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高速増殖炉「もんじゅ」と最高裁判決

2011年03月26日 16時35分59秒 | おかしいぞ
福島第一原発(1F)の問題は、日本の原子力行政に注目が集まる機会になったはずだ。

これには、当然ながら司法という問題も関係しているということを知るべきだろう。


今、「もんじゅ」は「1F騒動」の陰に隠れているが、いずれ表面化する。

夢の高速増殖炉「もんじゅ」が福島第一原発よりヤバい状態になりそうで責任者が自殺してたんだけど知ってた? : 2のまとめR
(意味不明のフィギュアはやだな)

この下段の方にある「日本原子力研究開発機構」のHPは、何故か開けなくなっていた(笑)。


もんじゅに関連して、最高裁判決はどうなっていたか?

05年6月>もんじゅと住基ネットと行政裁判


最高裁なんて、所詮こんなもんだ。
最高裁判事なんて、物事をしっかり考えるとか、合理的・科学的に考え評価する、なんてことも、どうせできない連中が集まっているのかもしれないな(笑)。

再掲しておくか?

スリーマイル島の事故は、当時の安全審査では「10億年に1回」という確率でしか起こりえないとされたことが、現実には起こったのだ。また、チェルノブイリでは、幾つものヒューマンエラーが重なり、安全対策は無効となってしまった。そうした過去の事例を踏まえながら、日本の原子力施設は設計・工事され、安全対策が講じられたとは思うが、それでもやはり、もんじゅのナトリウム漏れが起こってしまった。原子炉の形式なども異なるし、一概に比較などできないが、安全審査基準が妥当なのかどうか、ということだけ考えてみても、行政の責任が果たされてきたのかは疑問である。もしも万全と言える施設ならば、そもそももんじゅの事故は起こらなかったのではないか?事故が起こる時には、通常事前に専門家達が考える「想定内」の出来事ではないことが起こるのである。原子力施設という、万が一にも事故が発生した場合の甚大被害を考慮すれば、十分なまでの慎重さが求められることは当然であると思う。また、細部に渡る安全基準の責任を行政が負わなければ、一体誰がこの責任を負うのであろうか。

その意味では、今回の最高裁判決はそうした「基準の甘さ」というものには触れずに、”用意された専門家”の判断基準をもって「適法」としたことは、大いに疑問が残る。最高裁の「行政寄り」と言われてしまう所以は、こういうところにあるように思う。10年も放置されている高速増殖炉に求められる基準ということについて、具体的な「危険性」「重大事故可能性」という部分への認定が行われるべきであり、行政に求める「クリアすべき基準」というものについても判断を示しておくのが住民側に立った判決なのではないか。私には法的判断の是非について述べられるほどの知識もないのであるが、司法が行政への踏み込んだ判断をしてくれることも必要であると思っている。今後の課題は原子力行政の見直しであり、高速増殖炉自体の存在が本当に必要なのかは、広く国民の議論・判断をする必要がある。現状では、原子力行政への国民の信頼は乏しいと言わざるを得ない。諸外国では欧州を中心に高速増殖炉建設中止が相次いでおり、日本でも昔の政策決定当時と現状の認識は一致しているとも言えず、もんじゅ運転再開が妥当なものなのか、私には疑問である。



要するに、素人でも分かりそうなことを、最高裁判事の面々が揃って「愚かな判断」をすると、こうなる、ということの見本みたいなもんか。
取り返しのつかないことになる、ってことだ。
彼らに重要な判断を任せると、こういう結果を招くということなんじゃないのか?
何の為に、裁判官が存在しているのか、分からんな。


もっと言えば、「いない方がマシ」ってことなんじゃないの?
存在意義が問われているんだよ。
最高裁という司法の頂点は、検察と同様に「不信感」の象徴になってきている、ということを言っているんだよ。


最高裁が、「よくぞ未然に防ぎましたね、お見事」というのが一つでもあるなら、そういう重要な判断を出した例を挙げてみろ。日本のクソ司法がこの程度だったのだな、という実証には事欠かない、ということなんじゃないのか?

この国では、この程度の司法機関が通用してきた、ってことなのだろう。


まあ、良心もプライドもあるかどうか判らないような裁判官とやらに、恥があるのかは不明だけどな。
何とも思わない、屁でもない、ということかもしれんから。そうじゃなきゃ、こんな司法を続けてこれたわけはないのだしな(笑)。




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