2020-10-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7928e07a520ead1400b0094a5b3d5d21
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c29e1413d1cd4d272f935b24c4fa5cf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63132f0b57a404768dfb1b07b436cd82
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/103e93a6e450f73e5693a88e8226c963
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c6970ab230a337886d62cb29cb1729b
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0155 『太平記』をめぐる国文学界と歴史学界の交流(その3)

2024-09-03 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第155回配信です。



兵藤・呉座対談を検討したのは2020年10月。
その後、『太平記』の周辺を彷徨した結果、翌2021年7月に一応次のような「原太平記」復元案を考えてみた。
あくまで中間的な試案だが、私の議論はこうした方向に進んで行った。
その過程を改めて検証し、採れるものと捨てるべきものを分け、より議論を深めて行きたい。

「原太平記」復原の試み(その1)~(その5)〔2021-07-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29a412937ea675a3ee445828c3442ae7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/398c26c13b7f263e05619a4ad79a7614
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58b7ba2a02a939fe5bb6456342bfbdd9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2559bbece9b55db620711f220ef1d445
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4d4d304ce5946c806084f89076071a89
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0154 『太平記』をめぐる国文学界と歴史学界の交流(その2)

2024-09-02 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第154回配信です。


一、前回配信の補足

兵藤裕己氏は国文学界ではかなり異端的な存在。
その陰鬱な民衆史観は、『太平記』の乾いた高度な笑いの世界と相性が良くないのではないか。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その1)~(その5)〔2020-10-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db63ea4c3d8fad2ca351f503f523a7d5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b10fc4c22ae093fc1776769e443e0b67
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/397a6b5b4ababeff3dd8f8af7ab25f14
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bc1bfde6a6e1621b5924a3a068f5c86f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30c279b88bdfbaa1b77daf695e74ae07

兵藤裕己『<声>の国民国家・日本』について〔2020-10-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9d1b9cf9634ceaf8c0d75a81f819d31

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その6)〔2020-10-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cef9693be40e9a4ec751aedf869b236

二、兵藤裕己・呉座勇一対談の続き

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その7)〔2020-10-09〕

史料編纂所蔵の西源院本『太平記』は「きわめて精確な影写本」なのか。〔2020-10-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18df59761a3720db615b4d2a59071683
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0153 『太平記』をめぐる国文学界と歴史学界の交流(その1)

2024-09-01 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第153回配信です。


『太平記』については、私も2020年9月から翌年9月まで、約一年間をかけて検討。
その中で、『太平記』をめぐる国文学界と歴史学界の交流についても随時触れている。
現時点で、その交流の様子を概観するのに最も便利なのは兵藤裕己と呉座勇一氏の対談「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019年11月)ではないか。
『太平記』初級者の参考とするため、この対談のさわりの部分を少し紹介したい。

四月初めの中間整理(その1)〔2021-04-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58a9690364e67cd32698c73544e024b9
【中略】
四月初めの中間整理(その17)〔2021-04-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その1)〔2020-10-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db63ea4c3d8fad2ca351f503f523a7d5
【中略】
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その17)〔2020-10-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c6970ab230a337886d62cb29cb1729b
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