学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

0204 東京大学中世史研究会10月例会のこと

2024-10-31 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第204回配信です。


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日時:10月30日(水)18:00~21:00
会場:東京大学史料編纂所大会議室
報告者:石渡正樹氏(学習院大学博士後期課程)
題目:「後高倉皇統と九条道家政権」
○参考文献
曽我部愛「後高倉王家の政治的位置―後堀河親政期における北白河院の動向を中心に―」(『中世王家の政治と構造』同成社、2021年、初出2009年)
井上幸治「九条道家―院政を布いた大殿―」(平雅行編『中世の人物 京・鎌倉の時代編3 公武権力の変容と仏教界』清文堂出版、2014年)
海上貴彦「鎌倉期における大殿の政務参加―摂関家の政治的転換点をめぐって―」(『日本史研究』692、2020年)

http://www2.ezbbs.net/31/shikado/

曽我部愛『中世王家の政治と構造』
http://www.douseisha.co.jp/book/b594756.html

p39以下
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 最後に本章で論じてきたことを整理したい。承久の乱後、幕府の意向を受けて成立した後高倉王家は、北白河院の出自に由来する人的基盤を有していたが、王家としては不十分なその基盤をより強固なものとするため、他権門たる摂関家に積極的に関わり、安貞二年には関白交代を実現させた。また後堀河親政期を中心に追善仏事の整備を通して後白河から高倉─後高倉─後堀河─四条へと継承する新たな皇統の生成を企図した。さらにその皇統の経済的基盤となる室町院領をはじめとした新たな所領の形成および獲得を図り、皇位皇統としての自身の確立を目指した。
 本章では以上のように一つの政治主体として後高倉王家を位置づけてきた。しかしその主体性は、四条天皇期に至って失われたと考えられる。九条道家の摂政就任以後、協力体制にあった道家と西園寺公経、北白河院の三者の関係が、四条の即位の段階に至って変化したことはすでに述べた。後堀河の譲位の段階から表面化しつつあった外戚としての道家・公経の専横は、譲位の翌年に抑止力であった後堀河が死去したことで、ますます顕著となった。その結果、院という要を欠いた後高倉王家は、しだいに王家としての自立性を失っていったと考えられるのである。それは北白河院の立場の変化にも表れている。四条即位と同時に北白河院はそれまで保持していた院分国美濃国を手放し、それは後堀河から四条母で道家の娘藻璧門院に与えられた。北白河院から藻璧門院への国母の交代である。さらに道家は四条即位後の北白河院を「帝之祖母先代皆被重之」と評している。したがって後高倉院没後から院不在の後高倉王家の中心となって行動してきた北白河院は、四条即位とともに国母・後家としての権威と意義を喪失し、道家達によってしだいに政治的発言権を奪われていったと推測できる(71)。
【後略】

(71)北白河院は嘉禎四年十月三日に没しているが、没後も四条隆親の夢に現れ四条天皇の急逝を予言し「後堀河院御遺跡散々削跡、返々心浮事」と嘆く姿からは、彼女が後高倉王家の象徴として周囲に認識されていたことを示していよう(『平戸記』仁治元年閏十月七日条)。
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北白河院(持明院陳子、1173‐1238)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E6%98%8E%E9%99%A2%E9%99%B3%E5%AD%90
九条道家(1193‐1252)
法助(1227‐84)
「有明の月」は実在の人物なのか。〔2018-03-05〕


0054 花田卓司氏「足利義氏の三河守護補任をめぐって」〔2024-03-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da0de9d2a4cd1dd60dfff359a9b38a7e

四条隆親と隆顕・二条との関係(その1)~(その5)〔2022-12-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/80d08c9a35f13cc002d83aa60b841a2d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e66191c8e32d66910c03c1611506d53e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/191ea5eb6fde00ee3f4943ada1c489e8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3de9dbe3862b7081de0af9fb4df198f3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2336059caba4894c63f86b8c4504ab7

百瀬今朝雄校注「正元二年院落書」(『日本思想体系22 中世政治社会思想下』、岩波書店、1981、p342以下)
https://web.archive.org/web/20081229224731/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shougen2nen-rakusho.htm

平田俊春「四條隆資父子と南朝」(『南朝史論考』、錦正社、1994)
https://web.archive.org/web/20130212213433/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hirata-toshiharu-sijotakasuke.htm
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資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その4)

2024-10-30 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)〔2024-10-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)〔2024-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8eae47e3f7e0158b13537df6c17b460e

『日本史籍論集 下巻』p151以下
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 一〇回以上記載されている諸氏が、足利一門では細川、足利被官では高の各一氏、外様では赤松・少弐・大友の三氏のみであることは諸本に共通する現象である。但し流布本では細川・少弐氏が相匹敵し、次には高・赤松両氏が相拮抗しているのに対して、京大本と天理本は、少弐・細川・高・赤松の順であるのが異なり、ことに京大本では少弐氏が際立って多く、細川氏は少弐氏の三分の二程度の頻度を示すに過ぎない。なお寛正本は下巻のみの数値であるが、他の三本でも少弐氏ほか数氏の記事は下巻に限られるので、寛正本における少弐氏の頻度は流布本と同様で、京大本と天理本の間にあることが知られる。かくて主に寛正本と京大本から判断すると、原本でもおそらく細川氏関係よりも少弐氏関係の記事の比率がかなり大であったことを推察しうるのである。
 さらに寛正本・京大本および天理本に現れる細川関係記事と少弐関係記事の内容を検討すると、細川氏は主として「細川ノ人々」として一族単位で叙述されており、個人名としては室津における諸将分遣記事に従兄弟七人が列挙されている外は、頼春と定禅・直俊兄弟の活動がそれぞれ数ヵ所に記されているに過ぎない。ところが少弐氏の活動は、大部分が妙恵と頼尚の個人名で記され、この父子の言動が多くの感懐を交えて頗る詳細に叙述されている。細川一族を賞揚した記事は、僅かに建武三年正月廿七日の一族の奮戦を、「相残ル敵ヲ追払ケレハ御感再三也キ其比卿定禅ヲハ鬼神ノ様ニソ申セシ」(寛正本)とした一個所のみである。しかるに少弐父子については、九州に奔った尊氏・直義が少弐氏の協力によって危機を脱したのは事実にせよ、『梅松論』は妙恵の討死を口を極めて称賛し、尊氏・直義がその死を悼んだことを縷述し、頼尚の勇武を讃え、その尊氏に対する進言を数ヵ所に詳述するなど、過褒ともいうべき内容で満たされている。
『梅松論』の細川氏および少弐氏関係の記事を『太平記』のそれらと比較すれば、『梅松論』の叙述の不均衡は一層明らかである。『太平記』は定禅の勇猛振りのごときは『梅松論』に劣らず活写しているが、少弐父子の活動については『梅松論』よりも遥かに簡単に述べているに過ぎない。一方『太平記』が妙恵自刃の件りに、少弐一族の大半が菊池方に内応した旨を伝えているのに対して、『梅松論』は全くそのことに触れず、一族家人五百余人が妙恵とともに討死自害したとしているのである。要するに『梅松論』の「溢美」という潜鋒の評価は、正に少弐氏関係の記事に対して向けられるべきものといわなければならない。
 もちろん、だからといって、『梅松論』原本の作者を少弐氏の直接関係者とするのは速断であろう。本書の記述が上巻では全く少弐氏の動向に触れず、また足利一門の中では細川氏に著しく片寄っているのは事実であるし、外様諸将の中では少弐父子に次ぐ比重を以て赤松円心の言動を詳述していることも認めなければならない。それゆえ、原作者は幕府関係者に相違ないとしても、必ずしも特定の一氏の行動のみを記述しようと意図したわけではなく、偶々少弐氏、次いで細川氏、さらに赤松・高などの諸氏の所伝を利用し易い立場にあったとみることは不当でない。しかしながらこの原作者に、少弐氏に格別の親近感を抱く何等かの事情が存在したことだけは否定しえまい。諸本に、少弐頼尚の旗に綾藺笠を付けてあることを特記し、さらに京大本は「是ハ天神眷属御霊ノ影向アテ蝉口ニ御座ノ故ニ昔ヨリ当家庭訓也」とし、天理本、流布本にも同様の語句がある。また諸本とも、尊氏勢の奇瑞を述べて「此合戦ノ度ゴトニ天神ノ使者御霊宮影向アテ光ヲ輝カシ給」(寛正本)という如き記述を載せている。そもそも本書が北野の神宮寺毘沙門堂における物語という設定をとり、飛梅老松に因んだ書名を付けたという記事で結んでいることも、或は天満天神・大宰府・少弐氏という縁由に沿って解釈すべき事柄であるかも知れないのである。
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資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)

2024-10-30 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)〔2024-10-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e

『日本史籍論集 下巻』p149以下
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 著作年代について最も有力であったのは、菅政友の貞和五年(一三四九)説であった(『菅政友全集』所収「梅松論二冊」)。政友は自説の論拠を流布本『梅松論』巻末の崇光院即位の記事とそれに続く「将軍の威風四海の逆浪を平け干戈といふ事も聞えす」という叙述に置き、上巻後醍醐天皇隠岐遷幸(元弘二年、一三三二)の記事の「光陰既にうつり来て廿余年に成ぬれば見をきし事とも思ひ出すにつけても」云々の語句を、「廿余年ハ、十余年ヲ後ニ写シヒカメタルニヤアラン」と主張して、自説の年代に適合させようとした。この政友の説は、その後殆ど無条件に諸氏の踏襲するところとなったが、只、五十嵐梅三郎氏は前掲論文中に、政友の十余年云々は「結局憶測に過ぎない」として、「廿余年という文句に従って(中略)尠くとも正平七年以後数年間に作られたものであらう」と主張され、また釜田氏は『心の花』所収論文に「廿余年は十余年を後に移しひがめたのではないかと論定したのは、むしろ窮屈で、私は貞和五年以後(下限を十年間と定めない)の執筆とみるのを妥当とする」と述べておられる。五十嵐氏の説は明快ではあるが論拠が充分でなく、釜田氏の見解は政友の説に半信半疑ともいうべき感想に留まっている。
 諸本を検討すると、右の隠岐遷幸の部分は、管見に触れた流布本系写本にすべて「廿余年」とあるばかりでなく、京大本には「光陰移来テ過ニシ廿余年ノ夢ナレハ見置事共ヲ思出テモ」とあり、天理本には「光陰移リ来テ過ニシ方廿余年ノ夢ナレハ見置事共ヲ思出ルニ」とあって、「廿余年」はおそらく原本以来の語句であり、写しひがめたという政友の憶測は全く当っていないことが判明し、ここに正平七年(文和元年、一三五二)以後という五十嵐氏の主張は、始めて積極的な論拠を獲得するのである。しかもこの「廿余年」は、「何レノ年ニヤ」という物語上の仮託の年に過ぎず、著述年代を正平七年以後数年間に限定する必然性さえ存在しない。本書が尊氏について「何ナル御大酒ノ後モ一座数尅ノ工夫ヲ成シ給シ也」(寛正本)という過去形を用い、義詮については「実ニ末代ニ永将軍ニテ御座アルヘキ瑞相カトソ覚シ」(京大本)と、将軍就職を予見しているような口吻で叙述しているところから見れば、或は本書の成立時期を尊氏が没して義詮が将軍職を継いだ延文三年(一三五八)以後とする推測も成立しうるのではないか。
 本書の著者については、「足利家属」ないし「僧夢窓之徒」とする説(前掲書陵部本所収、彰考館某の識語)、玄恵とする説(同上所収平祖興子璣「読梅松論」、『南山巡狩録』巻七頭注)、『難太平記』にいう細川和氏の夢想記を本書に当てる説(栗山潜鋒「弁梅松論」)が、江戸時代に提唱されている。細川和氏とする説は既に菅政友が否定しているが、和氏の没年が康永元年(一三三八)と認められること(『国学院雑誌』六七巻八号所収拙稿参照)からも、問題にならない。玄恵著作説は八木格治氏「梅松論とその荷担者」(『京都府立園部高等学校研究紀要』第六集、昭和三十三年)にも「一の仮説」として主張されているが、畢竟根拠に乏しい想像説であり、右のように著述年代が少なくとも正平七年以後と認められる以上、観応元年(一三五〇)に没した玄恵の作ではありえない。
 ところで、五十嵐氏は前掲論文に、『梅松論』は細川一族の記事を最も詳細に記し、これを賞揚しているとして、作者は足利氏を尊敬し、足利方の内部事情に通じていた事、夢窓国師と関係が深かった事などとともに、細川一族に関係のあった者とされた。次に井上良信氏は、折角流布本と京大本との細川関係記事の差異に着目されながら、京大本を後出と見る先入見のために、やはり『梅松論』の著者を細川関係者と主張された。五十嵐・井上両氏は流布本を基として考察されたため、結局「此書記細川氏功、頗為溢美」とする栗山潜鋒の見解を敷衍する結果となったのである。さらに冒頭に触れたように、釜田氏も原本を主として細川氏の口伝とする立場をとっておられる。
 けれども、本稿の検討によって、細川一族に対する讃美・顕彰の多くは流布本の付加した記事に外ならないことが明らかになった以上、細川氏関係者説が原作者に対してよりも流布本の作者(改作者)に帰せられるべきものであることは、もはや多言を要しない筈である。ここに諸本に現れた足利方の主な武将に名字に分けて、その頻度を一覧表にすると上のようになる。

