
天気が崩れないうちにと急いで向かったのが首里城跡で、中城城跡と同様に世界遺産に登録をされています。
ただ正殿も含めた大半の建築物は1990年代以降の再建ですので、これらは世界遺産には含まれていません。
戦災で焼失をしたのであれば諦めもつきますが、敷地内に大学を建設したことによって失われたものも多いとのことで、その軽率さに何とも情けなくなります。
ただこれは他の城跡も似たようなもので、かつては城跡と言えば動物園みたいなところも多かったのですが、最近の歴史を重んじる流れと言いますか観光客の誘致に利用をしようとの下心があるにせよ、保全や再建といった動きが出てきていることを前向きに歓迎をしています。
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首里駅から首里城に向かって歩いて行く途中にあるのが、この中城御殿跡です。
尚氏の跡継ぎが住んだ御殿があった場所で、かつてはここに沖縄県立博物館がありましたが現在は別の場所に移転をしています。
今年の1月まで発掘調査をしていたようですが現在は終了をしており、広い敷地にぽつんとテントがあるだけで人影は見られませんでした。
まず最初に出迎えてくれるのは、首里城のシンボルとも言われている守礼門です。
今や幻と化した二千円札に印刷をされていましたし、他の門とは違って1950年代に再建をされたこともあってか沖縄県の指定文化財となっています。
この朱塗りの門を見ることで他の日本の城との違いを、中国文化が色濃く反映をしていることを感じる第一歩となりました。
その守礼門を抜けた左側にあるのが、この園比屋武御嶽石門です。
やや地味な感じがあるので目を留める人は少ないようですが、この石門が首里城跡と同格の扱いで世界遺産として登録をされています。
石門の裏が園比屋武御嶽で尚氏の当主が拝礼をした聖地であり、帰り際に寄ってみるとお年寄りが座り込んで拝む姿を見ることができました。
ここから正殿に向かって登っていくことになりますが、まずは歓会門がその入口になります。
首里城にかかる簡単な説明板があり、また城壁が見えてきますので城という感じが高まってきます。
石門になっているのは中城城と同じで、おそらくは沖縄の城の特徴なのでしょう。
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歓会門を抜けると瑞泉門、漏刻門、広福門と続きますが、やはりいずれも朱塗りの中国風の門となっています。
その歴史からすれば当たり前なのかもしれませんが、何とも言えない雰囲気が漂います。
逆に言えば島津氏に征服をされながらも独自の文化を守り続けてきたことを、素晴らしいことだと称えなければならないのかもしれません。
広福門をくぐると下之御庭に出ます。
ここには首里森御嶽があり、同じような拝所が首里城には10箇所あることで十嶽と呼ばれていたそうです。
このあたりの信仰の深さは現在の日本では失われたものでしょうし、信仰とは無縁の世界で生きてきた自分にもピンとこないのが正直なところです。
この下之御庭に券売所があり、ここから先が有料となります。
おそらくは最大の規模を誇るのが下之御庭と正殿のある御庭を区切る奉神門で、正装に身を固めた係の方が切符をもいでいました。
門と言うよりは回廊のような感じがありますが、中央の門は尚氏の当主など身分の高い人だけが通れるものだったらしく、そこが現在の通路になっているのが微妙だったりもします。
そしていよいよ正殿です。
やはり日本文化とは違った、まさに中国文化が息づいているといった感じです。
映画などで見る紫禁城にも似た感じで、ここまでくるとここは日本ですかと言いたくもなります。
おそらくはその中国からも多くの観光客が訪れているのでしょうから、また妙な動きをしそうな感じがしないでもありません。
正殿には南殿から入ってぐるっと回るのですが、その途中から見えるのが二階御殿です。
尚氏の当主が普段の住居としていた場所で、残念ながら一般公開はされていないようです。
工事車両のようなものが見えましたので、もしかしたら補強工事などをしていたのかもしれません。
そして極めつけがこの玉座とも呼ぶべき場所で、まさに中国の皇帝が座っても違和感はないぐらいの代物です。
両側に龍が鎮座をしていますし、これまで意識的に「尚氏の当主」と書いてきましたが、やはり実態は「琉球王国の国王」なのでしょう。
そもそも椅子という時点で日本の文化とは相容れないところがありますし、ここに座れば「朕」と言っても不思議ではありません。
さらにぐるっと回って北殿に至ると中は売店になっていましたが、その一角に正殿の模型が展示をされていました。
どうやら中国からの冊封使を迎えるところを再現したもののようですが、島津氏に征服をされた後も表面上は独立国として中国との両属状態だったようです。
おそらくは島津氏も密貿易などのために、あまり露骨な強権発動ができなかったのでしょう。
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正殿を囲むのが北殿、そして南殿です。
南殿から入ってぐるっと回って正殿に至り、そこから北殿まで歩けば出口があります。
鮮やかな朱塗りの北殿に比べて地味な感じのある南殿ですが、その北殿は外壁を塗り直している途中らしいので、近いうちに南殿も装いが変わるかもしれません。
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そうこうしているうちに雲が厚くなってきたので、少し慌てながら他の門を見て回りました。
正殿から降りていくとどうしても通らなければならない門なので実際のところは見て回るという程のこともないのですが、とにかく雨にでも降られたら最悪です。
