前の記事にコメントを頂いたので、少しお答えをしたいと思います。
悪い予想が現実になってしまった
まず、今までにも幾度か指摘されたのですが、私は官僚なんかではありません(笑)。生まれてこのかた、「公務員」になったことなど、一度もないのです。「官僚みたいな物事の見方」という厳しいご指摘は、非常に痛いところでございます。いつも私が官僚や公務員を批判しているのに、自分自身がそれと同じなのかと思うと辛いですし、同時に深く反省せねばならないなと思いました。ただ、我々国民にも行政の一部に留まっている情報を取り入れたり理解しようとしたりする努力も、いくらかは必要だろうと思います。これは私もそうだろうと思っています。一国民の立場だと、行政側がどんなことをやっているのか、よく判らなかったりすることが多いのです。
私は既に40過ぎなのですが、私が生まれたのは田舎で、しかも自宅で生まれました。私の兄弟も自宅出産でした。当時は、病院での出産に移行していく途上でして、恐らく都市部の大半では病院出産になっていたと思いますが、3人に1人くらいは自宅出産であった時代だと思います。多分東京オリンピック頃を境にして、病院出産が一般的に広まっていったのではないかと思います(これは推測に過ぎないですが、統計的には大体そういう傾向です。高度経済成長時期に平行して都市化が進展したからであろうと思います)。自分の家は貧乏であったことも自宅出産を選択の理由であったと思います。私を取り上げてくれたのは、祖母でした(これは後年母から聞かされました、笑)。現代では考えられないと思いますが、私はこうして生まれてきました。
通常の出産というのは、自分ひとりでも出産可能であり、特別なことがなければ、私の祖母が取り上げても何ら事故など起こらないのです。これが看護師であっても、勿論そうです。実際には、問題が起こり得る場合というのは、ずっと少ないし限られていますが、リスクとしては病院出産に比べて高くなると思います。問題が起こる時というのは、医師がいても、或いは助産婦がいても、起こってしまうのです。事前に予期できるものもありますし、予期不能のものもあるのです。そうは言っても、事故や医療過誤に遭われた方々にとっては、確率で言えば「1分の1」という100%なのであり、心情的にも許すことはできないというのは判ります。「確率なんかじゃないんだ」というのは、当事者にとっては必然的な思いであるということも。ミスをすること、違法な医療行為をすること、それらが簡単に許されていいということではありません。しかしながら、それらと、医療のシステムとか法律、政策、といったことはやや異なる部分があると思います。「最善」を常に求めるのであれば、その為のコストを国民全部が負担するという意思が必要であるということです。
つい最近、車の転落事故で「ガードレールの強度が不足していた」という報道がありましたが、これも事故で考えられる荷重に耐えうるガードレールを設置することは、いくらでも可能です。日本の技術力をもってすれば、高強度のチタン製ガードレールさえも作れるかもしれません。しかし、その設置にかかるコストというのは膨大になってしまい、その為だけに数兆円か数十兆円かかるかもしれませんが、ガードレールからの転落事故は防げるようになるかもしれません。そのことを国民が賛成し許容でき得るならば、そうするべきです。他の重視するべき何かよりも、そうした転落事故を防ぐ方を選択するかどうかです。
何かのシステムを作ろうとする時、無限にお金や人材などを使える訳ではないので、どの水準で何を優先して国民が求めていくか、ということが重要なのだろうと思います。
次の記事で、法的解釈を考えてみます。
「悪法も法なり」という言葉を頂いておりますし。
悪い予想が現実になってしまった
まず、今までにも幾度か指摘されたのですが、私は官僚なんかではありません(笑)。生まれてこのかた、「公務員」になったことなど、一度もないのです。「官僚みたいな物事の見方」という厳しいご指摘は、非常に痛いところでございます。いつも私が官僚や公務員を批判しているのに、自分自身がそれと同じなのかと思うと辛いですし、同時に深く反省せねばならないなと思いました。ただ、我々国民にも行政の一部に留まっている情報を取り入れたり理解しようとしたりする努力も、いくらかは必要だろうと思います。これは私もそうだろうと思っています。一国民の立場だと、行政側がどんなことをやっているのか、よく判らなかったりすることが多いのです。
私は既に40過ぎなのですが、私が生まれたのは田舎で、しかも自宅で生まれました。私の兄弟も自宅出産でした。当時は、病院での出産に移行していく途上でして、恐らく都市部の大半では病院出産になっていたと思いますが、3人に1人くらいは自宅出産であった時代だと思います。多分東京オリンピック頃を境にして、病院出産が一般的に広まっていったのではないかと思います(これは推測に過ぎないですが、統計的には大体そういう傾向です。高度経済成長時期に平行して都市化が進展したからであろうと思います)。自分の家は貧乏であったことも自宅出産を選択の理由であったと思います。私を取り上げてくれたのは、祖母でした(これは後年母から聞かされました、笑)。現代では考えられないと思いますが、私はこうして生まれてきました。
通常の出産というのは、自分ひとりでも出産可能であり、特別なことがなければ、私の祖母が取り上げても何ら事故など起こらないのです。これが看護師であっても、勿論そうです。実際には、問題が起こり得る場合というのは、ずっと少ないし限られていますが、リスクとしては病院出産に比べて高くなると思います。問題が起こる時というのは、医師がいても、或いは助産婦がいても、起こってしまうのです。事前に予期できるものもありますし、予期不能のものもあるのです。そうは言っても、事故や医療過誤に遭われた方々にとっては、確率で言えば「1分の1」という100%なのであり、心情的にも許すことはできないというのは判ります。「確率なんかじゃないんだ」というのは、当事者にとっては必然的な思いであるということも。ミスをすること、違法な医療行為をすること、それらが簡単に許されていいということではありません。しかしながら、それらと、医療のシステムとか法律、政策、といったことはやや異なる部分があると思います。「最善」を常に求めるのであれば、その為のコストを国民全部が負担するという意思が必要であるということです。
つい最近、車の転落事故で「ガードレールの強度が不足していた」という報道がありましたが、これも事故で考えられる荷重に耐えうるガードレールを設置することは、いくらでも可能です。日本の技術力をもってすれば、高強度のチタン製ガードレールさえも作れるかもしれません。しかし、その設置にかかるコストというのは膨大になってしまい、その為だけに数兆円か数十兆円かかるかもしれませんが、ガードレールからの転落事故は防げるようになるかもしれません。そのことを国民が賛成し許容でき得るならば、そうするべきです。他の重視するべき何かよりも、そうした転落事故を防ぐ方を選択するかどうかです。
何かのシステムを作ろうとする時、無限にお金や人材などを使える訳ではないので、どの水準で何を優先して国民が求めていくか、ということが重要なのだろうと思います。
次の記事で、法的解釈を考えてみます。
「悪法も法なり」という言葉を頂いておりますし。
確かに官僚的と言われても仕方ないかもw
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2006/08/post_631f.html
これを見ていると「悪法も法なり」みたいな国民様がいる限りこの国は駄目だと言う方も成立してしまいます。blog主が、腐った官僚を叩こうとしてるのに、愚民に背中から刺されると言う構図は悲劇的ですね。
笑えました。有難うございます。元気がちょっとでました。でも、私も愚民の1人なので、何とも言いようがなかったり・・・むしろ理解できる反応だと思います。