     足利方主要武将名頻度表
    流布本 京大本 天理本 寛正本
   (類従本)        (下巻)
斯波  5    5    5    5
渋川  3    2    3    0
畠山  2    2    1    0
吉良  1    1    1    1
今川  4    4    4    4
一色  2    2    2    2
二木  9    9    9    8
細川  64    45    42    37
上杉  5    4    7    3
高   22    24    24    15
小山  6    6    6    3
小笠原 5    5    5    3
土岐  1    1    1    1
佐々木 3    3    2    3
赤松  22    21    20    16
河野  2    2    2    2
大内  2    2    2    2
厚東  4    2    3    2
少弐  64    71    58    66
大友  17    18    14    13

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0203 『梅松論』の流布本と古写本系諸本の関係について(その1)

2024-10-29 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第203回配信です。


一、当面の方針

『梅松論』の成立時期論について一応の私見を提示したので、いったん『梅松論』から少し離れて成良親王のことなどを改めて検討しようと思っていた。
しかし、流布本の四つの「一つ書」に対応する古写本系の本の箇所を比較してみると、諸本の関係についての通説的見解(小川信説)に疑問が生じてきた。

資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)〔2024-10-08〕
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このように京大本の物語としての構成は最も複雑であり、天理本は稍簡略、流布本は最も簡単である。この場合、仮りに流布本が最も原型に近いとすれば、京大本や天理本は、先代様の語義をめぐる冗長な論議をはじめ、繫雑な問答を文中数ヵ所にわたって付加したことになるが、そのような複雑な改作を敢えてしてまで、わざわざ問答体の体裁を整えるという必要性はきわめて乏しいと言わざるをえない。従って高橋氏の言われるように、流布本の構成が最も簡単なのは省略の結果とみるのが妥当である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc

資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
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 このようにして我々は『梅松論』原本の形態をほぼ復原することが可能となる。それは「ナニカシ法印」を語り手とし、児二人を聞き手、老尼・比丘尼達を書き手とする、鏡物を模倣した体裁を有し、先代様をめぐる論議の部分があり、他方京大本の付加した部分や、天理本・流布本の改作した個所を除去した形態である。かかる原本の性格は、主に流布本に拠っていた本書の著述年代や著者に関する通説にも批判的な材料を提供する筈である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e

(暫定的な私見)
「そのような複雑な改作を敢えてしてまで、わざわざ問答体の体裁を整えるという必要性はきわめて乏しい」というのはあまりに現代的な発想なのではないか。
『梅松論』の作者は実際に足利尊氏の下で参戦した武士の可能性が高い。(小秋元段氏他)
そうであれば、「原梅松論」は貴族的な「鏡物」の伝統に束縛されることなく、『太平記』と同様の武骨な文体、構成を取っていたと考えるのが自然ではないか。
古写本系の諸本は、「原流布本」の武骨さを嫌った、それなりに伝統的・古典的・貴族的な教養を持った人が、「鏡物」という歴史物語の本流に沿った形で、「四鏡」、特に『増鏡』を意識した構成にしたのではないか。


二、流布本の四つの「一つ書」の内容

資料:『梅松論』の終わり方〔2024-10-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899

1、「夢窓国師談義」

(1)「将軍」の一般論
「国王大臣、人の首領と生るゝは、過去の善根の力なるあいだ、一世の事にあらず。ことに将軍は君を扶佐し、国の乱を治むる職なれば、おぼろげの事にあらず」
(2)「異朝の事」
(3)「我朝の田村・利仁・頼光・保昌」
「異賊を退治すといへども、威勢国に及ず」
(4)源頼朝
「右幕下頼朝卿兼征夷大将軍の職、武家の政務を自専にして、賞罰私なしといへども、罰の苛故に仁の闕るか
(5)足利尊氏
「今の征夷大将軍尊氏は仁徳をかね給へるうへに、なを大なる徳在なり」
(具体例)
第一
「御心強にして、合戦の間、身命を捨給ふべきに臨む御事、度々に及といへども、笑を食【含】で怖畏の色なし」
第二
「慈悲天性にして、人を悪み給事をしりたまはず、多く怨敵を寛宥ある事一子のごとし」
第三
「御心広大にして物惜の気なく、金銀・土石おも平均に思合て、武具、御馬以下の物を人々に下給ひしに、財と人とを御覽じ合ず、御手に任て取給ひしなり。八月一日などに、諸人の進物ども、数もしらずなりしかども、皆、人に下し給しほどに、夕に何ありともおぼえず」
(総括)
「実に三つの御躰、末代にありがたき将軍なりと、国師談義のたびごとにぞ仰ありける」

2、「今の両将」の宗教活動(「たゞ人とは申べきにあら」ざる理由)

(1)聖徳太子
「四十九院を作置、天下に斎日を禁戒」
(2)聖武天皇
「東大寺・国分寺を立」
(3)淡海公
「興福寺を建立」
(4)「今の両将」
①「殊に仏法に帰し、夢窓国師を開山として天龍寺を造立」
②「一切経書写の御願を発し」
③「みづから図絵し、自讃御判」
④「御大飲酒の後も、一座数刻の工夫をなしたまひし」

3、「三条殿」の宗教活動とその性格、尊氏との関係

(1)「三条殿」の宗教活動
「六十六ヶ国に寺を一宇づつ建立し、各安国寺と号し、同塔婆一基を造立」
(2)性格
「御身の振舞廉直にして、げに/″\敷〔しく〕いつはれる御色なし」
(3)尊氏との関係
①「此故に御政道の事を将軍より御譲りありしに、同く御辞退再三に及ぶといへども、上御所御懇望ありしほどに御領状あり。其後は政務の事におひては、一塵も将軍より御口入〔くにふ〕の儀なし」
②「ある時御対面の次〔ついで〕に、将軍、三条殿に仰せられていはく、国を治る職に居給上は、いかにも/\御身を重くして、かりそめにも遊覧なく、徒〔いたづら〕に暇をついやすべからず。花、紅葉はくるしからず。見物などは折によるべし。御身を重くもたせ給へと申〔まうす〕は、我身を軽く振舞て諸侍に近付〔づき〕、人々に思付れ、朝家をも守護したてまつらんとおもふゆへなり、とぞ仰られける。此重【条】は凡慮をよばざる所とぞ感じ申されし也」。

※細川顕氏と夢窓疎石のエピソード
「抑〔そもそも〕夢窓国師を両将御信仰有りける始は、細川陸奥守顕氏、元弘以前義兵を揚むとて、北国を経て阿波国へおもむきし時、甲斐国の恵林寺〔えりんじ〕におひて国師と相看〔しやうかん〕したてまつり、則〔すなわち〕受衣〔じゆえ〕し、其後両将之引導申されけり。真俗ともに勧め申されしによて、君臣万年の栄花を開き給ふ。目出度〔たく〕、ありがたき事どもなり」

4、尊氏・直義が「師直并故評定衆をあまためし」た会合のエピソード

(1)尊氏の発言
①源頼朝の略歴
②源頼朝の「政道」
「賞罰分明にして先賢の好するところ也。しかりといへども、猶以罰の苛方多かりき。是によて氏族の輩以下、疑心を残しけるほどに、指錯なしといへども、誅伐しげかりし事いと不便なり」
③尊氏自身の「政道」の方針
「当代は人の歎なくして、天下おさまらん事本意たるあいだ、今度は怨敵をもよくなだめて本領を安堵せしめ、忠功をいたさん輩におゐては、ことさら莫太の賞を行なはるべきなり。此趣をもて、めん/\扶佐したてまつるべきよし仰いだされし」
(2)直義と「師直并故評定衆」の反応
「下御所殊に喜悦ありければ、師直并に故評定衆、各かたじけなき将軍の御意を感じたてまつりて、涙をのごはぬともがらぞなかりし」
(3)総括
「唐尭・虞舜は異朝の事なれば是非におよばず。末代にもかゝる将軍に生れあひ奉りて、国民屋を並、楽み栄けるこそめでたけれ」


三、古写本において流布本の四つの「一つ書」に対応する部分の特徴

資料:京大本と寛正本の終わり方〔2024-10-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1bfa6e29e2a4b6a862b51c2eae5de549
資料:天理本の終わり方〔2024-10-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/50243b73fd0b54e89fdcac5a7fd34be0

1、京大本
「一つ書」は全く存在せず、段落分けもなく、全文が連続している。
流布本の「一つ書」の二番目(「聖徳太子は四十九院を作置」云々)に対応する部分が存在しない。
細川顕氏と夢窓疎石のエピソードは存在しない。

2、寛正本
流布本には四つの「一つ書」があるが、寛正本では二つ。
ただし、二番目はそのまま下巻全体の末尾まで連続している。
細川顕氏と夢窓疎石のエピソードは存在しない。

3、天理本
流布本と同じく四つの「一つ書」がある。
独自の改変が好きな行誉は、この部分に関しては何故にさほど改変を行わなかったのか。
細川顕氏と夢窓疎石のエピソードは存在しない。
コメント (6)
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中世史・中世文学講座(第10回)

