オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
since 2007.4.16
写真など一切の転用、転載を禁止します

2015年通信簿 9 福浦和也

2015-11-07 01:50:45 | 千葉ロッテ

9 福浦和也 内野手 40歳 年俸4500万円

【2015年成績】 73試合 173打数 17得点 47安打 打率.272 3二塁打 0三塁打 2本塁打 21打点 1盗塁 26四死球 34三振 得点圏打率.288 

春季キャンプの二軍スタートはベテランなので調整は自分のペースで、ということだったのでしょうが、しかしオープン戦での出番も少なく、これまで功労者ながらも冷たい仕打ちにあう傾向の強かった福浦ですから今季限りのカウントダウンが始まったかのような、そんな不安な出足でした。
しかし意外にも開幕一軍で4月早々にスタメンで4年ぶりのアーチ、さらには5年ぶりの二発、翌日にはマルチヒットとびっくり仰天の大活躍、6年ぶりの盗塁なんて話題も提供をしてくれましたし、しかし尿管結石で抹消があるなど乗れそうで乗れない、そんなもやもやした感じもあったシーズンでもあります。
それでも7月にやや調子を落としたものの全体的には好調を維持しての.272は不規則な起用を考えれば立派ですし、不甲斐ないベテラン勢の中では抜けた活躍でしょう。
本人はあまり意識はしていない、とは口にしますが本音はどうなのか、諦めかけたこともあったであろう2000本安打に47本を積み上げての1912安打で、現実感が出てきました。
来季に、は厳しいでしょうが、再来年に期待ができるよう来季も50安打を目標に、千葉の至宝の輝きを見せてください。

ただ福浦が今季のように五番を任されるような打線になれば、本人にとってもチームにとっても不幸なことになります。
久しぶりのアーチはあったものの十八番の二塁打も激減をして岡田チックになっていますから、六番か七番あたりでイヤな存在になる、が理想でしょう。
福浦と言えども寄る年波には勝てずに出続けるとバットが湿りますので、8月ぐらいから井口との併用で3割近い打率を残したこともあり、やはり適度な休養が必要なのだと思います。
そのあたりのベテランをどう上手く使いこなしていくのか、これはベンチの責任範疇です。
どうしてもスピードボールには反応が遅れて簡単に凡退をするケースが増えてきましたが、ここまで培ってきた技術で技ありのヒット、ショートの頭を越えていくような打球に福浦らしさがまだまだ健在ですから、あとはちんたら走りをもう少し何とかしてベンチ、スタンドの印象を悪くしないようにすることも必要でしょう。
そして球界でも屈指の一塁守備、かつて西岡や今江が救われたように、今季に守備機会が増えたことで内野守備が昨年に比べて締まった感じがあります。
バウンド処理のグラブ捌き、軟体動物のような身のこなしは、横への動きの鈍りを差し引いてもゴールデングラブ賞をあげたいぐらいです。
こうなってしまえば2000本安打は本人の思惑を超えて責務になりつつありますから、走攻守ともに俺たちの福浦であってくれることを願います。

2007年通信簿 2012年通信簿
2008年通信簿 2013年通信簿
2009年通信簿 2014年通信簿
2010年通信簿
2011年通信簿


【オリオン村査定】 4500万円 → 5000万円 (△11%)


にほんブログ村 野球ブログ 千葉ロッテマリーンズへ
一日一クリック応援をお願いします。

コメント (24)

笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 仙台の巻 仙台城の章

2015-11-07 00:13:14 | 日本史

 

試合が終わってもまだ明るかったので、翌日に仙台市街を巡るのにバスがいいのかレンタサイクルでいけるのか、その事前リサーチのために足早に仙台に戻りました。
そしてどうにもならない坂があるのは仙台城跡のみ、であることが分かったのでレンタサイクルに予約を入れて、あとは暗くなるまでの散策です。
何度も訪れているので今回の予定から外していた仙台市博物館にも足を運んで、この旅の締めくくりに向けての気勢を上げました。

その仙台市博物館の特別展は興味を惹くものではありませんでしたが、常設展はさすがに伊達氏のお膝元、それにかかる展示は充実をしています。
この場所は仙台城の三の丸跡にあり、その出入り口となっていたのが子ノ門です。
現在も両側に石垣が遺されていますが昭和に入ってから修理をされたものとのこと、史跡としての価値はあまりないのかもしれません。

