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新車販売の不振とマニフェスト

2007年08月02日 19時50分42秒 | 社会全般
選挙が終わった途端に「マニフェスト」などと書こうものなら、何をいまさらという話になってしまうかもしれませんね。いやいや、ここで民主党のマニフェストを検証してみよう、などという提案をしているわけではないので、心配はご無用。


以前に新車販売の不振について書いた(車を売りたきゃ金をくれ!~by 家なか子)のですが、その話に関連して追加しておきます。念のために書きますと、「家なか子」というのはかつてのドラマ「家なき子」のパロディであり、「同情するなら金をくれ」の名セリフ?に引っ掛けたものであります。で、最近の若者はあまり外出したりせず、屋内での活動や娯楽が多いと思えましたので、「駅ナカ」っぽく「家なか」としたものであります。多くの方々にそれくらいはご理解されたであろうなと思いましたが、はたと「ひょっとしてドラマのことを知らない人たちも多いのではないだろうか?」と不安になり、どうでもよい解説をしてしまった次第です(笑)。


これは別にどうでもよい話なのですが、販売不振の根本的な理由としては、やはり「車が好き」という人が減ってきているということであるなら、これは中々解決が難しい話なのかもしれないな、と思えます。「サモトラケのニケ」よりも美しい、というかつての形容は、既に時代遅れとなったことを意味するのかもしれません。「サモトラケのニケ」は有名ですが、車がそれよりも美しいとは一体どういうことなのか?私も疑問に思えました。その原点とは、かつての「マニフェスト」―Manifesto―にありました。民主党がでっかく掲げてきたヤツですね(笑)。


マニフェスト - Wikipedia

日本のマニフェストは若干違った意味合いで用いられるようになりましたが、イタリア語表記の通り、イタリアでの意味があったのです。日本では、何でもよく判り難いカタカナ語が好まれるのかもしれませんが(笑)、平凡に「公約」とか「政策宣言」とか日本語を用いる方がいいように思ったりします。


先の「サモトラケのニケ」よりも車が美しいと形容されたのは、まさしく「Manifesto」の中においてでした。これはフューチャリズムと呼ばれる運動があったのです。まさしく『スチームボーイ』的世界が普通だった時代の、未来を先取りしたものであったのかもしれません。

未来派 - Wikipedia

このマリネッティら未来派たちの1909年に出した宣言(Manifesto)というのが「未来派宣言」でした。これは梅田氏の「フューチャリスト宣言」とは関係はありません(笑)。一応念の為。

さてその例文を見てみましょう。

高橋伸一:比較文学概論:20世紀的暴力と破壊の芸術の誕生

(こちらから引用いたします)

「われわれの胸は大きな自信でふくらんでいた。そんな時間に目を覚まし起きているのはわれわれしかおらず、われわれ自身が、天上の野営地から瞬きする星の敵軍に対峙した前衛部隊か、孤高の燈台になったような気がしていたからだ。われわれのほかに目を覚ましていた者といえば、巨大な船の灼熱のボイラーの前で動きまわる火夫や、猛り狂ったように疾走する機関車の、燃えたぎるはらわたのなかをかきまわす黒い亡霊や、街の壁ぎわにそって、ぎこちなく手をばたつかせる千鳥足の酔っぱらいだけだった。

多彩な光に輝き、揺れながら通り過ぎる巨大な2階建て路面電車のすさまじい騒音に、われわれは不意をつかれた。それは、氾濫したポー川が突然、祭日の村落を揺り動かし根こそぎにして、洪水の渦にまきこみながら滝を下り、海まで運びさるさまに似ていた。

それから静寂がさらに深まった。しかしわれわれが、力なくつぶやくような古い運河の祈りや、湿った植物の根のうえで壊れかかった建物の骨組みがきしむ音を聞いているあいだも、窓の下からは貪欲な自動車の咆哮がすぐに聞こえてきた。」

どうでしょうか?その煽動的で、機械少年の感性を刺激する文章は。「灼熱のボイラー」や「疾走する機関車」や「自動車の咆哮」といったものは、現代のロボット(アニメも?)を好む若者の心を刺激するのと似ていませんか?超音速で飛ぶ戦闘機の得体の知れない魅惑とも似ていませんか?要するに、男子の心はこういうメカメカしたものに弱いのですね(笑)。1909年の世界においても、そうであったということなんでしょうか。

元々フランス語で書かれていたということらしいので、「敵軍に対峙した前衛部隊」というところでは、まさしく「アバンギャルド avant-garde」と書かれていたかもしれません(原文を見たことがないし、仏語は全然知らないので、推測です)。仏軍的なgardeというのが思い起こされます。

更に見てみましょう。

「4.世界の偉大さは、ある新しい美によって豊かになったとわれわれは断言しよう。それは速度の美である。爆風のような息を吐く蛇に似た太いパイプで飾られたボンネットのあるレーシングカー……散弾のうえを走っているように、うなりをあげる自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい。」

これが自動車の美について語られた部分ですね。詩的ではありますが、何かの倒錯感をも感じてしまうかもしれません。
もっと怖いのが次の部分です。

「9.われわれは、世界の唯一の健康法である戦争、軍国主義、愛国主義、無政府主義者の破壊的な行動、命を犠牲にできる美しい理想、そして女性蔑視に栄光を与えたい。」

日本の憲法9条と未来派の書いた「Manifesto」の9条では、大きく違いますね。「唯一の健康法である戦争」とは、これまた過激です。「命を犠牲にできる美しい理想」というのも相当アブナイですよね。でも、この未来派宣言はフィガロに掲載されたのですね。機械信奉、科学技術信奉、とまでは行かないのかもしれませんが、自然なものへの反抗とか危険思想への傾倒というようなものが窺えます。現代のネット世界でもこれと似たようなことが起こっているかもしれません。

昔から自動車の美しさを感じてはいたものの、フューチャリズムの運動家たちの掲げたマニフェストには同意しかねる、という部分が相当多く含まれていたのではないかと思えます。それは当時の空気を知らないからそう思ってしまうのでしょうか。当時としては、戦争の肯定というのがごく普通であったとか、『風の谷のナウシカ』や『ハウルの動く城』で描かれる戦争や兵器という機械信奉のようなものが、マリネッティに限らず多くの人々の心に芽生えていたのかもしれません。

いずれにせよ、自動車が売れなくなってきた本当の理由とは、「サモトラケのニケ」の方が美しいということに気付いた人々が多くなったから、という案外単純なことだったりするのでしょうか(笑)。多大な時間と犠牲の代償として、それだけ人類は賢くなったということなのかもしれませんが、授業料としてはあまりに高すぎでした。




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