2024-10-28 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
毎週土曜日に行っています。

テーマ:『梅松論』を読んでみる。(その3)
 『梅松論』は『増鏡』ほど完成度が高い作品ではありませんが、南北朝時代の武士の思考様式を知るには絶好の書物です。
前回に引き続き、重要場面を少しずつ読んで行きます。

日時:11月2日(土)午後3時~5時
場所:甘楽町公民館

群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡 161-1
上信越自動車道の甘楽スマートICまたは富岡ICから車で5分程度。

連絡先:
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資料:天理本の終わり方

2024-10-26 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
小助川元太『行誉編『壒嚢鈔』の研究』p291以下

※カタカナは読みづらいので平仮名に変更した。 

-------
【前略】越前国金崎は明る建武四年三月六日に責落さる。義貞は先立て囲を出ぬ。子息越後守義顕自害と云々。一の宮も御自害と聞ゆ。春宮をは武士取奉て入洛す。此城に籠輩、兵粮絶しけれは、馬を害して食せしめ、廿日余堪忍しけると云り。生なから鬼類の身と成る。凶徒等の後生の程こそ不便なれ。此城没落せしより東西南北静りて、日本国中惣て御旗の向所、凶徒の誅罰踵を不廻、月日を逐てそ静謐せし。

一 或時夢窓国師談義の次に両将の御徳を条々褒美被申けり。先将軍の御事をは、国王大臣凡て人の首頂と生るゝは、過去の善根力なる間、一世の事に非す。殊に将軍は君を守り国を治むる職なれは、をほろけの事に非す。異朝の事は先置く、昔の田村、利仁、頼光、保昌は名将たりと云共、威ひ国に不及。治承より以来、鎌倉の右幕下頼朝卿、征夷大将軍の職に居し武家として、政務を自専し、賞罰私無しと云共、罰の辛故に仁の闕たる歟と見ゆ。今の征夷大将軍尊氏は、仁徳を兼給上に、三の大徳御座す也。第一に、御心飽まて剛にして、合戦の間に命終に臨事度々に及と云共、笑を含て敢て恐怖の色なし。第二に、慈悲心天性備て、敵をも憎給事なし。凡て人を憎しと云事を不知給して、多の怨敵を寛宥ある事一子の如し。第三に、御意広大にして一切の物に於て物惜の気ましまさす。金、銀、五穀をも平均に思召て、武具、御馬以下の物を人々に下給に、財と人とを不御覽し合せ。御手に任せ、見るに随て給し也。八月朔日の憑なんとに、諸人の進上物山の如く有しか共、皆々人に下し給し間、夕へには何有共不覚由をそ近習の人々も語り給へ。此三の御徳は末代に難有将軍とそ談義の次て毎には申されし。

一、聖徳太子四十九院を作置、天下に斎日を禁戒し、聖武天皇の東大寺、国分寺を立給、淡海公の興福寺を建立し等は、上古の事、皆応化の所変なり。今の両将も凡〔たゝ〕人とは申難し。専仏法に帰し、殊に夢窓国師を開山として天龍寺を造立し、一切経書写の御願を発し、自ら毎日地蔵菩薩の像を図画し、自讃御判あり。又何なる御大急劇の後も、一座数剋の工夫をは闕給事無かりしなり。

一、又下御所<左馬頭殿 号錦小路殿>は、六十六箇の国毎に寺を一宛立て、各安国寺と号し、又塔婆一基を造立して所領を寄らる。御身の振舞は廉直を先として、事に触てけに/\しく偽れる御御色無りし也。此故に政道の事を将軍より一向譲与し奉り給しに、固辞再三に及と云共、上の御所強に御懇望の間、無力御領状あり。其後は政務の事に於ては、一塵も将軍より御口入の儀なし。或時両将御対面の次に、将軍、頭殿に被仰云く、国を治むる職に居し給上は、いかにも/\御身を重くして、仮染にも遊覧の儀無く、徒らに暇を尽さるへからす。政道に私無して、而も諸人を羽含み給へし。是れ尊氏私に申に非す。太宗の重く誡しめ給所也。且は存知し給覧。乍去花紅葉なんと苦しからぬ見物は境〔をり〕に依へし。弟に御身を重く持給へと申すも、我れ文道闕たるに依て、世務を一向譲り奉れは、国家の為めなり。さて我身は非器の上は、軽しく振舞、諸侍に近付、人々に思付れて朝家を守護し奉らんと思故也。全く自由の儀に非すとそ被仰ける。此重凡慮の可及所に非るなり。

一 又或時両御所会合あり。師直并に故き評定衆あまた召れて御沙汰の規式少々被定ける時、将軍被仰て云く、昔を聞に頼朝卿廿年か間伊豆国に於て辛労して、義兵の遠慮を廻らされし時分に、平家の悪逆積に依て、受天与人間、治承四年に義兵を起し、元暦元年に朝敵を平けし合戦、首尾五箇年歟。其より以来武家を立て、政道を行に、賞罰分明也。其趣尤先賢の好する所也。雖然猶罰の辛き方多かりきと聞ゆ。是に依て氏族の輩以下疑心を残ししかは、雖無失錯多く誅罰せられき、最と不便の事也。当代はいかにも人の歎無して、天下治らん事、予か本意たる間、今度は怨敵をも能く宥めて、本領を安堵せしめ、忠功を至さん輩に於ては恩賞を可行也。此趣を以て面々可被補佐也と仰出されけれは、頭殿も同し御所存也とて殊に御悦喜ありけり。是を承し師直并古評定衆各忝なき御意共を感し奉て、涙を拭ぬ人そ無かりける。尓〔しかし〕より後は頭殿、弥よ御学問可有とて、天下無双の名匠玄恵法印と云人を被召て師範とし、聖談底を究められしかは、御政道誠に正しかりき。唐尭、虞舜は異朝の事、延喜、天暦は上古の様しなれは不及是非、末代なから斯〔かゝ〕る将軍に生逢奉そ万民の幸なる。去程に春宮、光厳院の御子受禅あるへしとて、大嘗会の御沙汰有て、公家も誠に花めきて、都も弥繁昌せり。諸国の凶徒も或は降参し、或は退散せしかは、四海の逆浪理りて、将軍の威風に靡かぬ草木も無かりけり。然は合戦と云事も近くは無し。されは天道は慈悲と憲法とを加護し給なれは、此趣きをたに違へ給はすは、彼の御子孫続に於ては周の八百余歳をも超過し、ありそ海の濱の真砂は算は尽す共、此御代の子孫相続し給はん事は譬も無や侍らん。

 さても少人の仰せ背難に依り、鎮西御没落まて申侍ぬ。筑紫人の物語りならんからに空言しけりとは不可思食す。殊更当社の御前にて争てか虚言を申へき。只耳目に触るゝ所を私無く有の侭に申侍也。詞こそ拙く侍れ共、偽りなき軍さ物語にて候と被申けれは、少人、賢こくそ先代様と云不審申出て、面白き御物語承りぬと悦ひ給けり。其時法印倩〔つら/\〕聞て曰ひけるは、誠に両将の御意共こそ殊勝に侍れ。慈悲憲法与して天亦時を与へ申しけんも理りにや。乍去元弘建武の合戦は、開闢以来無比大乱とこそ承り侍れ。然らは罪業も随て広大ならん。責一人に帰すなれは、先皇并に大御所の御罪の程こそ痛しけれ。先世の十善等の戒行に依て、今斯御果報共に生れ給へ共、又此罪業に依て、未来永々必す地獄に堕給へし。爰を以て福は第三生の怨〔あた〕とは申たる也。儒教にも是を誡て情欲無らん事を思へり。殊に合戦は欲の極めなれは、専ら是を誹る。されは唐しの古人は百戦百勝不如一忍t云文を守て一期を持つと云り。道士も偏へに虚無自然の道を立つ。情欲有に依て諍ひ起る。諍起る故に国家乱れ民庶亡ふ。爰を以て万物皆自然也と云ヘリ。老子の大意は、上世より以来、争そひ天下を貪て功名、煩四海悩億兆類、遂には又身を亡ほし命を殞〔をと〕すと。此根源を見聞くに、有欲に依也。故に無欲にして可向道理示すと也。然は道徳二篇五千言にも偏に述此義。仏教又不及申。無欲清浄ならん事を本意とせり。されは大般若経には十八皆空を説て、畢竟空の理を明すも、有執を遮せん為也。悲しき哉。三毒五欲の狂人は、無始無明の執深く、六趣四生の迷類は、自業自得の苦を招く事を、罪に々〔罪〕を重ね、冥より々〔冥〕に入らん事そ歎か敷侍る。哀れ此武士達の、欲情に引れ戦場に望て勇猛なる如く、仏法に入り、道念を発して、暫く也共修行し給へかしと曰ひて、落涙せられけるそ貴とかりし。
 予垣を隔て此物語を聞つ、書付侍余り、名をはいかにと思程に、処から北野の宝前也。御当家の栄花梅と共に開け、御子孫の長久松と徳を均くすへし。其上は当社は飛梅老松を以て要臣とす。然は少童の花やかなる問を梅に擬へ、老僧の答詞の不偽貞心を松に譬へて、梅松論とや可申侍となん。
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資料:『梅松論』の終わり方〔2024-10-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899
資料:京大本と寛正本の終わり方〔2024-10-25〕
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資料:京大本と寛正本の終わり方

2024-10-25 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
(1)京大本(「翻刻・京大本 梅松論」p44以下、『国語国文』三三‐九、1964)

※原文のカタカナは読みづらいので平仮名に変更した。
原文には「一つ書」はなく、全文連続しているが、流布本との異同を明確にするため、流布本の内容に即して改行した。
京大本には流布本の「一つ書」の二番目(「聖徳太子は四十九院を作置」云々)に対応する部分が存在しない。

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【前略】さて越前国金崎は翌年<建武四>三月六日没落す。義貞は先立てかしこを出て、子息越後守義顕自害す。一宮同前春宮は武士迎とり奉て入落。此城兵粮断絶以後、馬を害して食せしめ、廿日余堪忍しける。凶徒等乍生鬼類の身となりけるが不便にぞ覚し。城没落せしより、東西南北日本国中御敵、将〔軍〕に旗を向所々誅め誅罰踵を不廻月日を逐てぞ静謐せし。

或時夢窓国師談義の次に、両将の御徳を条々褒美被申。先将軍の御事を被仰て云、国王大臣人首頭に生るゝは、過去の善根の力なる間、一世の事に非ず。殊に将軍は君を守り国の乱を治る職也。をぼろげの事に非ず。異朝の事はをく。田村利仁頼光保昌、異賊を退治すといへ共威勢国に及ず。治承以来右幕下頼朝、征夷大将軍の職をかね、武家政務を自専し、賞罰私なしといへ共、罰のからき故に、仁のかけたるかと見え、今征夷大将軍尊氏は、仁徳をかね給上に、三の大なる徳まします也。

第一に御心強にして、合戦の間御命終に及事度々なりといへ共、咲を含て怖畏の色なし。
第二に慈悲天性にして、人を悪み給事なし。多の怨敵を寛宥ある事一子の如し。
第三に御心広大にして、物惜の気なし。金銀土石をも平均に思食て、武具御馬以下の物を人々に下給しに、財と人とを御覽し合せず御手に任て取給し也。八月一日の時など諸人の進物多き様にありしかど、皆人に下給し間、夕方には何物ありとも見えずと承る。
誠に三の御徳、末代に難有将軍とぞ、国師は談義の度毎に被申し。

