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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その26)─「和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝サリタリ」

2023-04-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で引用した部分の最後に「鎌倉ヘハ、大方〔おほかた〕、廿日路〔みち〕ナルヲ、十六日ノ暁〔あかつき〕、京ヲ出テ、十九日ノ申ノ刻ニ、鎌倉ヘコソ着ニケレ」とありますが、「廿日路」は少し大袈裟で、普通は二週間くらいですね。
久保田淳氏の脚注によれば、『海道記』の作者は十四日、『東関紀行』の作者は十二日、『十六夜日記』の阿仏尼は十三日かけて京から鎌倉に下っているそうです。
飛鳥井雅有も東海道のこまめな旅日記を残していますが、『都の別れ』・『春の深山路』を見たところ、いずれも十三日です。
ちなみに『とはずがたり』の後深草院二条は「二月〔きさらぎ〕の二十日あまりの月とともに都を出で」、翌月の「二十日あまりのほどに、江島といふところへ着き」、翌日鎌倉に入っているので、実に一箇月もかけていますが、これは途中で遊んでいるからに違いなく、中世東海道の交通事情を考える上では全く参考になりません。
ま、それはともかく、続きです。(新日本古典文学大系、p325)

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 伊賀判官ノ下人モ、同〔おなじき〕酉ノ時ニ着ニケリ。二位殿ニ参テ申ケレバ、被仰〔おほせられ〕ケルハ、「尼、加様〔かやう〕ニ若〔わかく〕ヨリ物思フ者、ヨモアラジ。鎌倉中ニ触〔ふれ〕ヨ」トゾ被仰ケル。サテコソ谷七郷〔やつしちがう〕ニ、騒ガヌ所ハナカリケリ。此由聞テ、二位殿ヘ参〔まゐる〕人々、武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏、此人々参給フ。
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承久の乱の勃発を知らせる京都からの使者は、流布本『承久記』では「院宣の御師」の「推松」と「平九郎判官」の「私の使」の二人だけ、慈光寺本『承久記』では「伊賀判官下人」・「院御下部押松」・「平判官ノ下人」の三人ですが、『吾妻鏡』には、承久三年五月十九日条の登場順に

(1)「大夫尉光季」の「飛脚」
(2)「右大將家司主税頭長衡」の「飛脚」
(3)「関東分宣旨御使」の「押松丸<秀康所従云々>」
(4)「廷尉胤義<義村弟>」の「私書状」持参者

の四人が出てきます。
慈光寺本は西園寺家の使者の存在を無視しており、ここでも西園寺家に冷たいですね。
これらの使者の異同については、以前、少し検討したことがあります。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a661a29e8653b62211e2b7c18c23b7c1
何故に「押松丸」は『吾妻鏡』に登場するのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/baf530ec127f42d6beefdff1027efaee

さて、続いて政子の演説となります。(p325以下)