裏庭と言っていいのか中庭と言っていいのか、入口の左脇にあるのが伊達政宗の胸像です。
仙台城の騎馬像は二代目とのこと、こちらが初代で、戦時中の金属供出により回収をされたものの、なぜかこの部分だけが戦後に塩竃市内で発見されました。
さすがに軍関係者も政宗の顔を潰すことができなかったのか、そして修復をされて今に至ります。
この胸像のレプリカが欲しかったのですが商品化がされておらず残念至極、仕方がないのでチープな騎馬像のお買い上げはまた別の話です。

alt=

そこからてくてくと坂を登っての、大手門脇櫓です。
ご多分に漏れず明治以降に失われてしまった仙台城は、それでも大手門、脇櫓、巽門が遺されていましたが、第二次世界大戦末期の仙台空襲で焼失をしてしまいました。
現在のものは昭和42年に再建をされたもので、L字型になった一階の角の部分に二階が乗っている形となっています。
今となってはこの脇櫓が唯一の建物ですので、仙台城と言えばトップの写真、のイメージが強いのではないかと思います。

その脇櫓と道を挟んだ背後にあるのが、支倉常長像です。
支倉氏はかなり古いころからの伊達氏の家臣で、常長も朝鮮の役に出兵をするなど武将としての事績も残されていますが、やはり常長と言えば慶長遣欧使節でしょう。
徳川幕府に対する政宗の野心、の一環ともされる慶長遣欧使節はルイス・ソテロを正使、常長を副使として派遣され、スペイン国王やローマ教皇に謁見するなどはしたものの、目的とされた通商交渉、あるいは軍艦の派遣は成されずに失意のままに帰国、7年間の努力が報われることはありませんでした。
ローマで洗礼を受けた常長は既にキリシタンに対する弾圧が激しくなっていた日本で生き場所を見つけられず、帰国から2年後に病没をしています。

脇櫓の前の道をうねりながら登っていくと、中門跡、本丸北壁石垣、詰門跡です。
中門は大手門から本丸に至る道の途中に設けられていた二階門で、寅門とも称されていました。
本丸北壁石垣は切石積みで切り立った石垣のスケールはさすがに雄藩、解体修復工事の際の調査で築城後に二度の大規模な改修がされたことが分かっています。
詰門は登城口にあたり、東西に三重の脇櫓を備えた二階建ての門で、本丸への侵入を阻むための最後の砦だったのでしょう。
写真は左から中門跡、本丸北壁石垣、詰門跡です。

仙台城跡には何度か足を運んだことがあるのですが、この本丸大広間跡は記憶にありません。
帰ってきてから調べてみれば、ここ数年に整備をされたもののようです。
30メートル四方ぐらいの敷地に礎石がここそこに、現代人からすれば各間がやや狭いようにも感じられますが、当時の暮らしが思い描けるこういった施策は喜ばしいです。

青葉城資料展示館では閉館間際の最終上映、シアターでの仙台城の紹介映像にギリギリセーフです。
ただ一人の貸し切り状態で、CG映像による仙台城の紹介を堪能させていただきました。
この映像を先に見るか、後で見るかは微妙なところではありますが、仙台市博物館のある三の丸跡、大手門に脇櫓、中門、詰門、そして本丸と歩いてきたところを後で確認した方が実感がわくのではないかと、どちらかと問われれば後で、をお奨めします。

そして仙台城跡と言えば伊達政宗の騎馬像、ぐらいに有名な存在ですが、夕方ともなれば逆光でこの始末です。
ただでさえ高いところにある銅像はなかなか上手く写真が撮れないところでの逆光ですので、これはもうどうにもなりません。
翌日の朝イチに出直そうと、そう誓ってこの日の締めくくりとしました。

旅も最終日、その朝イチでの写真はこんな感じです。
前日に比べればかなりマシではありますが、それでも政宗のその表情は見て取れません。
このあたりがコンパクトデジカメの限界なのか、しかし一眼レフを使いこなす技倆も甲斐性もありませんので、身の丈にあった撮影をするのみです。

先にご紹介をしたとおり、この騎馬像は2代目となります。
意外に歴史は浅く、初代は政宗の三百回忌にあたる昭和10年に建立され、昭和18年とも19年とも言われていますが、僅か10年にも満たないうちにその姿を消すこととなりました。
戦後に今はかつて政宗が居城としていた岩出山城跡に移されている立ち姿像が造られましたが、市民の復元要望により昭和39年に2代目の登場となります。
仙台市博物館にある初代とうり二つですがそれも当然、保存をされていた石膏原型を元に造られていますので、完全復活と言ってよいのでしょう。