三条殿は六十六ヶ国にくにごとに寺を一宇立て、各安国寺と号。又塔婆一基を造立して、所領を被寄、御身の振舞は廉直に御政道事にをひて、げに/\しく偽れる御色なし。此故に御政道の事を将軍より御譲与ありしに、固辞し給事再三に及といへ共、御所強に御懇望の間、御領掌あり。其後は政務の事に於ては、一塵も将軍三条殿に仰の儀なし。

或時御対面の次に、将軍三条殿に被仰云、国を治る職に居給上は、いかにも/\御身を重くしてかりそめにも遊覧なく、徒にいとまをつゐやす事あるべからず。政道の為宜私あるべからず。花紅葉、くるしからぬ見物など節によるべし。御身を重く持せ給へと被仰ければ、我身を軽く振舞て、諸侍などに近付、人々にも思つかれ、朝家をも守護し奉らんと思ふ故也とぞ被仰ける。此君は凡慮の及ざる所也と感じ申せし也。

或時両御所会合有て、師直并ふるき評定衆あまた召れて、御沙汰の規式少し被定ける時、将軍被仰て云、昔を聞に頼朝卿廿年が間、伊谷に於て辛労して、義兵の遠慮をめぐらされし時に、平家の悪逆によて天の受与、治承四年義兵をゝこし、元暦元年朝敵を平られし合戦、首尾五ヶ年歟。彼政道を伝聞に賞罰分明也。尤先賢のくみする所也。雖然猶以罰のからき方多かりきと聞。因茲氏族の輩以下疑心を残しゝかば、雖無差誤多く誅罰せられき。最不便の事也。

当代は人の歎なくして、天下治乱事本意たる間、今度は怨敵をもよくなだめて、本領を安堵せしめ、忠功を至さん輩に於ては、殊更莫大の賞を可被行也。此趣を以面々補佐し奉るべしと被仰出之間、下御所殊喜悦あり。承之師直并古評定衆各忝将軍の御意を感じ奉り、涙をのごはぬ輩ぞなかりける。唐尭虞舜は異朝のことなれば是非に及はず、末代にもかゝる将軍に生逢奉るぞ、万民の幸なる。

去程に春宮<本景仁光厳院>受禅あるべしとて、大嘗会の御沙汰あて、公家は誠に花の都にぞ有し。今は諸国の凶徒或は降参、或は誅伐せらる。将軍の威風四海の逆浪を平げ、合戦と云事も聞えず。されば天道は慈悲と賢とを加護すべき間、両将の御代は周の八百余歳を超過し、ありそ海の濱の砂なりとも、此将軍の御子孫続たもち給べき御代の数には争か可及と法印語留られしかば、二人の少人覚弁以下云く、先代の謂れ当御代の事、今日こそくもりなき鏡に向ふ心地して候へと、面々喜申けれは、法印明日廿五日参籠の結願也。今は問答を留べしとて、例時の行法に取向給しかば、少人以下社頭へぞ参ける。此時老比丘尼達に向て云、流に画き氷に鏤むとは加様の徒事かや。物籠の勤のひまに古き尼公のをぼろ耳に壁を隔たる物がたり聞て、仰の忝きまゝに、しどろなる筆の跡にて反古の裏などに書置たらんは、我にだもよまれじ。後見の人いかに煩ならん。さりながら一二をつけて重ね、一はまきてと聞ゆれば、尼公あら色もなや、物ならぬ物も、もてなしからにてこそあれ。是程の物語、しる人の前にてはをかしかるべし。近世のたゝずまい。若人などはよもしらじ。よし/\いかやうにもあそばせ。昔より物わすれせぬ身なれは、縦文字少々落たりとも、静に読つゞけて、清書して八十地のなぐさみにもなし、又尼が孫彦数もをゝし。是等は皆家々さるべき人々の子孫なれば、見せて心をつくるべし。さのみはをかしき事とな思食そ。名をばさて何とか付候べきと聞ゆれは、比丘尼の云、あら思寄ずや。今まいりの女房はした者などの名なりとも知らず、まして是は始はをかしき様なりしかども、げに/\しき事もあれば、よき様にこそ聞ゆれば、老尼公の云、此物語は聞所がら、北野にて、将軍の栄花、梅ともにひらけ、御子孫の長久、松ともに徳久くすべし。当社は梅と松とをもてなし奉る故に、問者の児の花やかなるを梅にたとへ、又は飛梅老松の謂有。梅花薫ずれば松風吹ず、是を問と答とになどらへて、梅松論とや申侍べき。
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(2)寛正本(『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p309以下)

※原文のカタカナは読みづらいので平仮名に変更した。
流布本には四つの「一つ書」があるが、寛正本では二つ。ただし、二番目はそのまま下巻全体の末尾まで連続している。

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【前略】越前の金崎は翌年建武四年三月六日没落す、義貞先立囲みを出つ、子息越後守は自害す、一宮同前春宮を武士向へ取奉て入洛あり、此城兵粮米尽て後には馬を殺し食とす、廿日余は堪忍しける凶徒等生なから鬼となりける事、後世まても不便にそ覚へし、此城没落せしより東西南北日本国中の御敵、将軍の御旗の向所の凶徒等誅伐踵すを廻らさす月日を逐て静謐せし也、
一、或時夢窓国師談義の次に両将の御威徳の条々を褒美申さる、先、将軍の御事を仰かれて、国王大臣貴人と生るゝ事は過去の善根の力なる間、一世の事にあらす、殊に将軍は君を守り国の乱を治る職也、をほろけの事にあらす、異朝の事は置ぬ、昔田村利仁頼光保昌は異賊を退治すといへとも威勢国々に及はす、治承以来右幕下頼朝卿、兼征夷大将軍の職、武家の政務を自専し賞罰私なしといへとも罰のかろかりし故に仁のかけたるかと見ゆ、今の征夷大将軍尊氏は衆徳を兼給ふ上に、三の大なる徳まします也、第一に御信仰にして合戦の間、命の終りに臨み給事度々に及といへとも、咲を含て怖畏の色なし、第二に慈悲天性にして人をにくみ給事なし、多の怨敵を寛宥ある事一子の如し、第三に心広大にして物惜の気色なし、金銀土石をも平均に思召れて武具御馬以下の物を人々に下し給しに、宝と人を御覽じ合せられす、御手に任て下賜し也、八月一日憑なとに諸人の進物多く有しかとも皆人に下し給間、夕には何ありとも覚へぬ由をそ承し、誠に此御徳末代にありかたき将軍とそ国師は申されし、
一、聖徳太子四十九院を作置、天下に済日を禁戒し、聖武天皇の東大寺国分寺をたて、淡海公の興福寺を建立し給しは上古と云ひ応化の所変也、今の両将も只人とは申へきにあらす、殊に仏法に帰し夢窓国師を開山として天龍寺を造立し、一切経を書写の御願を興し自ら毎日地蔵菩薩の尊像を絵に画き自讃、同御判ありて又何なる御大酒の後も一座数克の工夫を成し給しや、三条殿は六十六ヶ国ことに寺を一宛立られて各号安国寺、又塔婆一基を造立して所領を寄せられ、御身の振舞廉直〔れむちよく〕を先立られ、事にをいてけに/\しく偽の御色なし、此故に政道の事を将軍より御譲与ありしに固辞再三に及と云へとも、上の御所強〔あなか〕ちに御懇望の間、御領掌あり、其後政務の事にをひては一塵も将軍の御口入の儀なし、或時、両将御対面の次に将軍三条殿に被仰て云、国を治むへき職に居給上はいかにも/\御身を重くしてかりそめに遊覧なく、徒らに暇〔ひま〕を費〔ついや〕すへからす、政道のため私有へからす、或は花紅葉くるしからぬ見物なとは折によるへし、御身を重く持給へと申は我身を軽く諸侍に近付き人々に思つかれて、朝家を[ ]守護し奉んと思故なりとそ被仰ける、此条は凡慮の及はさる所なりと感し申せし也、或時、両御所御会合あつて御沙汰の儀式少々定られける時、将軍仰られて云、昔を聞くに頼朝卿廿余年か間、伊豆国にをいて辛労して起兵の遠慮を廻さるゝ時分に、平家の悪逆により天のうけ人に与ふ、治承四年に起兵をなし元暦元年に朝敵を平し合戦、首尾五ヶ年、彼政道を伝聞に賞罰分明也、尤先賢の好所也、然と云へとも猶以罰の辛きかた多かりきと聞ゆる、依之、氏族の輩以下疑心をなせしかはさせる科なしと云へとも、多く誅罰せられき、いと不便の事なり、当代は人の難なくして天下治らん事本意たる間、今度怨敵をもよく宥〔なため〕て、本領を安堵せしめ忠功を致ん輩にをいては、殊更莫大の賞を行はるへき也、此趣を以て補佐し奉へき由仰出るゝ間、下の御所殊に御悦喜あり、是を承て師直并に古老の評定衆各忝き将軍の御意を感じ奉り涙を拭〔のこ〕はぬ輩そなかりし、唐尭虞舜は異朝の事なれは是非に及はす、末代にもかゝる将軍に生逢奉るそ万民の幸なる、去程に春宮景仁の御子受禅あるへしとて大嘗会の御沙汰ありて、公家は誠に花の都にてそありし、今諸国の凶徒等、或は降参或は誅罰せられ、将軍の威風四海の逆浪を平け合戦と云事聞す、されは天道は慈悲と賢とを加護すへき間、両将の御代は周の八百余歳を超〔ちう〕過し、ありそ海の濱の真砂なりとも、此将軍の続々治給へき御代の数には争か及へきと、法印語り留められしかは二人の少人、覚弁以下云く、先代の謂れ当御代の事、今こそくもりなき鏡に向ふ心地して候へと面々悦申けれは、法印明日廿五日参籠結願也、今は問答留むへしとて行法に取向ひ給しかは、少人以下社頭へそ参りける、此時、老尼、比丘尼達に向て云、既に問答の儀は過ぬ、一もをとさであそはしたるかと、をほつかなや、かまへて/\次第たかへすよく持給へと聞ゆれは、比丘尼答て云、流に画かき氷にちりはむとは加様の徒事かや、物籠の勤の隙に古き尼公のをほろ耳に壁を隔たる物語を聞て、をはつせをたにつゝけぬ我等か仰の忝きまゝに筆の跡ともにて、法具の裏なんとに書をきたらんは、われたにもよまれじ、後見の人いかに咲なん、さりなから一二を付て重ね一に巻て候と聞えれは、尼公の云、あら色もなや、物ならぬものも賞しからにてこそあれ、此程の物語知る人の前にてはをかしかるへし、近き世のたゝすまひ若き人なとはよも知らし、よし/\いかやうにもあそはしたれ、昔より物わすれせぬ身なれは縦〔たと〕文字少々落たりとも、閑に読つゝけて清書して八十のなくさみともなし、又尼は孫彦数を覚へす、是等は皆家々のされへき人々の子孫なれは心をもつくへし、さのみはをかしき事とな思食そ、さて、名をは何とか付くへきときこゆれは、比丘尼の云、あら思寄すや、新参の女房はしたものなとの名なりとも知らす、まして是は始はをかしき様なりしかともけに/\しき事共、あれはよき様にこそと聞れは、老尼の云、此物語は聞所から北野にて、将軍の栄華梅と共に開け、御子孫の長久松と徳を久くすへし、当社は梅と松とを以てもてなし奉る故に、又飛梅老松の謂れもあり、梅花薫すれは松風吟す、是を問と答るに准して梅松論とや申侍へき
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資料:『梅松論』の終わり方〔2024-10-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899
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0202 『梅松論』の成立時期についてのまとめ