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 二位殿被仰〔おほせられ〕ケルハ、「殿原、聞玉〔ききたま〕ヘ。尼、加様〔かやう〕ニ若〔わかく〕ヨリ物思フ者候ハジ。一番ニハ姫御前〔ひめごぜん〕ニ後〔おく〕レマイラセ、二番ニハ大将殿ニ奉後〔おくれたてまつり〕、其後、又打ツゞキ左衛門督殿ニ<頼家>後レ申、又無程〔ほどなく〕右大臣殿ニ<実朝>奉後。四度ノ思〔おもひ〕ハ已ニ過タリ。今度、権大夫被打〔うたれ〕ナバ、五ノ思ニ成ヌベシ。女人五障トハ、是ヲ可申哉覧〔まうすべきやらん〕。殿原ハ、都ニ召上ラレテ、内裏大番ツトメ、降〔ふる〕ニモ照〔てる〕ニモ大庭〔おほには〕ニ舗皮布〔しきがわしき〕、三年ガ間、住所〔すむところ〕ヲ思遣〔おもひやり〕、妻子ヲ恋〔こひし〕ト思ヒテ有シヲバ、我子ノ大臣コソ、一々、次第ニ申止〔まうしとどめ〕テマシマシシ。去バ、殿原ハ京方ニ付〔つき〕、鎌倉ヲ責〔せめ〕給フ、大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ者ナラバ、御恩蒙〔かうぶり〕テマシマス殿原、弓矢ノ冥加ハマシマシナンヤ。カク申〔まうす〕尼ナドガ深山ニ遁世シテ、流サン涙ヲバ、不便〔ふびん〕トハ思食〔おぼしめ〕スマジキカ、殿原。尼ハ若〔わかく〕ヨリ物ヲキブク申〔まうす〕者ニテ候ゾ。京方ニ付テ鎌倉ヲ責ン共、鎌倉方ニ付テ京方ヲ責ントモ、有〔あり〕ノマゝニ被仰〔おほせられ〕ヨ、殿原」トコソ、宣玉〔のたま〕ヒケレ。武田六郎信光、進ミ出テ申ケルハ、「昔ヨリ四十八人ノ大名・高家ハ、源氏七代マデ守ラント契申〔ちぎりまうし〕テ候ケレバ、今更、誰カハ変改〔へんがい〕申候ベキ。四十八人ノ大名・高家ヲバ、二位殿ノ御方人〔おんかたうど〕ト思食セ」トゾ申タル。此信光ガ申詞〔まうすことば〕ニ、残ノ人々皆同ジニケリ。異儀ヲ申人〔まうすひと〕、一人モナカリケリ。二位殿、悦テ重テ被仰様、「サラバ殿原。権太夫ガ侍〔さぶらひ〕ニテ、軍〔いくさ〕ノ僉議ヲ始メ給ヘ」トゾ被仰ケル。此由承リ、皆大夫殿ヘゾ参リ玉フ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/07a35b665e1e27bd981fc169c4fa7ffb

政子の演説内容の整理と流布本との比較は先日行いました。

流布本も読んでみる。(その12)─「尼程物思たる者、世に非じ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9854a9a3a206b7a5b3ad99fd91c09cf
(その13)─「一天の君を敵に請進らせて、時日を可移にや。早上れ、疾打立」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64c7d8a7d233b802827b85946ddb2266
(その14)─慈光寺本の政子の演説との比較
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/00bd3e649b0356c54796c755db41a69e

さて、続きです。(p326以下)

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 去程〔さるほど〕ニ、平判官〔へいはうぐわん〕ノ下人〔げにん〕モ、同〔おなじき〕十九日酉ノ時計〔ばかり〕ニ、駿河守ノ許ヘゾ付ニケル。弟ノ使見付〔みつけ〕テ、「何事ゾ」と問ハレケレバ、「御文候」トテ奉ル。開見〔ひらきみ〕テ云〔いは〕レケルハ、「恐シノ平九郎ガ、今年三年都ニヰテ、云ヲコセタル事ヨ。一年〔ひととせ〕、和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝〔ま〕サリタリ。加様ノ事ハ二目〔ふため〕共見ジ」トテ、文カキ巻、平九郎ガ使ニ、「己計〔おのればかり〕カ」ト問レケレバ、使申ケルハ、「院ノ御下部〔おんしもべ〕押松、権大夫殿打ンズル宣旨持テ下リ候ツルガ、鎌倉ヘ入候トテ、放〔はなれ〕テ候」トゾ申ケル。駿河守、重テ云ハレケルハ、「関々ノキビシケレバ、返事ハセヌゾ。平九郎ニハ、サ聞ツト計〔ばかり〕云ヘヨ」トテ、弟ノ使ヲ上〔のぼせ〕ラル。
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慈光寺本では、「院御下部押松」が五月十九日の申刻(午後三時から五時の間)、少し遅れて「伊賀判官ノ下人」が同日の酉刻(午後五時から七時の間)に鎌倉に到着し、後者が政子に報告して政子の演説となりますが、「平判官ノ下人」も「伊賀判官ノ下人」と同じ酉刻に「駿河守」三浦義村邸に到着しています。
「平判官」胤義の使者への三浦義村の対応を見ると、流布本では、

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平九郎判官の使は案内者にて、先に鎌倉へ走入て、駿河守に文を付たれば、披見して、「返事申べけれ共、道の程も如何敷〔いかがしき〕間、態〔わざ〕と申さぬ成」とて追出しぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb8174293efd36308a8538be3489afe3

ということで、何の感想もありませんが、慈光寺本では「和田左衛門ガ起シタリシ謀反」という三浦一族にとって極めて微妙な問題への言及があります。
ただ、胤義への返事は「関々ノキビシケレバ、返事ハセヌゾ」ということで、流布本と同じですね。

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