仙台城跡を後にまず向かったのは東昌寺、伊達氏の最初の菩提寺です。
伊達氏4代の政依が創建をした伊達五山の一つで当初は桑折にあり、伊達氏が本拠を移すとともに岩出山を経て仙台に至ります。
政依までの伊達氏には菩提寺がなかったことで、政依は初代朝宗を祀りその墓のある満勝寺、初代の夫人を祀った光明寺、政依にとっての父母である3代目義広夫妻を祀った観音寺、興福寺を創建しましたが、しかし2代宗村のそれが無いのには違和感が強く、年代的に見ての朝宗と宗村の同一人物説を裏付けているような気がしないでもありません。
観音寺と興福寺は資福寺に吸収をされてその後に覚範寺が分かれましたので、今は北山五山と呼ばれるかつての伊達五山は東昌寺、満勝寺、光明寺、資福寺、覚範寺です。

こちらには伊達虎千代丸と大有康甫の墓があります。
虎千代丸は忠宗の長男で、しかし7歳で早世をしたことで次男の光宗が、その光宗も若くして世を去ったことで六男の綱宗が3代藩主となったとは松島の巻でご紹介をしたとおりです。
大有康甫は稙宗の子で晴宗の弟、つまりは政宗にとっての大叔父にあたり、東昌寺の14世の住職でした。
これは一子出家すれば九族天に生ず、ある意味で殺戮を生業としている戦国武将ですので、子弟から出家をさせることは珍しくありません。
一時期に林泉寺に入れられていた上杉謙信もそうですし、武田信玄にも出家をした弟がいます。
写真は左が大有康甫、右が虎千代丸です。

伊達村任は綱宗の次男、綱村の同母弟で、留守政景に始まる水沢伊達氏に養子に入ったことで留守村任とも呼ばれています。
その後に兄から3万石を配されて水沢伊達氏から離れて仙台藩の内分支藩である中津山藩を興しますが、家中の者が旗本といざこざを起こしたことで改易をされてしまいました。
長男の村詮が川崎要害を任されて川崎伊達氏として一門に名を連ねましたが、村任は晩年まで罪を許されることなく不遇な後半生を過ごすこととなります。
ちなみに立藩の際に村和と改名をしていますので、伊達村和の方が通りがよいかもしれません。
この墓所がなかなか見つからず、分かってみれば目立つところにあったのですが住職の方に過去帳まで引っ張り出していただき、いろいろとお世話になりました。

光明寺は東昌寺の目と鼻の先にあります。
やはり伊達五山、北山五山の一つですが、支倉常長の墓があることで有名です。
この辺りは多くの寺院が連なっているためにかなり込み入っていて、すぐそこにあるのになかなか近寄れないというジレンマに苦しみました。
途中で諦めて自転車を放置しての裏手の狭い道から、といった感じで、写真はぐるっと回り込んでのものとなります。

常長は前述のとおり慶長遣欧使節の副使として名高く、その末路が悲惨であったことも名が知れている理由でしょう。
孫の代に再興はされたものの家臣にキリシタンがいたことで一時期に家名断絶となりましたし、病没とされていますが実のところ詳しいことは分かっていません。
幕府の目を避けるために政宗により軟禁状態にされたとも言われていますし、その苦労は報われなかったことになります。
正使であったルイス・ソテロも捕らえられて火刑に処せられてしまい、こちらにあるのはその供養墓なのでしょう。
写真は左が常長、右がソテロです。

覚範寺も北山五山の一つで、伊達輝宗の菩提寺でもあります。
伊達五山と北山五山の関係がそれなりに複雑なので分かりづらいのですが、覚範寺の元であるこちらも北山五山の一つである資福寺、しかし仙台のそれではなく山形の資福寺跡には輝宗、殉死をした遠藤基信らの墓がありますので、山形に行ったときには絶対に外せません。
こちらには輝宗の正室、政宗の母である岩下志麻の保春院、政宗の三男の宗清の墓があります。