2024-10-23 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第202回配信です。


一、前回配信の補足

家永遵嗣説への亀田俊和氏のコメント

資料:『梅松論』の終わり方〔2024-10-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899

①金崎城陥落記事
②夢窓疎石の尊氏・直義評
③「去程に春宮、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会の御沙汰ありて」記事

私見はもともと①③は連続しており、「原梅松論」がいったん成立した後に②を後から挿入したというもの。
挿入の理由は、「三条殿」体制確立後、直義の存在感を高めるため。

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一、ある時、夢窓国師談義の次〔ついで〕に、両将の御徳を条々褒美申されけるに、先〔まづ〕将軍の御事を仰られけるは、国王大臣、人の首領と生るゝは、過去の善根の力なるあいだ、一世の事にあらず。ことに将軍は君を扶佐し、国の乱を治むる職なれば、おぼろげの事にあらず。異朝の事は伝〔つたへ〕きくばかりなり。我朝の田村・利仁・頼光・保昌、異賊を退治すといへども、威勢国に及ず。治承より以来、右幕下〔うばくか〕頼朝卿兼征夷大将軍の職、武家の政務を自専にして、賞罰私なしといへども、罰の苛〔からき〕故に仁の闕〔かく〕るかとみえ、今の征夷大将軍尊氏は仁徳をかね給へるうへに、なを大なる徳在なり。
 第一に、御心強にして、合戦の間、身命を捨給ふべきに臨む御事、度々に及といへども、笑を食【含】で怖畏の色なし。第二に、慈悲天性にして、人を悪〔にく〕み給事をしりたまはず、多く怨敵を寛宥ある事一子のごとし。第三に、御心広大にして物惜〔おしみ〕の気なく、金銀・土石おも平均に思合て、武具、御馬以下の物を人々に下〔くだし〕給ひしに、財と人とを御覽じ合〔あはさ〕ず、御手に任て取給ひしなり。八月一日などに、諸人の進物ども、数もしらずなりしかども、皆、人に下し給しほどに、夕に何ありともおぼえずとぞ承りし。実〔まこと〕に三つの御躰、末代にありがたき将軍なりと、国師談義のたびごとにぞ仰〔おほせ〕ありける。
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「両将」…尊氏と直義
「将軍」…尊氏
「今の征夷大将軍」…尊氏

「右幕下頼朝卿兼征夷大将軍」は「罰の苛故に仁の闕るかとみえ」るが、「今の征夷大将軍尊氏は仁徳をかね給へるうへに、なを大なる徳在なり」とのことで、尊氏は頼朝以上に優れている。

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一、聖徳太子は四十九院を作置〔おき〕、天下に斎日を禁戒し、聖武天皇の東大寺・国分寺を立〔たて〕、淡海公の興福寺を建立し給ひしは、上古といひ、皆応化の所変なり。今の両将もたゞ人とは申べきにあらず。殊に仏法に帰し、夢窓国師を開山として天龍寺を造立し、一切経書写の御願を発し、みづから図絵し、自讃御判あり。又御大飲酒の後も、一座数刻の工夫をなしたまひしなり。
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「今の両将」…尊氏と直義
しかし、後半の具体例は尊氏だけを論じているようにも見える。

-------
一、三条殿は六十六ヶ国に寺を一宇づつ建立し、各安国寺と号し、同塔婆一基を造立して所願を寄られ、御身の振舞廉直にして、げに/″\敷〔しく〕いつはれる御色なし。此故に御政道の事を将軍より御譲りありしに、同く御辞退再三に及ぶといへども、上御所御懇望ありしほどに御領状あり。其後は政務の事におひては、一塵も将軍より御口入〔くにふ〕の儀なし。
 ある時御対面の次〔ついで〕に、将軍、三条殿に仰せられていはく、国を治る職に居給上は、いかにも/\御身を重くして、かりそめにも遊覧なく、徒〔いたづら〕に暇をついやすべからず。花、紅葉はくるしからず。見物などは折によるべし。御身を重くもたせ給へと申〔まうす〕は、我身を軽く振舞て諸侍に近付〔づき〕、人々に思付れ、朝家をも守護したてまつらんとおもふゆへなり、とぞ仰られける。此重【条】は凡慮をよばざる所とぞ感じ申されし也。
 抑〔そもそも〕夢窓国師を両将御信仰有りける始は、細川陸奥守顕氏、元弘以前義兵を揚むとて、北国を経て阿波国へおもむきし時、甲斐国の恵林寺〔えりんじ〕におひて国師と相看〔しやうかん〕したてまつり、則〔すなわち〕受衣〔じゆえ〕し、其後両将之引導申されけり。真俗ともに勧め申されしによて、君臣万年の栄花を開き給ふ。目出度〔たく〕、ありがたき事どもなり。
-------

「三条殿」…直義
「将軍」…尊氏
「両将」…尊氏と直義

※細川顕氏のエピソードは流布本だけに見える記事で、内容も相当に疑わしい。

-------
一、或時、両御所御会合ありて、師直并〔ならびに〕故〔ふるき〕評定衆をあまためして、御沙汰の規式少々さめられける時、将軍おほせられけるは、むかしをきくに、頼朝卿廿ヶ年の間、伊豆国におゐて辛労して、義兵の遠慮をめぐらされし時分、平家悪行無道にして、万民の歎いふばかりなかりしをさけん為に、治承四年に義兵を発し、元暦元年は朝敵を平げし、其間の合戦五ヶ年也。
 彼政道を伝聞〔つたへきく〕に、賞罰分明にして先賢の好〔よく〕するところ也。しかりといへども、猶以〔もつて〕罰の苛〔からき〕方多かりき。是によて氏族の輩以下、疑心を残しけるほどに、指錯〔させるあやまり〕なしといへども、誅伐しげかりし事いと不便〔ふびん〕なり。当代は人の歎なくして、天下おさまらん事本意〔ほい〕たるあいだ、今度は怨敵をもよくなだめて本領を安堵せしめ、忠功をいたさん輩におゐては、ことさら莫太の賞を行なはるべきなり。此趣をもて、めん/\扶佐したてまつるべきよし仰いだされし間、下御所殊に喜悦ありければ、師直并に故評定衆、各かたじけなき将軍の御意を感じたてまつりて、涙をのごはぬともがらぞなかりし。唐尭・虞舜は異朝の事なれば是非におよばず。末代にもかゝる将軍に生れあひ奉りて、国民屋を並〔ならべ〕、楽み栄けるこそめでたけれ。
-------

「両御所」…尊氏と直義
「将軍」…尊氏
「当代」…(頼朝と対比しているので)尊氏
「下御所」…直義


二、成立時期についての諸説

資料:加美宏氏「梅松論解説」(『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』)〔2024-10-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fba855926bec92fcac833f5c4702cab4

(ア)かつての通説(菅政友)…貞和五年(1349)
(イ)五十嵐梅三郎…正平七年(1352)以後
(ウ)小川信…義詮が将軍となる延文三年(1358)以後か
(エ)武田昌憲…(少弐氏が幕府に帰順する)延文三年(1358)以後
(オ)小秋元段…観応二年(1351)かその直後

(カ)私見

光明天皇の大嘗会が「原梅松論」の最終記事。

光明天皇(1321‐80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

践祚…建武三年(1336)八月十五日
即位式…建武四年(1337)十二月二十八日
大嘗会…暦応元年(1338)十一月十九日

「原梅松論」は最終記事後、まもなく成立。
「原梅松論」に夢窓疎石の尊氏・直義評が追加されたのは、天龍寺や安国寺・利生塔への言及があることから康永四年(貞和元、1345)あたりか。


三、成立時期を早めたことの影響

『梅松論』は著者の1330年代の記憶を概ね反映しており、観応の擾乱以降の複雑な人間関係を踏まえた記憶の上書きはない。

足利直義に提出された「原太平記」よりも「原梅松論」が先行する可能性が大。
(小秋元段氏は「原梅松論」が「原太平記」の影響を受けた可能性があるとする)

『太平記』にも、1330年代の時代の雰囲気を素直に反映した記事が意外に多いのではないか。

一例、後醍醐天皇の「重祚」

兵藤裕己校注『太平記(二)』p213以下
-------
公家一統政道の事

 元弘癸酉の歳、四海九州の朝敵残る所なく亡びしかば、先帝重祚の後、正慶の年号は廃帝の改元なればとて、これを棄てられて、本の元弘に返さる。その三年の夏の比〔ころ〕、天下一時に評定して、賞罰法令悉く公家一統の政〔まつりごと〕に出でしかば、群俗風に帰すること、霜を披いて春の日を照らすが若く、中華軌〔のり〕を懼〔おそ〕るること、刃〔やいば〕を履んで雷霆〔らいてい〕を戴くが若し。
-------
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0201 「当今」が光厳・光明天皇となっているのは何故か。

2024-10-22 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第201回配信です。


一、前回配信の補足

「光厳の皇子弥仁か、崇光の皇子栄仁か?」

後光厳天皇(弥仁親王、1338-74)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
栄仁親王(1351-1416)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E6%A0%84%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

二、「当今」の問題

矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p41以下
-------
 東海道の大将軍は武蔵守泰時、相摸守時房、東山道は武田、小笠原、北陸道は式部丞朝時、都合其勢十九万騎にて発向し三の道より同時に洛中に乱入しかば、都門忽に破れて逆臣悉く討取〔うちとられ〕し間、院をば隠岐国へ遷し奉り、則、貞応元年に、院の御孫後堀川天皇を御位に付奉る。御治世貞応元年より貞永元年に至て十一ヶ年なり。
 次に四条院、天福元年より仁治三年に至まで御治世十年也。次に後嵯峨天皇、寛元元年より同四年にいたるまで御治世なり。次に後深草院、宝治元年より正元元年に至まで御治世十三年也。次に亀山院、文応元年より文永十一年に至るまで御治世十五年也。次に後宇田院、建治元年より弘安十年に至るまで御治世十三年なり。次に伏見院、正応元年より永仁六年に至るまで御治世十一年なり。次に持明院、正安元年より同三年に至るまで御治世なり。次に後二条院、乾元〔けんげん〕元年より徳治二年に至、御治世六ヶ年なり。次に萩原院、延慶元年より文保二年に至るまで御治世十一年也。次に後醍醐院、元応元年より元弘元年に至るまで御治世十三年。次に当今、量仁。又当今豊仁。凡〔およそ〕人皇始て、神武天皇より後嵯峨院御宇にいたるまで九十余代にてまします。
-------