淑順門、右掖門、久慶門とやや駆け足で通り過ぎていったのですが、結果的に1時間ほどもしたら晴れ間が戻ってきたので大失敗ではありました。
久慶門を抜けた後は来た道を戻って守礼門に至るという選択肢もあったのですが、それでは面白くないので首里城の外側をぐるっと回る散策コースを歩いてみました。
途中で継世門がありましたが通り抜けることはできず、その後はやや道に迷いながらも城壁を頼りに30分ほど時計回りに歩いて元の場所に戻りました。
結果的にこの散策の間に天気が回復をしましたので、まさに失地挽回といったところです。
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そして今さらながらの首里城跡の石碑と、見落とすところだった木曳門です。
この木曳門は普段は石などを詰めて城壁のようにしてあり、工事などで建設資材を搬入するときだけ開けられたとのことです。
そのためか他の門とは違って櫓のような建築物はなく、ただの石門になっています。
首里城から10分ほど歩いたところに、尚氏の墓所である玉陵があります。
第二尚氏の陵墓であり、こちらも世界遺産に登録をされている史跡ですが、戦災でかなりダメージを受けた後に大部分が復元をされたものです。
このあたりは日本100名城の選定と同様に、何が基準となるのかがよく分かりません。
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さすがに当主の墓所ともなると造りが大層になり、二重の壁に囲まれています。
壁と壁との間にはかなりの広さがあり、おそらくは墓参りなどをした際にお供の人たちが待っていたりする場所なのでしょう。
それにしても平日ながらも人っ子一人いない世界遺産とは、何とも言えない幸せに浸らせていただきました。
この玉陵には3つの石室がありますが、残念ながら鍵がかかっていて中には入れません。
どうやら当時の沖縄、琉球と言った方が正しいのかもしれませんが、火葬や土葬の風習はなかったようです。
真ん中の中室に遺体を安置して骨になるまで数年を待ち、洗骨をした上で骨壺に入れて当主とその奥方は東室に、他の一門は西室に納められました。
玉陵の敷地内にある資料館には骨壺の写真と位置関係の資料があったのでもしかしたら中に入れるのかと期待をしたのですが、そんなわけもありませんでした。
その玉陵の脇には東の御番所があり、古い写真などが展示をされていました。
この御番所は法事の際に当主の控え室などとして使われていたようですが、あまりに真新しくて玉陵とのギャップが大きく、単なる建物にしか感じられませんでした。
反対側には西の御番所の跡がありましたが、こちらの方がいろいろと思いを馳せるのには充分な感じがします。
首里で最後に目にしたのがこの東の御番所だったことは、勝手な言い分ではありますがちょっと残念ではありました。
【2011年9月~10月 沖縄の旅】
ハジミティヤァーサイ沖縄
ハジミティヤァーサイ沖縄 旅情篇
ハジミティヤァーサイ沖縄 旅程篇
ハジミティヤァーサイ沖縄 史跡巡り篇 中城の巻
ハジミティヤァーサイ沖縄 史跡巡り篇 今帰仁の巻
ハジミティヤァーサイ沖縄 グルメ篇
ハジミティヤァーサイ沖縄 おみやげ篇
お疲れ様でした。
長崎が『異国情緒』なら
琉球はまさに『中国色』以外の何でもありません(笑)
オリオン様の仰るように、首里城は復元された城であるため、
地元の人間からすると正殿なんて、1度金を払って観たら
2度3度と観るものではありませんし…
しかし、地元の人でも歴史に詳しくないと
知らないような所や、隅々まで目を行き渡らせて記事を書いておられる
オリオン様の観察眼(?)はうらやましいです。
自分もそういった目線や力があれば、
色々と苦労も楽しさに変えれるのでしょうけど…(苦笑)
駄文、失礼致しました。
沖縄旅行記ありがとうございます。英語だと、「うどぅん(御殿)」がパレス、「ぐすく(城)」がキャッスルに該当するのかなと思います。先日の中城はいかにもキャッスル(要塞)っぽいですね。日本でパレス(宮殿)に該当する建造物は、皇居と京都御所と首里城しか思いつきません。
首里城は中国っぽいですが、紫禁城よりも赤を多用している感があり、亜熱帯の明るさ・湿潤さを感じます。『琉球の風』のオープニングでは、木立の中のご神体の前で聞得大君たちが礼拝しているシーンが出てきます。御嶽石門の向こうはこうなっているのかなと思いました。
>島津氏に征服をされた後も表面上は独立国として中国との両属状態だったようです。
>おそらくは島津氏も密貿易などのために、あまり露骨な強権発動ができなかったのでしょう。
両国に翻弄されてきた琉球ですが、両国を手玉に取った面もあったのかもしれません。独自の文化を維持していることからも、琉球人は、健気で純朴でただおろおろと翻弄されるだけの人たちではないと思います。沖縄県内の高校が集まって、塁間送球やベースランニングのタイムを競う競技会を開催している(離島は記録提出でも可)ことからは、「沖縄全体で強くなるんだ」という姿勢を感じます。
お身体ご自愛ください。
以前は守礼門しかなく、「なんちゃって城跡」とも呼ばれていたそうで・・・
それでもあそこまで再建をしてくれたことは、素晴らしいことだと思います。
申し訳ないながらもさほどの興味がなかった沖縄の城も、いろいろな楽しみがあることを知りました。
食わず嫌いはダメですね、いろいろと(笑)
>ぷりなさん
何となくそんな気はしているのですが、口が裂けてもそれを理由にできません。
遊びで体調を崩したなんて言うなよ、と釘を刺されていますので(笑)
御殿と城の表現、なるほどです。
皇居はさりげなく行ったことがないので何とも言えませんが、外側だけを見れば城なのかなと。
むしろ二条城の方が御殿に近いかもしれません。
支配をされる側の逞しさ、は仰るとおりだと思います。
面従腹背なところもあったのでしょうね。