保春院こと義姫は最上義守の娘で、つまりは出羽の驍将、義光の妹になります。
兄妹仲はかなり良かったらしく相当数の手紙が残されており、その手紙から義光が「よしあき」だと分かったとはwikipediaからの受け売りです。
政宗の弟、次男の小次郎を偏愛して家中が割れる原因を作り、また小田原参陣の際に政宗の毒殺を図って失敗をしたことで兄の元に出奔、それが原因で小次郎は政宗に切られたとは独眼竜政宗でも描かれていましたし、烈女のイメージが一般的でしょう。
しかしその後は政宗との交流もあり、山形藩が改易となったときには仙台藩に身を寄せて、穏やかな晩年を過ごしたとも言われています。
宗清は母の実家である飯坂氏を継ぎましたが子がないままに35歳で没し、2代後の養子が原田甲斐の次男であったことから家も潰れてしまいました。
その墓は宗清が拠った吉岡要害の側にある天皇寺にありますので、見つけられなかった松島のそれと同じく供養墓なのでしょう。
写真は左が宗清、右が保春院です。

写真を撮るのを失念した輪王寺には、伊達竹松丸と密乗院の墓です。
竹松丸は政宗の八男で、正室の愛姫にとっては三男にあたりますが、7歳で夭折をしてしまいました。
密乗院は愛姫の母で相馬顕胤の娘、母は伊達稙宗の娘ですから政宗とも遠縁にあたります。
立派な説明板はありましたがどれが誰かの案内が無かったために、事前に先達の方々の情報を得ていて助かりました。
写真は左が密乗院、右が竹松丸です。

永昌寺には保春院の灰塚です。
灰塚と文字だけをなぞれば荼毘に付されたときの灰をイメージしてしまいますが、そういうものではありません。
これは伊達氏に特有の葬送で、当主やその夫人が没した際には直ちに埋葬をして、四十九日に寺ではない原野を葬場として遺骸のない空棺で葬礼を行い、その棺を焼いた灰を埋納して塚を築き、多量の土で饅頭状に覆ったものを灰塚と称しています。
右の写真のこんもりと盛り上がったところが灰塚で、この灰塚があることで後に創建をされたのが永昌寺になります。

大願寺にある伊達政宗の灰塚も同様です。
こちらはさすがに規模が比較にならず、ちょっとした古墳のような趣きがありました。
土塁と堀が巡らされている20メートル四方ぐらいの敷地は鬱蒼としており、たかが棺桶の灰、とは思えないぐらいの神々しさがあります。

探すのにとことん苦労をした原田甲斐屋敷門は、荘厳寺の山門です。
この荘厳寺を事前リサーチしきれずに住所だけを頼りにうろちょろして、困った挙げ句にお寺の方なら詳しいだろうと聞いてみれば「うちの山門です」と笑われてしまいました。
三間一戸の薬医門で、原田甲斐の屋敷門を移設したものと伝えられており、伊達氏にとっての逆臣の門であることから「逆さ門」と呼ばれています。
ただ実際のところは解体修理工事の際の調査で、理由は不明ながらも柱材の上下を逆に、また左右の位置を入れ替えて建て直したことからの謂われであることが判明しています。

宮城県知事公館の正門は、仙台城の中門を移設したものと言われています。
しかし中門は二階門であるのに対してこちらは切妻造りの四脚門で、実際にどこにあった門かは分かっていません。
それでも仙台城の面影を伝える数少ない遺構の一つで、ただ建築年代は幕末ではないかと見られています。

できれば一本にまとめたかった仙台の巻ですが、あともう少しというところで文字数制限に引っ掛かってしまいました。
仕方がないので不細工ではありますが、仙台城の章と瑞鳳殿の章に分けることとします。
こちらでご紹介をさせていただいた墓についての系図もまとめて次なる瑞鳳殿の章で掲載をいたしますので、後日にご確認をいただければと思います。


ブログランキング・にほんブログ村へ
一日一クリック応援をお願いします。


【2015年4月 福島、宮城の旅】
笑顔咲くたび伊達な旅
笑顔咲くたび伊達な旅 旅程篇
笑顔咲くたび伊達な旅 旅情篇
笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 二本松の巻
笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 福島の巻
笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 白石、名取の巻
笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 船岡、亘理、多賀城の巻
笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 松島の巻
笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 仙台の巻 瑞鳳殿の章
笑顔咲くたび伊達な旅 アクシデント篇
笑顔咲くたび伊達な旅 グルメ篇
笑顔咲くたび伊達な旅 スイーツ篇
笑顔咲くたび伊達な旅 おみやげ篇