いくつかの疑問が生ずる。
(1)「後醍醐院」の治世が元応元年(1319)から元弘元年(1331)までの十三年となっているが、建武新政期の後醍醐の地位をどう考えているのか。
(2)「当今」が「量仁」と「豊仁」の二人となっているのは何故か。
(3)二人は何故に諱で記され、光厳天皇・光明天皇ないし光厳院・光明院となっていないのか。
(4)「神武天皇より後嵯峨院御宇にいたるまで九十余代」となっているが、何故に後嵯峨院で区切るのか。(後嵯峨は第八十八代天皇)
(5)崇光天皇の即位・大嘗会で上下二巻が大団円を迎えるとしたら、何故に崇光天皇が「当今」として登場しないのか。

京大本(上巻補注、p165)
-------
 次ニ四条院天福元年ヨリ仁治三年マテ御治世十年也、次ニ嵯峨〔ママ〕天皇寛元元年ヨリ同四年マテ御治世也、次後深草院宝治元年ヨリ正元元年至マテ御治世十三年也。次亀山院文応元年ヨリ文永十一年マテ御治世十五年也、次後宇田院建治元年ヨリ弘安十年マテ御治世十三年也、次伏見院正応元年ヨリ永仁六年マテ御治世十一年、次持明院正安元年ヨリ同三年マテ御治世也、次後二条院乾元元年ヨリ徳治二年マテ御治世六ヶ年也、次萩原院延慶元年ヨリ文保二年マテ御治世十一年也、次醍醐〔ママ〕院元応元年ヨリ元弘元年マテ御治世十三年歟、次当今景仁〔ママ〕又当今豊仁、凡人王始リテ神武天皇ヨリ後嵯峨院ノ御宇マテ九十余代歟、伝聞、異朝、夏代ヨリ大元ニ至マテ代ノ号十五世也、是ハ面々其孫葉一流ノ惣称也、我朝ハ王孫一流御治世ヨリ外、他ノ位ヲマシエス、誠ニ神国宝祚長久ノ堺也
-------

天理本(『行誉編『壒嚢鈔』の研究』p249以下)
-------
 当今<後堀川院>御治世貞応元年ヨリ貞永元年ニ至マテ、十一ヶ年也。
即彼院御子四条院天福元年ヨリ仁治三年マテ十ヶ年ノ御治世也。次ニ後嵯峨ノ院、是ハ土御門院第二ノ皇子、後鳥羽院ノ御孫也。寛元元年ヨリ同キ四年ニ至マテ御治世アリ。次ニ同御子後深草院、宝治元年ヨリ正元々年マテ十三年ノ御治世也。次ニ同御弟亀山院、文応元年ヨリ文永十一年二至マテ、御治世十五ヶ年也。次ニ同御子後宇田院、建治元年ヨリ弘安十年マテ御治世十三年也。次ニ後深草ノ御子伏見院、正応元年ヨリ永仁六年ニ至マテ御治世十一年也。次ニ同御子後伏見院、正安元年ヨリ同三年マテ御治世アリ。是ヲ持明院ノ法皇ト申ス。以前ニ後堀川ノ御父後高倉院ヲ持明院ノ宮ト申シカ共、今持明院方ト申ハ、此院ヨリ始マレリ。次ニ後宇多ノ御子後二条院<亀山御孫>、乾元々年ヨリ徳治二年ニ至マテ御治世六年也。次ニ花園院、伏見院第二ノ御子、萩原院共申ス、持明院ノ御弟也。延慶元年ヨリ文保二年ニ至マテ御治世十一年也。次ニ後醍醐院、後宇多院第二ノ御子、御歳卅一ニテ御即位アリ。元応元年ヨリ元弘元年ニ至マテ御治世十三年也。次ニ当今<光厳院>、量仁并ニ豊仁日嗣ヲ伝給也。
 異朝ハ夏ノ代ヨリ太元ニ至マテ代ノ号十五世也。是ハ面々其孫葉一流ノ惣称也。我朝ハ神武天皇ヨリ今ニ九十余代王孫一流ノ御治世トシテ、他種ヲ交ヘス。誠ニ神国ノ謂、宝祚長久ノ験也。
-------

資料:『梅松論』の終わり方〔2024-10-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899
0194 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その8)〔2024-10-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f7ca9657a5eec18ff837b15481d7bb3
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0200 家永遵嗣氏「第三章 政治的混乱が「国制の一元化」「皇統の一本化」になったわけ」

2024-10-21 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第200回配信です。

遠藤珠紀・水野智之編『北朝天皇研究の最前線』(山川出版社、2023)
家永遵嗣(1957生、学習院大学教授)
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/hist/staff/ienaga.html

家永遵嗣氏「第三章 政治的混乱が「国制の一元化」「皇統の一本化」になったわけ」は若干微妙な論考。

-------
はじめに─幕府の内部抗争と北朝の中絶・復活
 天皇の即位式費用が「国制」の転換のきっかけとなった
 天皇家・将軍家の血縁関係と皇位継承の一本化
一 国司の税務の消滅─「二元的国制」から「一元的国制」への転換
 「観応の擾乱」前後における幕府法の変化
 「国司の税務」の消滅と足利直義の信用失墜
二 「一国平均役」の徴税を幕府に委託する朝廷
 「大嘗会米」の徴税を幕府・守護に委ねる
 「正平一統」により崇光の大嘗会は中止
三 足利義詮の挽回策─「正平一統」とその破綻
 南朝側の真意は幕府討滅にあった
 後村上の即位式・大嘗会と吉野に贈られた「三種の神器」
四 北朝三上皇の吉野幽閉と後光厳天皇の践祚
 光厳の皇子弥仁か、崇光の皇子栄仁か?
 春日大明神の託宣に背く形になってしまった
五 北朝の惨状と足利義詮の将軍親裁
 諸役勤仕を拒否する公家衆
 「正平一統」の破綻が「国制の一元化」を促進した
六 持明院統の分裂と皇位継承の一本化
 崇光上皇・後光厳天皇兄弟の相続争い
 後光厳の血筋を守った女官の日野宣子
おわりに─「皇位の一本化」のカギを握っていた足利義満
-------

p74以下
-------
天皇の即位式費用が「国制」の転換のきっかけとなった

 建武政権(一三三三~三六年)の崩壊後も幕府のなかには、京極(佐々木)道誉(一三〇六~七三)らのように南朝との提携を望む者がいた。これを懸念した北朝・持明院統の家長光厳上皇(一三一三~六四)は、足利尊氏(一三〇五~五八)の子義詮(一三三〇~六七)の母方の従兄弟にあたる直仁親王(一三三五~九八)を即位させて、将軍家との結びつきを強めようとした(八六頁の系図参照)。
 光厳は直仁の兄崇光天皇(一三三四~九八)の即位儀式を完了させて、崇光から直仁に譲位させようとしたが、崇光の即位式の費用をめぐって幕府内部に分裂を引き起こすきっかけとなってしまった。
 貞和五年(一三四九)、朝廷は崇光天皇の即位式の費用を自力では調達できないとして、将軍家の私財を献上するように求めた。朝廷の儀式費用は国司を介して諸国に課すべきものだが、実際には徴収ができなくなっていたようだ。法制や朝廷交渉を担当していた尊氏の弟直義(一三〇六~五二)と、将軍家の家政・財務を司っていた尊氏の執事高師直(?~一三五一)と対立して、抗争になった。
 松永和浩・久水俊和は、これを契機として国司の税務を幕府・守護が肩代わりするようになるという(松永:二〇〇六、久水:二〇一一)。【中略】
 足利直義は、崇光天皇即位式にかかわる前述の紛議で、貞和五年八月に隠退させられた。そのため、直義は明くる観応元年(一三五〇)末に南朝に降って挙兵し、「観応の擾乱」(一三五〇~五二年)となった。尊氏・義詮父子は、翌年二月に直義に敗れて、師直一族は殺されてしまう。尊氏・義詮は、同年七月に直義との戦いを再開して南朝に降り、十一月には「正平一統」となって北朝は中絶となる。
-------

0085 長谷川明則氏「赤橋登子─足利尊氏の正妻─」(その7)〔2024-05-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9eb3dfa4944289c0ba28e642dfa2bff

「崇光天皇即位式にかかわる前述の紛議」が足利直義が「貞和五年八月に隠退させられた」原因であって、ひいては観応の擾乱の原因となった、という見解はかなり珍しい立場なのではないか。
松永和浩・久水俊和氏は家永説を支持されているのか。

p78以下
-------
「国司の税務」の消滅と足利直義の信用失墜

 公家の洞院公賢(一二九一~一三六〇)の日記『園太暦』貞和五年(一三四九)二月二十一日条によると、光厳上皇は同年三月に崇光天皇の即位式を行う予定を立て、費用を二千七百貫文と見積もり、武家の私財献納を意味する「御訪〔オトブラヒ〕」の形で提供するように幕府に求めた。幕府は朝廷が自力で費用をまかなってほしいと求めたが、北朝には手立てがなく、即位式の目処が立たなくなった。北朝が費用を自力調達できない点から、国司の収税が機能していなかったと推測できる。
 醍醐寺座主の三宝院賢俊(一二九九~一三五七)の斡旋で上納額を二千貫文に減じたため、幕府が進献に同意した。しかし、当時は尊氏の新邸を造営中(同月八月十日に竣工・移居)だっため、新邸造営費用と即位式費用の負担が合わさって、幕府財務の難題になった。
 即位式は七月に延期されたが、六月に高師直と足利直義の対立が表面化した。『園太暦』閏六月二日条には、「直義と師直の間に対立があり、兵火に及ぶだろう」という噂が記されている。この直後に予定が変更されて即位式は十月に延期され、「御訪」の期限も九月になった。対立の原因は、おそらく「御訪」を期限どおりに上納することが困難だったことにあったのだろう。
 八月になって、また対立が起きた。「御訪」の上納期限がやってくるたびに内紛が起きたのだ。尊氏新邸の竣工と同じ頃に、直義が高師直を斥けることを謀ったらしい。八月十三日に師直は大軍を集めて直義を討とうとした。在京武士のほとんどが師直に与する様相となったために、尊氏・直義が妥協した。そのため直義が政務から退くことになり、鎌倉にいた尊氏の三男義詮を上洛させて直義に代わらせることとした。
 国司の税務に実態がなかったために、予想もしていなかった天皇即位式についての幕府の負担が生じ、直義の朝廷対策や法制についての信用が失墜したのである。
-------

光厳院は貞和五年(1349)三月に崇光天皇の即位式を予定。
 →同月、尊氏邸が火災。
 ※尊氏新邸造営の関係で即位式は七月に延期。(第一回延期)

閏六月 (『太平記』によれば)直義が師直暗殺を謀る。
同月十五日 師直、執事を解任される。
 ※即位式は十月に延期。(第二回延期)

八月十四日 直義が尊氏邸に逃げ込み、師直が大軍で包囲。直義引退、義詮の上京が決まる。

 ※即位式は十二月に延期(第三回延期)

十月二十二日 義詮入京。

十二月八日 直義出家。
二十日 上杉重能・畠山直宗、配流先の越前国で殺害される。
※二十六日 崇光天皇即位式
二十七日 尊氏、直冬の討伐を命ずる。

観応元年(1350)
 ※十月十九日、光厳院、大嘗会の延期を決定。
十月二十六日 直義、京都を脱出。
二十八日、尊氏・師直、直冬討伐のために京都から出陣。
十一月二十三日 直義、南朝に降伏。
十二月、桃井直常、越中から出陣。

