学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その2)

2023-02-01 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

第一節には二位法印尊長の所領だった頭陀寺領椋橋荘に関して興味深い記述がありますが、それは後で見ることとし、「二 承久の乱前後の椋橋領荘」に入ります。(p63以下)

-------
 椋橋荘と承久の乱の関係を考察するにあたって、まず最初に引用すべき史料は『吾妻鏡』の記述であろう。建保七年(一二一九)三月九日、後鳥羽上皇の使者として故源実朝の弔問に鎌倉に下った内蔵頭藤原忠綱は、まず北条政子に会って、実朝の死を悼む叡慮を伝えた後、ついで執権北条義時と会見し、「摂津国長江・倉橋両庄地頭職、可被改補事已下 院宣条々」を伝えた。ここでは何故長江・倉橋両荘の地頭職の改補が要求されたのか、その理由を記していないが、承久三年(一二二一)五月十九日、政子が承久の乱の決起にあたって招集した御家人に頼朝以来の御恩を説いた有名な言葉につづけて、編者が、

  武家背天気之起、依舞女亀菊申状、可停止摂津国長江・倉橋両庄地頭職之由、二箇度
  被下 宣旨之処、右京兆〔北条義時〕不諾申、是幕下将軍時募勳功賞定補之輩、無指
  雜怠而難改由申之、仍逆鱗甚故也云々、

と解説している。このように『吾妻鏡』は承久の乱の最大の原因を長江・倉橋両荘の地頭職停止問題に求めているのであるが、舞女(白拍子)亀菊の申状に基づいて、後鳥羽院が幕府に要求したというくだりは、『吾妻鏡』の編者の文章であることに注意しておく必要がある。
 次に検討してみたいのは『承久記』の記述であるが、最も古い形態を示すとされ、近年評価が高い慈光寺本を取り上げる。

  其由来ヲ尋ヌレバ、佐目〔女カ〕牛西洞院ニ住ケル亀菊ト云舞女ノ故トゾ承ル。彼人
  寵愛双〔ならび〕ナキ余、父ヲバ刑部丞ニゾナサレケル。俸禄不余思食テ、「摂津国
  長江庄三百余町ヲバ、丸〔まろ〕ガ一期ノ間ハ、亀菊ニ充行ハルゝ」トゾ、院宣下サ
  レケル。刑部丞ハ庁ノ御下文ヲ額ニ宛〔あて〕テ、長江庄ニ馳下、此由執行シケレ共、
  坂東地頭、是ヲ事共セデ申ケルハ、「此所ハ右大将家〔源頼朝〕ヨリ大夫殿〔北条義
  時〕ノ給テマシマス所ナレバ、宣旨ナリトモ、大夫殿ノ御判ニテ去マヒラセヨト仰ノ
  ナカラン限ハ、努〔ゆめ〕叶候マジ」トテ、刑部丞ヲ追上スル。仍此趣ヲ院ニ愁申ケ
  レバ、叡慮不安カラ思食テ医王左衛門能茂ヲ召テ、「又長江庄ニ罷下テ、地頭追出テ
  取ラセヨ」ト被仰下ケレバ、能茂馳下テ追出ケレドモ更ニ用ヒズ。能茂帰洛シテ、此
  由院奏シケレバ、仰下サレケルハ、「末々ノ者ダニモ如此云。増シテ義時ガ院宣ヲ軽
  忽スルハ、尤理也」トテ、義時ガ詞ヲモ聞召テ、重テ院宣ヲ被下ケリ。「余所〔よそ〕
  ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計ヲバ去進〔さりまいら〕スベシ」トゾ書
  下サレケル。義時、院宣ヲ開テ申サレケルハ、「如何ニ、十善ノ君ハ加様〔かやう〕
  ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ、故右大将ヨ
  リモ、義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍〔さながら〕頸ヲ被召トモ、努力叶
  候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背ケレ。

 いささか引用が長くなったが、この記述でさしあたり注目されるのは、後鳥羽院が舞女亀菊に与えたのは長江荘三百余町のみであって、椋橋荘については何の言及もないこと、また長江荘の地頭職は右京権大夫北条義時が源頼朝から最初に御恩として与えられた所職であって、絶対に手放すことのできない所領だと述べていることである。なお、後鳥羽上皇が地頭(代官)を追い出すために現地に派遣したという医王能茂は、院の近臣として院方武力の中心的な役割を果した藤原秀康の甥にあたり、承久の乱後も上皇にしたがって配流地の隠岐に渡った人物として知られる。
-------

いったん、ここで切ります。
慈光寺本の亀菊エピソードは既に紹介済みですが、あえて重複を厭わず引用しました。

「長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da

ところで、「医王能茂」は慈光寺本の下巻でも妙に重要そうな人物として登場してきます。
即ち、承久三年七月十日、「武蔵太郎」北条時氏が鳥羽殿に行って「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ」と「琰魔〔えんま〕ノ使」の如き声で怒鳴ると、最初は返事はなく、時氏がもう一度怒鳴ると、今度は「勅答」があって、「麻呂ガ都ヲ出ナバ、宮々ニハナレマイラセン事コソ悲ケレ。就中〔なかんづく〕、彼堂別当〔かのだうべつたう〕ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便〔ふびん〕に思食レツル者ナリ。今一度見セマイラセヨ」とのことです。
隠岐に流される直前の後鳥羽の最後の願いが能茂に会うことなのだそうですが、これを聞くと閻魔の使いの如き時氏が何故か涙を流し、父の「武蔵守」泰時に、後鳥羽院の最後の願いをかなえてやってくれ、という「御文」を書き、それを読んだ泰時が、「時氏ガ文御覧ゼヨ、殿原。今年十七ニコソ成候ヘ。是程ノ心アリケル、哀ニ候」などと激賞して、後鳥羽院と北条時氏の希望をかなえてやる、という訳の分からない展開となります。
これをG味F彦氏流に解釈すると、後鳥羽院と能茂は同性愛なんだろう、ということになりそうですが、仮にそうだとしても、時氏・泰時が感動する理由がよく分りません。
ということで、私はどうも能茂は怪しい、もしかしたらこの奇妙なエピソードは能茂が慈光寺本作者の周辺にいることを示しているのではないか、いや、能茂が作者そのものなのではなかろうか、などと妄想しております。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「関係史料が皆無に近い」長... | トップ | 慈光寺本『承久記』の作者は... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事