観応二年(1351)
二月十七日、摂津打出浜の戦いで尊氏軍大敗。
二十六日 師直・師泰以下、高一族斬殺される。
コメント (2)
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0199 崇光天皇の大嘗会は行われたのか。

2024-10-20 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第199回配信です。


一、前回配信の補足

矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p141
-------
 去程に春宮〔とうぐう〕、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会〔だいじようゑ〕の御沙汰ありて、公家は実〔まこと〕に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と云事もきこえず。されば天道は慈悲と賢聖を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にもこえ、ありその海のはまの砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数には、いかでかおよぶべきとぞ法印かたり給ひける。
 或人是を書とめて、ところは北野なれば、将軍の栄花、梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳をひとしくすべし。飛梅老松年旧〔ふり〕て、まつ風吹けば梅花薫ずるを、問と答とに准〔なぞ〕らへて、梅松論とぞ申ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899

補注(下巻)p274
-------
一六三 大嘗会の御沙汰ありて 北朝の崇光天皇即位の翌年、観応元年(一三五〇)四月二十九日、大嘗会国郡卜定の事や、四条隆蔭らを大嘗会検校に任ずるなどの沙汰があったことは、園太暦・師守記・公卿補任などにみえるが、実際に行われたという記録はない。皇年代略記に「観応元年四月廿九日大嘗会国郡卜定、同十月廿ニ日御禊治定之処天下擾乱、仍不被行之」とあるが、十月二十二日に決まっていた御禊が中止された事は、他に記録が見当たらず、これによって梅松論の成立を観応元年十月以前とみなすことはなお考うべきであろう。
-------

「凡例」に「担当は、梅松論上巻翻刻・頭注・補注は矢代、下巻は加美が受持ち、また、寛正本翻刻は矢代、解説と源威集翻刻は加美がそれぞれ受持った」(p32)とあるので、上記補注は加美氏が記したもの。
また、解説において、加美氏は、

-------
 まず『梅松論』成立の年代であるが、これについて菅政友氏提唱の貞和五年(一三四九)成立説が、長らく通説のようになっており、現在でも通史類や辞典類は、ほとんどこの説に拠っている。しかし、この説も今や、少なくとも正平七年(文和元年、一三五二)以降の成立と修正されるべき時期が来ているようだ。
-------

とされており(p8)、加美氏にとって、崇光天皇の大嘗会が行われなかったとしたら、それは自説にかなり不利な材料。

資料:加美宏氏「梅松論解説」(『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』)〔2024-10-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fba855926bec92fcac833f5c4702cab4

加美宏(1934生、同志社大学名誉教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%BE%8E%E5%AE%8F
矢代和夫(1927生、東京都立大学元教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E4%BB%A3%E5%92%8C%E5%A4%AB


二、崇光天皇の大嘗会は行われたのか。

(1)岡田莊司氏の見解(『大嘗祭と古代の祭祀』の自著紹介)

-------
皇位継承をめぐって平安時代末期、二人の天皇の在位が確認できる。源頼朝が挙兵した治承四年(一一八〇)から文治の年号まで、養和・寿永・元暦と毎年のように代始・飢饉などによる改元があり、頼朝は平氏の都落ちまで、養和・寿永の元号を認めなかった。平氏は安徳天皇とともに三種神器を奉持して西国に逃れたため、後鳥羽天皇は神器を所持しないまま即位された。二人の天皇が在位された異例の事態のなか、後鳥羽天皇の即位にあわせて、大嘗祭の斎行は不可欠のことであった。
その後、承久の乱によって鎌倉側から在位を拒否された仲恭天皇は廃帝となる。践祚後、わずか二ケ月余りで即位儀・大嘗祭をへずに退位された。『帝王編年記』は大嘗祭斎行以前に退位されたことから、「半帝」と呼んだと伝える。
このあと、皇統は南朝・北朝に分かれ、南朝は三種神器を受け継いで吉野に朝廷を立てて正統性を主張したが、大嘗祭の斎行はなかった。北朝側はこれに対抗する意味でも、大嘗祭の斎行につとめた。ただし、北朝も崇光天皇のときのみは、観応の擾乱によって斎行できなかった。このように中世になると戦乱の影響により不斎行の事態が生じた。

なお、『大嘗祭と古代の祭祀』には崇光天皇への言及はない。

岡田莊司(1948生、國學院大学名誉教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E8%8E%8A%E5%8F%B8
『大嘗祭と古代の祭祀』(吉川弘文館、2019)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b437087.html


(2)家永遵嗣氏の見解

遠藤珠紀・水野智之編『北朝天皇研究の最前線』(山川出版社、2023)
https://www.yamakawa.co.jp/product/15240

家永遵嗣氏「第三章 政治的混乱が「国制の一元化」「皇統の一本化」になったわけ」

p80以下
-------
「正平一統」により崇光の大嘗会は中止

 ちょうどこの頃、直義の養子直冬(一三二七?~八七?)が、幕府に対立する勢力となって九州・中国地方西部で強大化し、幕府はその対策に追われていた。直義を隠退させた直後に、師直らが直冬の殺害を謀って失敗していた。観応元年(一三五〇)十月に、尊氏が直冬征討に出陣することになった。光厳上皇は十月十九日に大嘗会の延期を決定し、同月二十八日に尊氏が京都を発った。
 一方、同じ頃に直義は南朝に降って挙兵する準備を進めており、観応元年十一月に師直らの討伐を名目として挙兵した。「観応の擾乱」のはじまりである。直義は同年十二月に南朝への帰参を許され、翌年二月に摂津打出浜(兵庫県芦屋市)で尊氏・義詮を破り、高師直とその一族が殺された。
 直義が南朝に示した講和条件ははっきりしない。『観応二年日次記〔ひなみき〕』によると、北畠親房(一二九三~一三五四)らの反対で講和交渉は五月半ばに破談になったという。南朝との和睦が破談になったために、六月に北朝の崇光天皇の大嘗会の準備が再開された。
 『園太暦』同年六月九日条によれば、幕府の使者二階堂行珍(?~一三五七?)が光厳上皇に謁して「大嘗会」について決定してほしい、「段米〔だんまい〕(大嘗会段米)」のことは幕府側で取り計らうから、院宣を下してほしいと述べたとある。大嘗会段米を幕府が代行徴収することを、幕府側も原則的に受け容れていたわけである。直義は北朝に与するようになった。
 しかし、このあと七月に尊氏・義詮が直義との戦争を再開し、八月に尊氏・義詮が南朝に降参して、十一月初めには北朝が中絶する「正平一統」となった。実際には、崇光天皇の大嘗会は行われることはなく、そのための大嘗会段米が徴収されることもなかったのである。
-------

家永遵嗣(1957生、学習院大学教授)
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/hist/staff/ienaga.html

赤橋種子と正親町公蔭(その1)〔2021-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a
四月初めの中間整理(その14)〔2021-04-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbabbcf7e6d0394b5518ea5767d8dcc1
0085 長谷川明則氏「赤橋登子─足利尊氏の正妻─」(その7)〔2024-05-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9eb3dfa4944289c0ba28e642dfa2bff


崇光天皇 大光明寺陵 (京都市伏見区)
https://kyotofukoh.jp/report1897.html
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中世史・中世文学講座(第9回)

2024-10-20 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
今月から毎週土曜日に行っています。

テーマ:『梅松論』を読んでみる。(その2)
 『梅松論』は『増鏡』ほど完成度が高い作品ではありませんが、南北朝時代の武士の思考様式を知るには絶好の書物です。
前回に引き続き、重要場面を少しずつ読んで行きます。

日時:10月26日(土)午後3時~5時
場所:甘楽町公民館

群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡 161-1
上信越自動車道の甘楽スマートICまたは富岡ICから車で5分程度。

連絡先:
iichiro.jingu※gmail.com
※を @ に変換して下さい。
またはツイッターで私をフォローの上、DMにて。
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0198 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その12)

2024-10-19 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第198回配信です。


一、前回配信の補足

(1)「雖無准的之旧蹤」

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精選版 日本国語大辞典 「準的」の意味・読み・例文・類語
じゅん‐てき【準的・准的】
〘 名詞 〙
① まと。めあて。めど。また、標準や基準にすること。同格のものとして価値づけること。
[初出の実例]「平皐之戈空挟。準的応レ知虚室之盃方傾、斟酌豈惑」(出典:本朝文粋(1060頃)三・詳春秋〈大江以言〉)
「過去現在未来の諸仏と称すといへども、凡夫の三世に準的すべからず」(出典:正法眼蔵(1231‐53)見仏)
[その他の文献]〔後漢書‐賈彪〕
② 定まらないこと。確定的でないこと。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
https://kotobank.jp/word/%E6%BA%96%E7%9A%84-530049

(2)「後醍醐院」逃亡への尊氏の対応

深津睦夫氏『光厳天皇』p116
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 十二月二十一日、後醍醐天皇は花山院を抜け出し、吉野に潜幸した。足利直義は翌日すぐに捜索するように命じている(保田文書)。ところが、『梅松論』によれば、尊氏は次のように述べて、悠然としていたという。「花山院に幽閉しておくと警護がたいへんであるし、元弘の変の時のように遠国へ移すわけにもいかず、困っていた。今回自ら出奔してくれたのはかえってありがたいことだ。きっと畿内のどこかにおいでであろう。お考えに従って行動されるだろうが、情勢は自ずと落ち着くべきところに落ち着くだろうから、それでよい。運は天が決めるもので、人間の浅知恵でどうこうなるものではない」。前に尊氏は後醍醐天皇に対して敬慕の念を抱いていて、時にそれが行動に現れることを指摘したが、この場面における態度もその一つと言ってよかろう。
 吉野に赴いた後醍醐天皇は、自らの皇位と年号「延元」の回復を宣言した。ここに、京都(北朝)と吉野の朝廷(南朝)が対立する「南北朝時代」の幕が開いたのである。
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(3)初期室町幕府の「三頭政治」?

光厳院…伝統的支配
足利尊氏…カリスマ的支配
足利直義─合法的支配

橋本努氏「ウェーバー 支配の諸類型」
https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Weber%20Herschafts%20Kategorie.pdf
https://sites.google.com/view/hashimoto-tsutomu

南朝に対抗して初期室町幕府の権威を維持するためには、三者が不可欠だった。
三者のバランスを歪めたのが天龍寺建立なのではないか。


二、「成立論の再検討」の続き

0187 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その1)〔2024-10-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc186b4179abe2ffad92c33120b3dc6c
0194 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その8)〔2024-10-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f7ca9657a5eec18ff837b15481d7bb3

p350以下
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 足利義詮に関する記事も成立論において注目されてきた。元弘三年五月、新田義貞とともに鎌倉に攻め込んだ僅か四歳の義詮は、

義詮ノ朝臣<于時四歳>同大将トシテ御輿ニメサレ、義貞ト同道アリ、関東御退治以後二階堂別当坊ニ御座アリシニ、諸侍悉ク四歳ノ君ノ御料ニ属シ奉ル、不思議ナリシ事共也、実ニ末代ニ永将軍ニテ御座アルヘキ瑞相カトソ覚シ、(上・二十六ウ~二十七オ)

と語られる。ここでは義詮は将来、将軍になる人物として予祝されている。この記事をもとに小川氏は、『梅松論』の成立時期を義詮が将軍に就任する延文三年(一三五八)以後のことと推測した。しかし、このような記述は義詮が将軍になる前でも、成り立つ可能性があったのではなかろうか。そもそも義詮は尊氏の嫡子であり、次代の将軍として予祝される素質を持っていたはずである。彼は観応擾乱期の貞和五年(一三四九)十月に鎌倉より上洛して、失脚した足利直義に代わって政務を執っている。そして、観応元年(一三五〇)八月には左馬頭から参議左中将に昇り、官職の上でも余人とは隔絶した地位に就いている。既にこの頃には、次期将軍として祝寿されるに相応しい存在になっていたと見ることができよう。右のごとき記述が、こうした時期の義詮の立場を反映していると想定することも十分可能で、本条を論拠に『梅松論』の成立を義詮の将軍職就任後とすることは難しいと思われる。
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「足利高氏は妻子を失い滅亡する可能性もあった」(by 谷口雄太氏)〔2021-07-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2beff379de15d0d07cff16070c7227d6
千寿王(義詮)が新田義貞軍に合流した日付について〔2021-07-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/40c8111f0fdcd1c69229082fd60501fa
田中大喜氏「義貞挙兵の真相」(その1)〔2021-07-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/036d037dab9e4231a9cf97376a6e6122
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43bc43443d92374f04ea8ab26bf17a15
「元弘三年四月廿二日先代退罰御内書」〔2021-08-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d3a6425f44b086e207ae4be2aaabf85c
「利氏元弘三年五月十二日馳参上野国世良田、令参将軍家若君御方之処」〔2021-08-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9bbb0a254035f4cf6032a6c2e819560

p351以下
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 さて、『梅松論』の成立時期に関して、これまで最も詳細に検討したのは武田昌憲氏である。武田氏は小川氏の説を発展的に継承し、『梅松論』の成立時期と成立事情を以下のように考察した。まずは作品中、詳細かつ好意的に描かれている少弐氏が、文和元年(一三五二)から延文二年(一三五七)まで南朝方についていたことを踏まえ、『梅松論』が足利政権を讃美する書である以上、その成立は同氏が幕府に帰順する延文三年以降とするのが自然であるとした。その上で、『梅松論』では尊氏の寛大さが強調されていることをとりあげ、こうした記述にはかつて尊氏と対立した旧直義派の人々による将軍懐柔の狙いがあり、新将軍義詮にも寛宥を求める意図が込められていると推測した。また、寛正本『梅松論』では「去程ニ景仁ノ御子受禅アルヘシトテ……」という一節で、光厳院が諡号ではなく、「景仁(正しくは量仁)」の名で呼ばれていることから、この記述を光厳院が死去する貞治三年(一三六四)以前のものであるとした。そして、後醍醐天皇隠岐配流から「廿余年」にあたるのは、文和元年(一三五二)から康安元年(一三六一)までで、成立の下限は康安元年になることから、『梅松論』は延文三年から康安元年の間に成立した可能性が最も高いと結論づけたのである。
 以上のように、菅政友が成立時期を貞和五年と推測したのに対し、現在では足利義詮の将軍就任後と考えるのが有力となっている。しかし、義詮の将軍就任後とする小川氏の推測は根拠に再考を要し、武田氏による綿密な検討も、少弐氏の動向という、あくまでも外的な歴史状況に照らしての考察となっているため、記事内部から成立時期を特定できる材料が検出できない限り、説としては十分とはいいがたい。よって以下、内部徴証を求めて、『梅松論』の成立時期を探ることとしたい。
-------

武田昌憲氏「『梅松論』の成立に関する一考察」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/32/0/32_32_77/_article/-char/ja
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資料:加美宏氏「梅松論解説」(『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』)

2024-10-18 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
p8以下
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 まず『梅松論』成立の年代であるが、これについて菅政友氏提唱の貞和五年(一三四九)成立説が、長らく通説のようになっており、現在でも通史類や辞典類は、ほとんどこの説に拠っている。しかし、この説も今や、少なくとも正平七年(文和元年、一三五二)以降の成立と修正されるべき時期が来ているようだ。
 『梅松論』の成立年代にはじめてふれたのは栗山潜鋒の「弁梅松論」であるが、潜鋒はその中で、巻末に崇光院即位を記すこと、「後醍醐」の諡号があること、尊氏を「当将軍」と称することなどによって、『梅松論』成立は、後醍醐天皇の没後、後村上天皇時代の初め頃と推定している。
 菅政友氏の「梅松論二冊」(明治十八年稿)は、潜鋒説をさらにすすめて、書中に「当今量仁(光厳院)」「当今豊仁(光明院)」とあるのは、光明天皇の時代だが、実権は光厳上皇にあったため、ともに「当今」と称しているのであろうということ、巻末に「去程に春宮、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会の御沙汰ありて、公家は実に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と伝事もきこえず」とある記事によって、崇光院即位は貞和五年十二月二十六日であり、その前年に楠木正行も討死し、その頃は京都周辺に一時的平和が存在したことなどを理由に貞和五年成立説を提唱した。
 菅氏はさらに、上巻の後醍醐天皇隠岐遷幸(元弘二年、一三三二)記事中に「光陰すでに移り来て、廿余年に成ぬれば、見をきし事ども思ひ遣るにつけても、千行の涙袂を潤し、筆のうみ詞の林しを尽しても、争か其時の悲には及ぶべき」とあるのを、「廿余年」は「十余年」の写し誤りであろうとし、元弘二年から貞和五年まで十七年=「十余年」とみなして、貞和五年成立説を補強しようとしている。
 以後この菅氏説が通説のごとく流布したことは前述の通りであるが、この説にはじめて疑問を提起したのは五十嵐梅三郎氏の「梅松論の基礎的研究」(昭和十六年)である。五十嵐氏は、崇光院の即位や京都周辺に一時的に平和があったという貞和五年という年は、『梅松論』記事中の最終年を示すにすぎず、これを即著作年代とみなすべきではないとされ、さらに菅氏が、「廿余年」を「十余年」の誤写かとしたのは、自説の貞和五年に適合させるために都合のよい憶測であり、むしろこの「廿余年」を素直にうけ入れて、少なくとも正平七年(一三五二)以後数年間に著作されたとみるべきであろうと推定された。
 この五十嵐説は傾聴すべき好論であるにもかかわらず、長らくとりあげられなかったが、近年になって、小川信氏が、『梅松論』諸本を精査された結果、流布本系写本にすべて「廿余年」とあるばかりでなく、天理本・京大本といった古写本にも「廿余年」とあるから、誤写という菅氏の憶測は全く根拠がないことが判明するとして、五十嵐氏の正平七年以後成立説を支持された。
 小川氏は、さらに論をすすめて、この「廿余年」は、「何レノ年ニヤ」という物語上の仮託の年にすぎず、成立を正平七年以後数年間と限定する必然性もないとされ、また義詮について「実ニ末代ノ将軍ニテ御座アルヘキ瑞相カトソ覚シ」(京大本)と、将軍就職を予見している口吻がみえることなどから、義詮が将軍職を継いだ延文三年(一三五八)以後とする推測も成立しうるのではないかとされている。
 このように見てくると、『梅松論』の成立年代については、貞和五年に限定しようとする菅正友氏説には、とうてい従うことができず、現在のところ、少なくとも正平七年(文和元年、一三五二)以後とみておくのが最も妥当な線と思われる。
-------

菅政友(1824‐97)
栗山潜鋒(1671‐1706)
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0197 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その11)

2024-10-18 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第197回配信です。


一、前回配信の補足

小一条院の先例について

0195 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その9)〔2024-10-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a79c93b1bcf8d0427e09a0f31350df6

村田正志『南北朝史論』(中央公論社、1949)
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/4784203435/
村田正志(1904‐2009)

p59
-------
詔、朕忝承帝系、叨握神符、王道難単、謝徳於姫周之賢、庸昧可耻、宣化於夷夏之俗、而皇太子于謙譲合道、恵沢普及、今避儲位於青闈之月、伴仙遊於射岫之雲、仍雖無准的之旧蹤、加以礼制之崇敬、宜上尊号為太上天皇、普告遐邇、俾知朕意、主者施行、
   元弘三年十二月十日
-------

「雖無准的之旧蹤」とあって、小一条院には言及していない。
「太上天皇」の尊号を与えられる「皇太子」量仁親王にとって有難い先例とも思われないので、敢えて触れなかったのであろう。


二、光厳院が「治天の君」として政務を執ることを正当化する論理(続き)

(1)「廃位」の否定
(2)後醍醐から与えられた「太上天皇」の地位は、決して「小一条院」のような名目的なものではない。
(3)革命論

いずれも建武三年(1336)六月に光厳院が「治天の君」として振る舞うことを正当化するのは無理、ないし政治的に困難。
同年八月十五日、光明天皇が践祚するが、これは光厳院の「譲国詔」に基づくものであり、光厳院が「治天の君」であることを前提とする措置。
従って、光厳院自身が「治天の君」であることの正当化事由とはならず。

(4)瑕疵の治癒論

結局、同年六月(~八月)の時点では光厳院の「治天の君」としての資格に重大な欠陥があったことになる。
しかし、この後、次のような展開となる。

-------
 十月に入って、勝敗の趨勢が明らかになる頃、尊氏は後醍醐天皇に密使を送って帰洛の交渉を始めた。十月十日、それに応えて、後醍醐天皇は比叡山より還幸し、花山院に入った。【中略】
 十一月二日、花山院の後醍醐天皇から東寺の光明天皇に剣璽が渡された。内侍所(神鏡)は、東寺内に新造した別殿に納められた。また、同日、後醍醐天皇に太上天皇の尊号が送られた。
 十一月十四日、後醍醐天皇皇子の成良親王を光明天皇の皇太子に立てた。時に十一歳。母は阿野廉子。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c0d44bd0040629d3e32e71be80d3fee6

結局、後醍醐が叡山から下りて足利尊氏・光厳院と和解し、三種の神器を引き渡したことにより、後醍醐は

(1)六月の時点に遡って、光厳院が「治天の君」であったこと
(2)八月十五日の光明天皇の践祚は正当なものであったこと

を認めたことになる。
これにより、光厳院の正統性は補完された(正統性の瑕疵が治癒された)。

十二月二十一日、後醍醐天皇は花山院を抜け出し、吉野に潜幸。
しかし、尊氏は敢えて追わず。(『梅松論』)
正統性の補完は既に終わっていたから、ともいえる。

この後、後醍醐は北朝に渡した三種の神器が「偽器」と主張。

桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その1)〔2021-05-03〕
『増鏡』の「璽の箱を御身にそへられたれば」との関係〔2021-05-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5af73f6839bb106361ca3ebdfe686e45
「重祚の御事相違候はじと、尊氏卿さまざま申されたりし偽りの詞」(その1)〔2021-05-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea7f5f149c984f3086dd27d7600de8aa
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b04f6d886015eeaddd865d1c3851289e
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その14)〔2021-05-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93c597f63f25670e5df7a33e61a963eb
山家著(18)「尊氏らが擁立した光明天皇は、後醍醐天皇から皇位を受け継ぐ形をとっている」〔2021-06-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c77377e6560fa4ba2a244486ebc2f323
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